第33話 きになる米
「かあしゃん! かあしゃん、だいじょうぶ?」
はっと目を開けると、理玖がすぐ目の前に立っていた。
大きな瞳が潤み、今にも涙がこぼれそうになっている。
キッチンの床にへたり込んだまま少しだけ休んでいただけなのに……
「ああ、理玖……大丈夫よ。たぶん、魔力を使いすぎただけだから」
できるだけ優しく、安心させるように微笑みかける。
けれど、その言葉とは裏腹に、理玖の瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「かあしゃん、やだよ……しんじゃやだ!」
泣き叫びながら、勢いよく私にしがみついてくる。
小さな腕が、必死に私の服を掴む。
――え?
いくらなんでも、大げさすぎる。
「理玖、心配しないで。ちょっとめまいがしただけよ。少し休めば、すぐ元気になるから」
そう言っても、理玖は首を横に振るばかりだ。
「かあしゃん、やだ……いかないで……おれを、ひとりにしないで……」
異様なほど強い力で、ぎゅうっと抱きついてくる。
私は戸惑いながらも、その小さな体を抱きしめ返した。
「大丈夫。どこにも行かないよ。ここにいる」
背中をゆっくり撫でる。
何度も、何度も。
どうしたのだろう。
今まで、こんなふうに泣き叫ぶことがあっただろうか。
私が座り込んだのが、よほどショックだった?
でも、ただ床にへたり込んだだけだ。
意識を失ったわけでもない。
それなのに――このまま二度と会えなくなるのを恐れているかのような泣き方。
やがて、理玖は泣き疲れたのか、私の胸に顔を埋めたまま静かになった。
規則正しい寝息が、かすかに聞こえる。
私はその頭をそっと撫でながら、ただ困惑するしかなかった。
……夜中のうなされる声と、関係があるのだろうか。
胸の奥に、小さな不安がまたひとつ、積もっていくのを感じていた。
理玖は目を覚ましたあとも、私の服をぎゅっと握ったまま離れなかった。
立ち上がっても、歩いても、椅子に座っても。
片手は必ず私の服の裾を掴んでいる。
まるで、少しでも手を離せば、私が消えてしまうとでも思っているかのように。
――こんな知らない世界に来て。
小さな体で、どれだけの不安を抱えていたのだろう。
まだ、やっと三歳。
未知の世界は、きっと知らず知らずのうちに重荷になっていたのだ。
それでも翌朝になると、昨日の出来事が嘘だったかのように、理玖はいつもの明るい笑顔を向けてきた。
「かあしゃん、おはよ!」
無邪気な声に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
いつも通りの元気な理玖にほっとした私は、気分転換も兼ねて工房へ行くことにした。
マーラさんたちに、昨日作ったアロウ軟膏とローションを渡そうと思ったのだ。
外へ出かけると聞いた瞬間、理玖の顔がぱっと輝いた。
「おでかけ?」
昨日までの不安の影はどこへやら。
小さな手が、今度は楽しげに私の指を握る。
その温もりを感じながら、私はそっと息をついた。
どうか、今日は穏やかな一日になりますように――。
私は心の中で小さな祈りをした。
「こんにちは!」
工房の扉を開けると、あたたかな空気と一緒に、糸と布の匂いがふわりと漂ってきた。
「あら、イオリ様。雪道をここまでいらしたんですか? リク様もまだお小さいのに、よく……」
顔を上げたマーラさんが、感心したように目を細める。
「ええ。ラウロが家まで雪かきをしてくれたおかげで、とても歩きやすくて。助かりました」
「そうかい、あの子が役に立ったならよかったよ。そうだ、先日、ラウロとシュシュに珍しい料理をご馳走してくれたと喜んでましたよ。今度あたしにもその料理教えてくださいな」
「もちろんです。そんなに喜んでもらえたならよかったです」
私はマーラさんにそう言ってもらって、自分の役割ができたようで頬が緩みそうになった。
「それよりもちょうどよかった、そろそろ出来上がってるころだから、イオリ様もリク様も一緒に食品工房へ行きましょう」
「出来上がってるって……?」
私は首を傾げた。
「まあまあ、行けば分かりますよ」
「イオリ様、リク様、こっちだよ!」
そのとき、ちょうど隣の建物から顔を出したシュシュが叫んだ。
「さあさあ、早く、早く」
私と理玖は促されるまま、食品工房の中へ足を踏み入れた。
「それ、よいしょ! よいしょ!」
たくさんの小人たちの掛け声。
どこか甘く、蒸した穀物の香り。
それと共に奥から、ぺたん、と何かを打ちつけるような音が聞こえた。
「あら、イオリ様。ちょうどよかったわ」
アロアさんが奥から顔を出した。その後ろで、白い湯気がふわふわと立ちのぼっている。
「おお、イオリ様、リク様」
「なに? イオリ様にリク様だと?」
次いで、ロッソさんとラフさん、それに他の小人たちも奥から顔を出した。
「今ね、お餅ができあがったところなんですよ」
「そうだ、餅、食っていくといい」
「……お餅?」
アロアさんとロッソさんの言葉に胸の奥が、どくん、と跳ねた。
次の瞬間、木の台の上に、つやつやと光る白い塊が置かれる。
まだ湯気をまとい、柔らかそうに揺れている。
「じゃあ、俺たちは村のみんなにお餅を配ってくる」
「イオリ様、リク様、ゆっくり食べていくといいよ」
ロッソさんとラフさん、それに他の小人たちは餅を布のような物で包んで外に出て行った。
「おもちー、ぷにぷに!」
理玖が嬉しそうに指でつつくと、むに、と沈み、ゆっくり戻る。
「この時期はね、これを食べるのが習わしなんですって。先代賢者様が教えてくださったそうで」
先代賢者。
「ええ。この時期はお餅を食べるのだと、先代賢者様がおっしゃっていたそうですよ。米を潰して丸めるのだとか。この村では、雪が数日続いたあとに食品工房で作って、みんなに配るのが習わしなんです」
アロアさんは誇らしげにそう説明した。
驚きで、しばらく言葉が出ない。
確かに日本では、お正月にお餅を食べる。
でも――気になったのは、“雪が数日続いたあと”という言葉だった。
尋ねてみると、毎年この時期には必ずそういう日があり、先代賢者はそれが日本の正月とちょうど重なるのだと言っていたらしい。
……本当に、この世界と日本はどこかで繋がっているのだろうか。
もしそうなら――帰る方法も、どこかにあるような気もする。
もう一度、賢者の家にある本を片っ端から読み漁ってみよう。
何かヒントがあるかもしれない。
それにしても。
「お米を潰して、お餅に……?」
胸の奥に、別の疑問が浮かぶ。
それ、餅米じゃないよね?
そもそも、この世界で見た“米”は、日本のものとは少し形が違っていた。
思い切って尋ねると、アロアさんはあっさり答えた。
「春になると“米の実”が森の中の木に成るんですよ。それを蒸して潰すと弾力が出てもちもちするんです」
「……木?」
私は瞬きを忘れた。
――それは、私の知っている“米”じゃない。
頭の中に、日本の黄金色の稲穂が浮かび、それが音を立てて崩れていく。
この世界は、思っていたよりもずっと、別の理で動いているのかもしれない。
……春になったら、ぜひとも自分の目で確かめたい。
なんだか、とんでもない神秘に触れてしまった気がして、私はしばらく言葉を失っていた。




