第29話 理玖の成長
村に、うっすらと雪が降り始めた。
小さな家々の屋根に、白い粉のような雪が静かに積もっていく。
しんと冷えた空気の中で、その光景はどこか懐かしく、胸の奥に柔らかな感情を呼び起こした。
冬になると畑仕事は一段落し、男性陣は家の修理をしたり、小海へ漁に出たりすることが多いという。
しかも冬場のほうが魚はよく獲れるのだとか。
吐く息も白くなる寒さの中での作業を思うと、自然と頭が下がる。
そんなある日、マーラさんが嬉しそうに言った。
「イオリ様のおかげで、みんなにダウンジャケットを作ることができたんですよ。ロッソとラフなんて、すこぶる喜んでましてねぇ」
その言葉に、胸がじんわりと温かくなる。
この世界に来てから、助けられてばかりだった。
ほんの少しでも、役に立てたのなら嬉しい。
気がつけば、ここへ来て二か月以上が過ぎていた。
日本の暦では、今日は十二月二十八日。
もうすぐ理玖は、三歳の誕生日を迎える。
動きもますます活発になり、膝や手の甲には小さな擦り傷が絶えない。
転んでは立ち上がり、また走り出す。その姿が頼もしくもあり、少しだけ心配でもある。
そんな折、先日、マーラさんが持つには大きな鉢植えを宙に浮かせながらやってきた。
「これはねぇ、アロウといって、傷薬になるんだよ。寒さに弱いから、冬場はこうして家の中で育てているのさ。工房にはたくさん保管しているからなくなったらまたあげるよ」
差し出された植物は、日本でよく見かけたアロエによく似ていた。
この世界ではアロウというらしい。名前もよく似ている。
ぷっくりとした葉の中に、透明な汁をたっぷりと蓄えている。
ふと、一緒に暮らしていたおばあちゃんのことを思い出す。
虫に刺されて泣きべそをかいていた私に、葉を割って汁を塗りながら、こう言ってくれた。
「アロエはね、すり傷にもやけどにも虫刺されにも効くんだよ」
あのときと同じ、少し青くてみずみずしい匂い。
遠いはずの記憶が、雪の静けさの中で、不意に鮮やかによみがえった。
そうだ――アロエ……アロウ軟膏を作ろう。
おばあちゃんが、台所で小さな鍋をかき混ぜながら手作りしていた姿を思い出す。
分量も手順も曖昧だけれど、見よう見まねでも、きっとできるはずだ。
どうせ冬の間は家で過ごす時間が長い。
軟膏なら外へも持ち出せるし、理玖が転んだときにもすぐ塗ってあげられる。
そのためには――材料がいる。
私はダウンジャンパーに袖を通し、マーラさんの家へ向かうことにした。
「かあしゃん、おでかけ?」
背後から声が飛んでくる。
振り返ると、部屋でお絵描きをしていた理玖が、こちらを見上げていた。
紙は、引き出しの奥にあった箱から見つけたものだ。
貴重品かもしれないと迷ったが、村の魔導機倉庫にはまだたくさん保管されていると聞き、思いきって理玖に使わせることにした。
ついでに、文字も、少しずつ教え始めている。
日本語がこの世界で通用するかどうかわからないけど、まずはこの部屋にある日本語で書かれた本を読めるようになるのが先だ。
小さな指でぎこちなく線をなぞる姿は、見ているだけで胸が温かくなる。
そのとき、不意に天井が淡く点滅した。
来客を告げる合図だ。
「かあしゃん、だれかきた!」
理玖がぱっと顔を輝かせる。
気づけば、あの舌足らずだった言葉遣いも、ずいぶん滑らかになっている。
まあ、時々、サ行があやしいけど。
でも、三歳を目前にして、確実に成長しているのだ。
嬉しい。
けれど同時に、胸の奥にほんの少しだけ、寂しさがにじむ。
この子は、こうして少しずつ私の手を離れていくのだろうか。
「おれがでる!」
理玖が玄関へ向かって駆け出した。
最近、理玖はラウロの口調を真似て、自分のことを「俺」と言うようになった。
本音を言えば「僕」のほうが品よく聞こえて好きなのだけれど……これも成長の一つだろう。
私は理玖の後に続いて玄関へ向かった。
理玖が扉を開けたその先には、雪の気配をまとった二人が立っていた。
マーラさんとラウロだ。
二人の足元には、布に包まれた食材がいくつも積まれている。
「そろそろ、なくなるころだろうと思ってね」
マーラさんがにこりと笑う。
「ありがとう、マーラさん、ラウロ。寒かったでしょう? さあ、中に入って」
私は急いで二人を招き入れた。
キッチンに行き、湯を沸かす。
夜雫葉のお茶を丁寧に淹れると、ココナッツに似たほのかな甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
このお茶は小人族が昔から愛飲しているもので、体を内側から温め、寒さに強くしてくれるのだという。
「あ、ラウロ。おれ、まほううまくなったよ。ほらね」
理玖が誇らしげにボールを掲げる。
次の瞬間、ふわりと浮き上がり、天井近くまで上昇した。
――その途中で、一瞬だけ、ぴたりと止まる。
まるで、誰かに掴まれたかのように。
「……あれ?」
気のせいかと思った次の瞬間、ボールは何事もなかったように再び浮かび続けた。
「おお、すごいじゃないか」
そう言いながら、ラウロはほんのわずかに眉をひそめた。
だが、それ以上は何も言わなかった。
その様子を見ていたマーラさんが、ふと私の格好を見て尋ねた。
「あら、イオリ様。どこかお出かけの予定でしたか?」
「あ、いいの。ちょうどマーラさんのところへ伺おうと思っていたのよ」
私は、アロエ……じゃなくてアロウ軟膏を作ろうと考えていることを話した。
「アロウ……なんこう、ですか?」
「ええ。傷に効く塗り薬みたいなものなの。それで、できればそれを詰める瓶が欲しくて」
醤油や味噌がガラス瓶に入っていたのを思い出し、余りがないか尋ねてみた。
「ああ、それなら倉庫――魔導機工房にたくさんあったはずよ。あとで持ってくるわ」
「あ、それは悪いわ。私が取りに行くわよ」
「いいのよ」
マーラさんは、くすっと笑ってラウロを見た。
「どうせラウロに持たせるんだから。暇してるし、ちょうどいいわ」
「ちょ、お母!」
抗議の声が上がるが、その顔はどこか楽しそうだ。
暖かな湯気と笑い声に包まれながら、私は胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。
雪が積もる冬の日。
けれど、この家の中は、確かにあたたかい。




