第2話 青いバラのアーチを抜けると
バッチーン!
乾いた破裂音が、温泉旅館の庭園に響いた。
それが――私の手のひらと夫の頬がぶつかった音だと気づくまで、ほんの一瞬かかった。
じん、と手のひらが熱を持つ。
夫の腕にしがみつく女。
ついさっきまで、彼とキスをしていた女。
その光景が、悪趣味な見世物のように目の前にあった。
しかも――自分の両親が営む旅館の庭園で。
「こ、これは……違うんだ!」
夫が慌てて口を開く。
「何が違うのよ!」
震えもせず声が出たことに、自分で驚く。
「こ、これはふざけて……そう、冗談だよ。冗談」
「……っざけんな」
喉の奥から低い声が漏れる。
「え……?」
夫の目が見開く。
「ふざけんじゃねぇ!」
人目も憚らず叫んだ。
「ま、待て……!」
バッチーン!
伸びてきた夫の手を叩き落とす。
「離婚よ! 離婚! 今すぐ!」
庭園に沈黙が落ちた。
夫と女は呆然と口を開けたまま、私を見ている。
――その顔が、無性に腹立たしい。
なにが冗談よ。
どこまで私をバカにすれば気が済むの。
怒りが胸の奥から溢れ出す。
それと同時に、どうしようもない悲しみが込み上げてきた。
目の奥が熱くなる。
私は唇を強く噛み、振り返らずに歩き出した。
もう夫の顔は見たくない。
旅館の裏手にある自宅へ向かい、軽自動車の後部座席に必要な物を放り込む。
本当は、もっと冷静になるべきだ。
そう思っても、感情が追いつかない。
歯を食いしばり、込み上げる嗚咽を飲み込む。
――あいつのために、泣いてなんかやらない。
理玖が目を覚ます前に、準備を終えなければ。
私は深呼吸してから、昼寝をしている二歳の息子の部屋へ向かった。
何も知らず眠る我が子は、天使のように無垢で愛らしい。
「……理玖、ごめんね」
掠れた声は、夢の中の息子には届かない。
私はそっと理玖を抱き上げ、車のチャイルドシートに寝かせた。
「……かぁたん……」
寝ぼけた声で一瞬だけ目を開けた理玖は、すぐにまた眠りに落ちた。
運転席に座り、エンジンをかける。
軽自動車は静かに走り出した。
――とりあえず、どこかで落ち着こう。
離婚するにしても、計画が必要だ。
私には理玖がいるのだから。
山あいの温泉街を抜ける道は、昼下がりの光に包まれ、ゆるやかにほどけていた。
私の心とは裏腹に、あまりにも穏やかなその光景が、かえって悲しみを増幅させる。
時折、夫とあの女の逢瀬を頭によぎるが、なんとか振り払いながら車を走らせる。
バックミラーの中で温泉街の看板が小さくなっていき、やがてトンネルをくぐり抜けた。
目の前に広がったのは、色の抜けた葉をかろうじて残した木々の群れだった。
時折、落ち葉がフロントガラスをかすめ、こんな何気ない瞬間さえも冬へ向かっているのだと実感させられる。
そのとき、ちらちらと青い影が目の前の景色の中に現れた。
それは、まるで雪のようにひらひらと降ってくるようだ。
「青い……雪……?」
あり得ないと思いながらも、思わずそう呟いていた。
――違う。花びらだ。
この季節に、しかもこんな山道には不似合いすぎるほど青い花びらが、どこからともなく風に運ばれ、次々とフロントガラスの向こうに舞い降りていく。
だが、すぐに違和感に気づいた。
風は、吹いていない。
それなのに青い花びらは、まるで意思を持つかのように車の周囲をゆっくりと巡り、円を描くように舞っていた。
「……なに、これ……?」
思わず速度を落とす。
その瞬間だった。
ふっと、耳鳴りのような静寂が周囲を包んだ。
エンジン音が、妙に遠く聞こえる。
窓の外の森も、風も、鳥の声も――すべてが薄い膜の向こう側にあるようだった。
そして視線の先に、それは現れた。
――え? なに、あれ……?
道の上に、青いアーチ。
道路の端から端までを覆うそれは、よく見ると無数の花で形作られていた。
青い、バラ。
まるで誰かが空中に庭園を描いたかのように、幾重にも重なった青い花々が弧を描いている。
あり得ない。
こんな場所に、こんなものがあるはずがない。
なのに――
車は、そのアーチへと吸い込まれるように進んでいく。
次第に青い花びらが、いっそう激しく舞い上がる。
そして――
青いバラのアーチをくぐった、その瞬間。
世界の色が、一瞬だけ抜け落ちた。
身体がふっと軽くなる。
まるで、足元の地面が消えたかのように。
視界がぐにゃりと歪み、空気が裂けるような感覚が走った。
「――っ!」
思わず息を呑む。
その刹那。
助手席の方から、淡い光が溢れた。
チラリと助手席に目を向けると理玖が、光に包まれていた。
「理玖!?」
え? 何?
私は慌てて眠っている理玖の肩に手を伸ばし、静かに車を止めた。
「理玖?」
だが、そこにいるのは――
いつもと変わらない、眠っている息子だった。
胸は規則正しく上下し、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
私はそっと頬に触れた。
温かい。
ちゃんと、ここにいる。
寝ぼけた声で理玖が一瞬だけ目を開いた。
私の顔を見ると、安心したように小さく息を吐き、またすぐに眠りに落ちていく。
私はほっと息をついた。
「……さっきの、何だったの……?」
見間違い?
そう思いながら、ふとバックミラーを覗き込む。
その瞬間、息が止まった。
そこに映っていたのは――
見慣れた山道ではなかった。
アスファルトの道路は消え、代わりに土を踏み固めただけの道が、森の奥へと続いている。
「……え?」
私はゆっくりと顔を上げる。
フロントガラスの向こう。
そこに広がっていたのは、見覚えのない場所だった。
色づき終えた広葉樹と、深い緑の針葉樹が入り混じる、静まり返った森。
さっきまで走っていたはずの山道とは、明らかに違う。
「道を……間違えた?」
そんなはずはない。
何度も通っている道だ。
迷うような場所ではない。
それでも、目の前に広がる景色は、どう見ても知らない場所だった。
私は再び、すやすやと眠る理玖の方に目を向けた。
その様子に安心すると、車を降り、周囲を見回す。
さっきのバラのアーチは見間違いだったのだろうか?
今は青い花びらが降ってくる様子はない。
引き返すしかないか……
でも、木々に囲まれたこの道は車一台が通るのがやっとだ。
とりあえず、先に進んでもう少し開けた場所でUターンしよう。
そう決めて再び車に乗り込み、ゆっくりと走らせる。
すると、数分ほど進んだところで、前方に開けた場所が見えてきた。
さらに車を進めると、小さな家々が立ち並ぶ集落だということが分かった。
村?
でも、その割にはどうにも違和感がある。
近づくにつれて、その違和感ははっきりとしたものになった。
……おかしい。
家にしては、小さすぎる。
どれも、たぶん私の背丈ほどもない。
よくみると屋根はキノコのように丸く、窓には色とりどりの花が植えられている。
その童話の世界のような景色に目を奪われた。
とりあえず、もっと近寄ってみよう。
理玖がまだ眠っていることを確かめてから、私は車を降り、最も近い家の一つへと足を向けた。




