第37話 結界の向こうに
小海に近づくと、思いがけない光景が目の前に広がっていた。
水面のあちこちを、小さな竜巻が滑るように行き交っている。
それらは海から魚を吸い上げると、そのまま岸辺へと移動し――水だけをふっと弾き飛ばし、魚だけを選り分けるように網籠の中へ落としていく。
宙に浮かぶ大きな網籠は、ぱっくりと口を開けたまま。
次々と魚が放り込まれ、ぴちぴちと跳ねていた。
何度見ても、不思議な光景だ。
まるで自然そのものが、漁を手伝っているみたいだった。
「こんにちは!」
声をかけると、
「あ、イオリ様とリク!」
ラウロがこちらに気づき、小走りで駆け寄ってくる。
「ラウロ、さかな、いっぱいとれた?」
理玖が弾む声で尋ねた。
「ああ、今日は大漁だ。マグロもあるぞ。寿司も食えるな」
「しゅし! かあしゃん、しゅしだって!」
理玖の瞳が、ぱっと輝く。
その様子に、思わず笑みがこぼれた。
「おお、イオリ様、リク様。お散歩ですかい?」
豪快な声とともに近づいてきたのはロッソさんだった。
「ちょうどよかった。獲れたてを持っていくといい。ああ、そうそう、今日はエビもありやすぜ。イオリ様、エビはお好きですかい?」
「もちろん、大好きよ!」
思わず前のめりになって答えてしまう。
――エビ。
私の大好物のひとつだ。
この世界にも存在していたなんて。
思わず神様に感謝したくなる。
「ハハハッ、そりゃよかった。じゃあ多めに持っていきな」
「ありがとう……ございます」
勢いよく返事をしてしまったのが急に恥ずかしくなり、語尾が小さくなる。
ふと理玖の方を見ると、ラウロと一緒に網籠の中をのぞき込み、ぴちぴち跳ねる魚に歓声を上げていた。
陽射しを受けてきらめく水しぶき。
楽しそうに笑う理玖の声。
胸の奥に、じんわりとした幸せが広がる。
「実は今日、理玖の三歳の誕生日なんです。それでマーラさんに話したら、みんなでお祝いしてくれるって言ってくださって」
「なんと! リク様の誕生日か。そりゃあ、こうしちゃいられねえな」
「そうだな。よし、今日はここまでだ。魚もかなり獲れたしな。みんな、もう撤収するぞ」
ロッソさんの言葉に頷くと、ラフさんが周りの男たちに声を張り上げた。
「えっと……もういいんですか? なんだか邪魔しちゃったみたいで……」
私が申し訳なさそうに言うと、
「いいんだ、いいんだ。みんな、なんでもいいから口実があれば宴会できるってんで大喜びなんだ」
「そうそう。特に冬場はみんな暇してるからな」
「それなら……よかったわ」
みんなが理玖の誕生日を祝ってくれる。
たとえそれが宴会の口実だったとしても、やっぱり嬉しい。
そのときだった。
森の奥に、ちらりと白い影が目に映った。
私は思わず目を凝らして、小海を囲む木々の方へ視線を向ける。
結界の向こう側――地面にはまだうっすらと雪が残っているものの、枝に積もっていた雪はすっかり溶け、森はどこか寂しげな姿をさらしていた。
風もないのに、木々の間に何かが動いたように見える。
見間違い……じゃないよね。
ドキドキと心臓が高鳴り、体に緊張が走る。
すると――
一本の太い木の陰から、こちらをじっと見つめている姿を見つけた。
小さな子供だ。
真っ白な髪。
体には毛皮のようなものをまとっている。
「え……子供?」
思わず呟くと、隣でラフさんがそちらを見やった。
「ああ、どうやら白狼族の子らしいな。珍しいな。この時期にここまで来るなんて」
ラフさんは首を傾げ、小さな白い影に目を向けた。
だが、ラウロは顔をしかめながら口をひらく。
「ガキでも油断するな。今度は子供を使って何か企んでるのかもしれねぇ」
辛辣な言葉だった。
けれど――
私はもう一度、その子供を見つめた。
幼い。
見た目は人間の四、五歳くらいだろうか。
理玖より、ほんの少し上くらい。
「イオリ様、心配いりませんぜ」
ロッソさんが笑って言う。
「結界がありますからね。あっちからこっちには入ってこられねぇですよ」
けれど、私が気になっていたのは――そこじゃなかった。
だって、どう見ても、あの子は――
こんな森の奥に、たった一人でいるような年齢には見えなかったからだ。
どうして……子供があんなところに……
親はどうしたのだろう。
「さあ、イオリ様、行きましょう」
「ええ、そうね」
ラフさんに促され、私は工房へ戻るために踵を返した。
――けれど、ふと気になってもう一度だけ振り返る。
小海の向こう、木々のあたりへ視線を向けると――そこには、さっきとは違う姿があった。
この前見かけたのと同じ、がっしりとした体格の白髪の男。
白狼族の男が、あの小さな子供をひょいと肩に担ぎ上げているところだった。
もしかしたら、あの子の父親なのかもしれない。
よかった……一人じゃなかったのね。
胸の奥にあった小さな不安がすっとほどける。
私はほっと息を吐いた。
「かあしゃん、どうしたの? はやくいこう」
理玖の声に呼ばれ、私は前を向く。
「ええ、今行くわ」
そう答えて、小さな手を握り直し、みんなの後を追って歩き出した。




