第21話 ミズチ
「かぁたん……」
理玖が目の前の生き物から視線を離さないまま、私にしがみついてくる。
私はぎゅっと、守るように抱きしめた。
「ミズチ……こりゃあ、ひっさびさだなぁー」
ラフさんが目を見張り、はるか頭上を見上げる。
全く恐れも緊張も見えない。
「すっげーな、初めて見た。話に聞いていた通りだ」
ラウロが感嘆の声をあげた。
彼も全く怖がっていないようだ。
ミズチ。
やっぱり、これが噂に聞くミズチ。
不思議と恐怖はなかった。
あまりにも現実離れしすぎていて、大スクリーンに映し出された映像を見ているような感覚だったからかもしれない。
透き通るような薄青の瞳が、まっすぐこちらを見つめている。
背には虹色の大きな翼――いや、背鰭と呼ぶべきなのだろうか。
トビウオの羽のようなそれが、陽光を受けてきらきらと輝いている。
虹色に光る鱗と相まって、その姿はただただ神々しい。
これが、小人族にとっての“神”。
ど、どうしよう。
私の嫌いな爬虫類という感じはしない。
どちらかというと、日本の御伽話に出てくる”龍”にイメージが近いかもしれない。
でも、今更ながら胸がドキドキしてくる。
ラフさんの様子だとミズチが危険なものだという感じはしない。
それでも、理玖がいるのだから油断はできない。
「かぁたん、おっきいね」
理玖はミズチをまるで大きな魚を見たかのように言う。
ポカンとした顔で見上げ、その様子に恐れは見られない。
ミズチの瞳が、ゆっくりと理玖に向いた。
その瞬間、胸の奥がわずかにざわめく。
『おお、賢者の気配を感じて来てみれば、確かにそこにおるようだな。だが、やや小さくなったのではあるまいか?』
空気を震わせるような低い声が、頭の奥に直接響いた。
それは耳で聞く声ではなかった。
「ああ、ミズチ様。今ここにいるのは次代の賢者にございます。先代賢者様は百年前に亡くなられました」
ラフさんが、畏まった口調で告げる。
『そうであったな……。だが、それにしてもオーラも気配も、先代賢者とあまりに似すぎておるではないか』
ミズチの瞳が細められた。
まるで――何かを確かめるように。
「それこそが、賢者である証にございましょう」
私は理玖を抱きしめたまま、二人――いや、一人と一柱の会話を聞いていた。
すると、ミズチの視線がゆっくりと理玖から私へと移る。
透き通る薄青の瞳に見つめられた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
息を吸うことさえ忘れてしまいそうだった。
『ふむ……そこの賢者とくっついておる者は何者だ? 何やら清浄な魔力をまとっておるようだが』
「リク様のお母君、イオリ様にございます」
思わず、背筋が伸びた。
理由はわからない。ただ、そうしなければならない気がした。
『リク……様?』
「はい。それが賢者様のお名前です」
『なんと! リックではなく、リク……』
ミズチの巨大な瞳が、わずかに揺れた。
『……妙だな』
「え?」
思わず声が漏れる。
しかしミズチは、それ以上何も言わなかった。
ただ理玖から目を離さない。
それよりも、ミズチがこぼした言葉にわずかな引っかかりを感じた。
「リック……?」
思わず問い返すと、ラフさんが振り向いた。
「イオリ様、先代賢者様のお名前はリック様とおっしゃったのですよ。人間社会にいたころは、リック・オブライエンと名乗っておられたそうです」
理玖と、リック。
確かに響きが似ている。
偶然だろうか。
それとも――理玖がここへ呼ばれたことと、何か関係があるのだろうか。
胸の奥に、小さな波紋が広がる。
『なるほど……そういうことか……』
ミズチは目を細めて理玖を凝視したまま、なぜか納得したように呟いた。
その意味深な言い方に私はミズチを見上げ、口をひらく。
「あ、あの……ミズチ……様……?」
その先の言葉が出てこない。
『ふむ……次代の賢者の母上殿、我はこの時を待っておった』
待っていたとは……?
もしかして、ミズチと先代賢者は仲のいい友達みたいな間柄だったとか……?
私が反応に困って呆然としたままミズチを見つめていると、波がぴちゃんと跳ね、そこから一つの小さなほら貝が飛んできた。
反射的に両手を伸ばすと、それは弧を描いて私の手のひらの上にとんっと落ちてきた。
『我を呼ぶ時はそれを吹くが良い。では、今代の賢者リク、それとイオリとやら。この小海は大海原へとつながっておる。水面に触れ、我が名を呼べ。その声が届く限り、我は応えよう』
重く、しかしどこか穏やかな声が、再び頭の中に響く。
『また、相まみえるとしようぞ』
そう言い残すと、ミズチの巨体はゆっくりと水中へ沈んでいった。
虹色の鱗がきらめき、やがて完全に水の奥へと消えていった。
しばらくのあいだ、誰も言葉を発しなかった。
小海の水面には、ただ静かな波紋だけが広がっている。
まるで――
つい今しがた、神がそこにいたことを証明するかのように。
風に運ばれた波が潮の香りと共に再び音を奏でる。
私はミズチの置き土産、小さなほら貝を手にしたままただ立ち尽くすだけだった。
「すっげー! ミズチ様、すっげー! でっかくて、体が光に包まれてて……!」
それまで黙っていたラウロが、興奮を隠しきれない様子で声を上げる。
ようやく現実に引き戻される。
「ちゅっげー、みじゅちしゃま、ちゅっげー」
理玖も負けじと真似をする。
腕の中で身じろぎし、降りたそうにするので、そっと砂浜に下ろしてやる。
すると理玖は、また波打ち際へ駆け出そうとした。
「理玖っ、待って!」
私はほら貝を片手に持ったまま、慌てて後ろから抱きとめる。
今度は間に合った。
「また転んだら、びちゃびちゃになるでしょ」
「びちゃびちゃ……」
「そう。走らないで、ゆっくり近づこうね」
言い聞かせると、理玖はふと、私の手にあるものへ視線を向けた。
「うん、かぁたん……これ、なあに?」
不思議そうに、ほら貝を指さす。
「えっと……」
たしかミズチは、呼ぶときはこれを吹けばいいと言っていた。
――となると、笛……?
いや、それは違うか。むやみに吹かれても困るし、用もないのに呼ぶのは申し訳ない。
「貝、だよ。耳に当てるとね、ほら、波の音が聞こえるの」
「なみのおと……?」
「そう、ほら……」
そう言って耳に当ててやると、理玖は「ほんとうだぁ」と嬉しそうに声を上げた。
その瞬間、視界の端に森の奥で白いものがちらつくのが見えた。
「あれは……?」
目を凝らす。
小海を取り囲む木々の合間。
そこに立っていたのは、真っ白な髪を風に揺らし、こちらをじっと見つめる男だった。
筋骨隆々の体つき。上半身には衣服をまとっていない。
静かに、ただこちらを観察するように佇んでいる。
胸の奥が、ひやりと冷えた。
なぜだろう。
あの男たちは、ラフさんでもラウロでもなく――
まっすぐ、私だけを見ているように思えた。




