第32話 私の魔法
今日は、アロウ軟膏に続いてアロウローションを作ってみることにした。
ちびちび使っていた化粧水が、ついに底を突いてしまったのだ。
この乾燥する季節に何もなしでは心もとない。
よし、と気合を入れて準備を始めた、そのとき。
ガラガラッ……!
積み木が崩れる音が、部屋に響いた。
「あーあ……」
音のした方を見ると、理玖が崩れた塔の前でがっくりと肩を落としている。
その積み木は、ラフさんが作って持ってきてくれたものだ。
小人族の子どもたちが室内で遊ぶ定番のおもちゃらしいが、普通のものでは小さすぎるだろうと、わざわざ理玖の手に合う大きさで作ってくれた特別製だ。
どうやら、どこまで高く積み上げられるか挑戦していたらしい。
崩れた山を前に、悔しそうに唇を尖らせている。
けれどすぐに気持ちを切り替え、また一つずつ積み始めた。
夢中で遊ぶその姿に、私はそっと胸をなで下ろす。
……少なくとも今は、楽しそうだ。
私はキッチンに向き直り、作業を続ける。
アロウの葉から透明なゼリー部分を取り出し、布で丁寧にこす。
とろりとした液体が器に落ちていく。
そこへ、あらかじめ一度沸騰させて冷ましておいた水を、少しずつ加えて混ぜていく。
本当は精製水を使うと聞いたことがあるけれど、そんなものはない。
だからこれは、いわば苦肉の策だ。
木べらで、ゆっくり、ゆっくりとかき混ぜる。
――肌がツヤツヤになりますように。
半ば冗談めかして、そんな願いを込めた、その瞬間。
ふわり、と。
器の中のアロウ液が、淡く光った。
「あ……まただ。今度は、気のせいじゃない」
はっきりと見た。
器の中の液体が、確かに淡く光った。
もしかして、私の魔力が流れた……?
でも、どうして?
呪文なんて唱えていないのに。
――あ。
もしかして、願いが呪文の代わりになったとか?
うーん……よくわからない。
でも、他に思い当たることもない。
ひとまず、そういうことにしておこう。
出来上がったアロウローションを手のひらに取り、腕に伸ばしてみる。
少し青臭いけれど、さらりとした液体がすっと肌になじむ。
数秒もしないうちに、腕がしっとりと艶を帯びた。
「おおっ……願いが効いた?」
半信半疑のまま、今度は別の願いを口にしてみる。
「青臭さがなくなりますように」
そう言ってから、もう一度ゆっくりとかき混ぜた。
すると、一瞬、液体が淡く光り、すぐに何事もなかったかのように収まった。
やっぱり……
静かな部屋に、積み木を重ねる小さな音が、こつ、こつ、と響いている。
私は、器の中をじっと見つめたまま、胸の奥にわずかなざわめきを感じていた。
恐る恐る匂いを確かめる。
「本当に無臭になってる!」
さっきまであった青臭い匂いが、きれいに消えていた。
胸がどくん、と大きく跳ねた。
これって、魔法?
もしかして……これが、私の魔法?
今まで、理玖よりも魔法がうまく使えなかった私が。
何もできないと思っていた私が。
こんな形で力を使えるなんて――。
ふと、窓辺の鉢植えに目が向く。
だいぶ葉が減ってしまったアロウが、静かにそこに佇んでいる。
……試してみよう。
うまくいく保証なんてない。
でも、もし本当に“願い”が力になるのなら。
私はそっとアロウに手を触れ、目を閉じた。
「早く成長しますように」
次の瞬間。
ふわり、とアロウが淡く光る。
そして――
「えっ……?」
葉の付け根から、小さな芽が顔を出した。
それがみるみるうちに伸び、広がり、肉厚な葉へと育っていく。
一本、また一本と、新しい葉があちこちから現れ、あっという間に鉢いっぱいに広がった。
私は呆然と立ち尽くす。
……本当に、成長した。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
これは偶然なんかじゃない。
――願いが、叶ったのだ。
「かあしゃん、すごい! はっぱ、いっぱいになったね」
「そうだね、理玖!」
いつの間にか隣で、まんまるな目でアロウの鉢を見ていた理玖を抱きしめる。
「かあしゃん、苦しいよ」
「ああ、ごめんねぇ、つい、嬉しくて」
私の魔法は、“願うこと”で発動するのだろうか。
けれど、先代賢者が残してくれた魔法の書には、そんなことは一言も書かれていなかった。
やっぱり、あれは賢者向けの本だったということ?
基礎すら満足に使えない私には、前提が違いすぎたのかもしれない。
……まあ、いい。
考えているだけでは進まない。
「ならば……もう一度試してみよう」
今度は、以前マーシャからもらったボールを手に取った。
軽くて、子ども用に作られた柔らかい球だ。
これが浮けば、わかりやすい。
私は集中し、心の中で念じる。
――宙に浮かびますように。
……。
ボールは、ぴくりとも動かない。
「え?」
もう一度、今度は声に出してみる。
「宙に浮かびますように……」
静まり返った部屋に、自分の声だけが響く。
けれど、やっぱり浮かない。
どういうこと?
さっきの光は偶然?
何か条件があるのだろうか。
植物や液体のような“自然のもの”だけ?
それとも、私の気持ちの強さ?
「……わからん」
思わず小さくつぶやく。
うん、深く考えても仕方ない。
わからないことは、詳しい人に聞けばいい。
あとで長老にでも相談してみよう。
それよりも――。
視線は、青々と葉を増やしたアロウへと戻る。
あれだけ増えたなら、軟膏もローションももっとたくさん作れる。
村の人たちに分けてあげられるかもしれない。
乾燥する季節だし、きっと役に立つ。
不思議はまだ解けないままだけれど、胸の奥はどこか明るい。
私は袖をまくり直し、再びアロウを切り分ける。
湯せんの湯気が立ちのぼり、木べらが器の中をゆっくりとかき混ぜる。
みんなが喜んでくれたらいいなぁ。
ほんの少しの期待を胸に、私はアロウ軟膏とローションを、もう一度丁寧に作り始めた。
同じ作業をその後、何度か繰り返す。
アロウを刻み、願いを込め、ゆっくりとかき混ぜる。
そのたびに、淡い光がふわりと宿る。
順調だ。
そう思った、次の瞬間――。
ぐらり、と視界が揺れた。
「……え?」
立っていられない。
足元から力が抜け、私はそのままキッチンの床に座り込んでしまった。
心臓がどくどくと速く打つ。
耳の奥がじん、と鳴る。
なんだか、体がひどくだるい。
重たい毛布を何枚もかぶせられたみたいに、手足が動かない。
――もしかして。
魔力を、使いすぎた?
さっきまでの高揚感が、すっと引いていく。
代わりに、冷たい現実が胸に落ちた。
私はまだ、自分の力をよく知らない。
どれくらい使えば限界なのかも。
無理は禁物だ。
私は深く息を吐き、壁に背を預けた。
「……今日は、ここまで」
小さくつぶやき、作業を切り上げることにする。
鍋の火を止め、道具をそのままにして、しばらく目を閉じた。
キッチンには、かすかにアロウの香りが残っている。
さっきまでの静かな高揚とは違う、じんわりとした疲労が体を包んでいた。




