第2話 小さな賢者と小人たち
私が数歩進んだところで、小さな家の木扉が、きい、とかすかな音を立てて開いた。
現れたのは赤い三つ編みの少女。
けれど。
――小さい。
思わず足が止まる。
身長は、私の腰ほどしかない。
理玖と同じくらいの高さ……なのに雰囲気はもっと理玖よりずっと年上っぽい。
そして、現れたのは一人ではなかった。
隣の家。
そのまた向こう。
次々と扉が開き、小さな人影が外へと溢れ出してくる。
おじさん、おばさん、老人までいる。
みんな――同じように、小さい。
……なに、ここ。
いや、違う。落ち着いて。
ただの村――そう見えるだけだ。
なのに……喉の奥が、ひゅっと狭くなる。
夢?
それとも、まだ何かの続き?
現実感が、指の間からこぼれていく。
まさか……ここは、小人たちの住処だというの?
「あなたは、賢者様ですか?」
声をあげたのは、最初に家から出てきた三つ編みの少女だった。
大きな緑色の瞳が、まっすぐに私を射抜いてくる。
ん? 賢者……?
……今、そう言った?
私は意味がわからず固まったまま動けない。
「わぁぁぁん……かぁたん……かぁたん……どこ……?」
背後から、聞き慣れた泣き声が弾けた。
はっと息を呑む。
――理玖。
慌てて後ろに停めていた車へ駆け戻った。
今は小人の少女よりも、訳のわからない出来事よりも、何より――理玖だ。
助手席のドアを乱暴に開けると、小さな体がぐずりながら身をよじっていた。
「ごめん、ごめんね……ここにいるよ」
抱き上げると、理玖は息を詰めたようにしがみついてくる。
細い指が、服を掴む力だけがやけに強い。
「……かぁたん……」
「うん、大丈夫。離れないから」
背中を撫でる。
それだけで、少しずつ泣き声が落ち着いていく。
――よかった。
「ちょっとよろしいかな」
低い声が、すぐ近くで響いた。
理玖を胸に抱いたまま、私はその声の方へ振り向いた。
そこにいたのは、これまた小さなおじいさんだった。
杖をつき、静かにこちらを見上げている。
長い白髭。
深い緑の瞳。
見た目は、物語に出てくる典型的な魔法使いのように見える。
穏やかに見えるのに、その視線だけが妙に鋭い。
「賢者が現れたと聞いたのだが……其方かね?」
私は、答えなかった。
代わりに、理玖を抱く腕に力を込める。
私、賢者なんかじゃないし。
どちらかといえば、愚か者だ。
喉の奥に、鉄の味がにじんだ。
現場を目撃するまで夫の不貞に気づかなかったのだから。
切り裂かれたばかりの心の傷に、その時の光景が沁み込んだ。
――違う。
そんなことは今はどうでもいい。
視線を外し、周囲を見渡す。
小さな家々。
見慣れない森。
こちらを取り囲む、小さな人々。
そして――
軽自動車に乗って来たはずの道。
振り返るとーーない。
あったはずの道は、影も形も消えていた。
そんなはずはない。
ついさっきまで、ここを走ってきたのに。
一歩、近づく。
——やはり、ない。
タイヤの跡も。
轍も。
何もかもが、最初から存在しなかったみたいに。
あるのは、隙間なく生い茂る木々だけ。
指先に力が入る。
抱いた理玖の体を、無意識に引き寄せていた。
どうして……いったい、どうなってるの?
……帰れない?
その考えが浮かんだ瞬間、思考が止まりかける。
だめ。
今は、それじゃない。
ぎゅっと目を閉じて、無理やり意識を引き戻す。
腕の中の重みが、現実を繋ぎ止める。
……この子だけは、せめてこの子だけは……守るしかない。
ゆっくりと瞼を上げる。
再び、小さな老人と視線が合った。
「……賢者って、私のことですか?」
声は思ったよりも低く、硬かった。
「いや」
老人は、あっさりと首を振る。
「お前さんではない」
間を置かず、続ける。
「賢者様は――そちらだ」
そちら?
誰のことを言っているのか分からず、視線を巡らせる。
そして。
ふと、腕の中に落ちた。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
理玖は、まだ眠たそうに目を擦っている。
ついさっきまで泣いていた、ただの二歳児だ。
「そう。お前さんの腕の中におる、その小さき者こそが――賢者様ですぞ」
静かな断言。
次の瞬間――
ざわ、と空気が揺れた。
「本当か……?」
「こんな幼子が……?」
「長老が言うなら……」
小人たちの声が、一斉に広がる。
期待と、畏れと、どこか安堵したような響き。
そのすべてが、こちらに向けられていた。
ありえない。
頭では、そう分かっているのに。
視線だけが、理玖へと落ちる。
小さな手。
温かい体。
私にしがみつく、この子が。
――賢者?
「えっと……理玖が、賢者だというのですか?」
「リク……様、そちらの賢者様のお名前ですか? ……それはまた、なんというか」
「ええと……なにか?」
「いえいえ、なんと尊きお名前ですな。リク様……どうか、今後ともよきなに」
突然そう言うと、おじいさんが跪いた。
「え? ちょっと待ってください。理玖が賢者だなんて、まだ決まったわけじゃ……」
私は慌てて止めたが、おじいさんは被せるように告げる。
「リク様は確かに賢者様ですぞ――叡智の魔力を纏っておりますからな」
「叡智の魔力?」
「先代の賢者様と同じ色ですぞ」
「同じ色……?」
「――其方は、賢者様のお母君であらせられるか?」
「おはは……ぎみ……? えっと、母親ってことよね。そう、私はこの子の母親。名前は大里伊織よ」
「オオサトイオリ様……さすがは賢者様のお母君。なんと尊いお名前」
「い、いえいえ。そこまで尊くなんてありませんよ。それに、私のことは伊織でいいです。夫の姓なんて、もう捨てたいくらいですから」
そう答えると、おじいさんは、ふむ、と頷いた。
「では、イオリ様とお呼びしますぞ」
長老は目を細め、私をじっと見つめた。
「……其方、賢者様ではないが、魔力はそれなりにあるようですな」
「魔力……?」
思わず聞き返す。
まさか、私にも魔力があるなんて。
じゃあ、私、魔法が使えるかもしれないってこと?
「イオリ様は、水色がかった銀色……癒しの魔力を示す色ですな」
小さなおじいさんは目を細め、じっと私を見つめた。
「癒しの魔力……」
急にそんなことを言われても理解できない。
けれど、その声音には一切の迷いがない。
私は何も言えず、ただ理玖を抱き寄せた。
小さな体が、胸に押しつけられる。
とくん、とくん、と。
確かな鼓動が、伝わってくる。
――この子を守る。
どこであろうと。
何があろうと。
それだけは、変わらない。
それよりも……ゆっくりと息を吸う。
「……ここ、どこなんですか」
問いかける声は、まだ少しだけ震えていた。
老人は答える。
「幽玄の森――わしらの村です」
知らない名前。
聞いたこともない場所。
けれど、否定する材料はどこにもない。
視界にあるすべてが、それを裏付けている。
私は、理玖を抱く腕に、もう一度力を込めた。
――大丈夫。
この子がいる。
それだけで、立っていられる。
たとえここが、どんな世界でも。
ここで生き抜いて、元の世界に帰れる方法を探す。
私はしっかりと地面を踏みしめるように足元に力を入れた。
この場所に確かに存在しているのだと確かめるように。




