第22話 森の白い影
「白狼族……」
ラフさんが私の視線を追い、その姿を認めると、ぽつりとつぶやいた。
「え? 白狼族?」
私はその言葉で宴の時に耳にしたあの遠吠えを思い出した。
彼らがその遠吠えの正体だと言うのだろうか。
白い髪、白い肌――だが、その立ち姿は完全に“人”だった。
「ああ。今は昼間だから、人の姿をしているんだ」
私の疑問を払拭するようにラフさんが答えると、彼は瞳を細め、森の奥の男たちへ鋭い視線を向ける。
「あいつら、ああやって時々、俺たちの小海を見張っているんだ」
ラウロは拳をぎゅっと握りしめ、あからさまに敵意をにじませながら森を睨んでいる。
ぴり、と空気が張りつめた。
私は震えそうになる体を抑えるように理玖を抱きあげ、腕に力を込める。
理玖は状況がよくわかっていないのか、ただ不思議そうに森のほうに顔を向けていた。
「イオリ様、だが心配はいらんよ」
私の様子に気づいたのか、ラフさんが落ち着いた声で言う。
「おいらたちの村と小海を囲むように結界が張られている。奴らは、せいぜい結界の外からこうして眺めることしかできんのだ」
そして、さらに付け加える。
「しかも今は人の姿だ。……本気は出せん」
安心させるような口調だったが、それでも森の奥の白い影の目的がなんなのかはっきりしないと気になってしまう。
――結界は、あと数年は持ちこたえられる。
長老の言葉が脳裏によみがえる。
数年。
それは長いようで、あまりにも短い。
理玖は、まだ二歳だ。
小さな手が、私の服をぎゅっと握っている。
本来なら、何も知らずにいられるはずなのに――
守られる側のはずなのに――
賢者だなんて、大人たちに期待されて。
理玖の髪を撫でながら、唇を噛む。
待つだけでは、きっと足りない。
あの白い影に対して、自分はあまりにも小さい。
強くならなければ……
理玖を――そして、この場所を失わないために……
私にできることはなんだろうか……
そう思考をめぐらせると、ふと長老が私にも魔力があると言っていたことを思いだした。
ならば……その魔力を利用できないだろうか……
うん、悩んでいても仕方がない。
とにかく、やってみようじゃないか。
今、私が考えつく全てのことを……
私はまだ森に意識を向けるラフさんにお願いすることにした。
「ラフさん。私に魔法を教えてくれませんか?」
意を決して頼むと、ラフさんは困ったように眉を下げた。
「イオリ様、すまねぇ。おいらたちには無理だ」
「無理って……教えてもらえないってこと……?」
思ったよりあっさりとした答えに、胸の奥が少しだけ冷える。
「すまねぇな。おいらたちのは精霊の力だ。人間の魔法とは根が違う」
違う。
その一言が、妙に重く響いた。
――つまり、頼れない。
「……そう。なら、いいの」
私は小さく息を吐く。
「先代賢者が残してくれた魔法の本はあるの。でも、教えてもらえたほうが早いかなって思っただけ。なんとか自力で頑張ってみる」
「力になれなくて、すまねぇな」
「謝らないで。ラフさんも、みんなも、こんなによくしてくれてるもの。だから今度は、私が自分にできることをしたいの」
――理玖を守るためにも。
そっと小海の向こう、結界の外へ視線を向ける。
森の奥に立つ白い影は、微動だにしない。
その足元で――影だけが、わずかに遅れて揺れた。
葉も枝も、何ひとつ音を立てない。
ひときわ体格のいい男と視線が交差する。
意識が硬直し、金縛りにあったように体がこわばった。
何かを確かめるように見つめるその瞳から、なぜか目が逸らせない。
すると、男の意識が、一瞬だけ理玖に向いた。
ほんのわずか、驚きの色が混じった気がした。
ぞくり、と背筋が震える。
だがそれは、純粋な敵意だけではないようにも思えた。
しばらくして、男は静かに踵を返す。
他の白狼族も、それに従うように森の奥へ消えていった。
「イオリ様。今日はこれで引き上げましょうか。リク様もお疲れのようですし」
ラフさんの言うとおり、理玖はさきほどからずっと私にしがみついたままだ。
もしかすると――
私よりも、あの白狼族から何かを感じ取っているのかもしれない。
「そうね」
空を見上げるとまだ高くなりきらないお日様から、やわらかな光が降りてくる。
光が反射して、小海の水面が波打つたびにキラキラと輝いていた。
まるで不穏の影をまったく意識してないように。
そんな我関せずの情景は少しだけ心を軽くした。
私たちは、結局そのまま帰路につくことになった。
とれた魚は網籠に入れたまま、ラフさんとラウロが浮遊魔法で運ぶ。
大きな籠がふわりと宙に浮かび、彼の後ろを静かについていく。
畑のそばの大木の貯蔵庫には村人たちが数人集まっていた。
「これはこれは、イオリ様とリク様も漁にいらしたのですか?」
その中の一人が声をかけてきた。
「ええ、見学していただけですけど」
私は苦笑して答えた。
軽く挨拶を交わすと、それぞれが捕れたての魚を必要な分だけ持っていく。
残りはここの貯蔵庫に保管しておいて、村人たちが必要な時に自由に持ち帰るそうだ。
誰も指示しないのに、それが成り立っているのが不思議だった。
小人たちは、自分にできることをし、自然に助け合って暮らしている。
その在り方が、少しうらやましく思えた。
そんなことを考えながら歩いていると、長老とばったり出会った。
「あ、ちょうろうだ」
最初に気づいたのは理玖だった。
「おや、イオリ様、リク様。村で不自由はございませんかな?」
「はい。みなさんによくしていただいています」
「それは何よりですな。今日は小海へ行かれたとロッソから聞きましたぞ。いま戻られたところですかな?」
「ええ、そうなんです。それで……小海でミズチ様にお会いしました」
そう告げた瞬間、長老は「なんと!」と目を大きく見開いた。
「そ、それはまことですかな? ミズチ様が……! もしや、リク様の気配に気づかれたのでは? リク様は小海の水に触れておりませんかな?」
「あ……波打ち際で転んで、水浸しになりました」
「なるほど。それで気配を察知なさったのでしょうな」
長老は深くうなずき、どこか得心した様子を見せた。
「それと……人の姿になっている白狼族も見ました」
「ああ、そうですか……。彼らはいつも、ああしてこちらをうかがっておるのですよ」
「あの……先代賢者は、白狼族にどう対応していたんですか?」
ずっと気になっていたことを尋ねる。
長老はすぐには答えなかった。
森の奥を、静かに見つめる。
「白狼族がこの地に現れたのは……数年前。つい最近のことなのです。あの年は、森の獣が妙に騒がしかったですなぁ」
低く、遠い声だった。
「先代賢者様がご健在のころは彼らはこの地におりませんでした。ゆえに、直接のやり取りはなかったのですよ」
「数年前……。なぜ、彼らはこの地に?」
「さあ……もしかすると……わしらと同じように、人間に追われたのかもしれませんなぁ。そう思えば、責めきれぬ気持ちもあるのですよ」
「人間に……」
その言葉に、胸の奥がわずかに揺れた。
「ですが、狼族は白狼族に限らず縄張り意識が強い種族。しかも、わしらよりも強い力を持っております。結界がなければ、あの時、簡単にこの地を奪われていたでしょうなぁ」
長老はしばらく森を見つめたまま、口を閉ざした。
その横顔は、長い時を生きた者のものだった。
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