第112話 大魔導士ヴァルドレインと大魔導士エステラ
机の上には羊皮紙が山のように積み上がっていた。
複雑に絡み合う魔法式。
幾重にも重ねられた補助術式。
余白を埋め尽くす計算式と走り書き。
ヴァルドレインはその一枚を手に取り、目を走らせる。
問題なし。
指先で軽く弾くと、紙束はひとりでに浮かび上がり、整然と揃って机の端へ移動した。
解析が終わったものは研究室のクオンへ。
彼は嬉々として実機試験の段階に入るだろう。
まだ結論が出ていないものは書棚へ。
高い天井まで届く書架には、何百年分もの研究成果が眠っていた。
古い羊皮紙の匂い。
乾いたインクの香り。
窓から差し込む午後の光が舞い上がった埃を淡く照らしている。
静かな時間だった。
だからこそ、机の片隅に置かれた銀色の玉鐘がふわりと発光した瞬間、その変化が妙に際立った。
鈴の音にも似た澄んだ響き。
ヴァルドレインは手を止める。
「誰だ?」
玉鐘へ掌を向けると魔力が流れ込む。
すぐに返事が返ってきた。
「エステラよ」
その名を聞いて、ヴァルドレインは小さく眉を上げた。
そうだった。
ベルドルフから引き継ぎを頼まれていた。
幽玄の森の調査。
賢者探索。
あまり気乗りのしない仕事だ。
机の横に刻まれた小さな魔法陣へ指先を向ける。
「アブリール」
淡い光が走ると重厚な扉が音もなく開く。
その向こうからエステラが姿を現した。
灰銀色の髪が窓からの光を受けて輝く。
相変わらず隙のない佇まいだった。
「忙しいところ悪いわね」
「構わない」
差し出された報告書を受け取る。
紙をめくる音だけが部屋に響いた。
ヴァルドレインの視線が文章を追う。
「幽玄の森で聖女を発見したそうだな。黒髪に黒い瞳の女性だと聞いた」
報告書から目を離さぬまま呟く。
「ええ。一目見て異界の人間だと分かったわ」
エステラは頷いた。
「賢者は見つからなかった。でも聖女は見つけたわ。それも予想以上の存在よ」
予想以上――その言葉にヴァルドレインの指先が止まる。
「魔力量も質もかなり高いそうね」
「なるほど……」
返事を返すが、思考は別の場所にあった。
あの日、帝都全体を震わせた巨大な魔力波。
観測塔の水晶が悲鳴を上げるほどの異常現象。
あれほどの規模は滅多にない。
「ベルドルフ様は、あの魔力波を聖女召喚によるものと考えているようだが」
「そうね」
エステラは腕を組んだ。
「私も可能性は高いと思っていたわ」
窓の外へ目を向ける。
その先にあるはずの幽玄の森を見つめるように。
「だけど、ベルドルフ様が賢者は必ず森に潜んでいると、大聖女様がそう確信していると言っていたわ」
「百年前、姿を消した賢者がまだ生存していると?」
「そうね。普通の人間なら考えられないでしょうね」
「……そうだな」
エステラの言葉にあやふやに返事を返す。
ヴァルドレインはこれまでの賢者の記録を思い出す。
彼の発想も実際の功績も百年経った今でも越えるものはいない。
あの賢者なら、百年を生き延びていても不思議ではない。
しかも、歳をとることさえなく。
「実際に結界の外から見えたのは小人族と白狼族だけ。でも結界の奥の方までは確認できなかったわ」
結界――その単語にヴァルドレインの目が細くなる。
「その結界は強力だったか」
「ええ」
即答だった。
「正直、ぞっとしたわ」
エステラがそう言うのは珍しい。
彼女は魔導士としても、騎士としても強い。
その彼女が躊躇なく認めるほどの術式。
「私じゃ解析しきれなかった」
ヴァルドレインは報告書の一節をなぞる。
結界構造、魔力循環、補助術式。
かつて賢者が構築したという術式の記録は、一目見ただけでも異常だった。
まるで自然そのものを取り込んだような……
人間離れしている。
「賢者のものか」
「そう考えるのが自然でしょうね」
自然――その言葉にヴァルドレインは内心で苦笑した。
賢者絡みになると自然なことなど一つもない。
「ならば、なぜ賢者は聖女を召喚した」
問いを投げる。
エステラは肩をすくめた。
「そればかりは本人を見つけて聞くしかないわ」
「まあ……そうだろうな」
結局そこへ行き着く。
沈黙が落ちた。
窓から吹く風が報告書の端を揺らす。
エステラが踵を返した。
「あとはお願いね」
出口へ向かいながら言う。
「私は聖女イオリ様の調査を命じられたから」
「ああ」
ヴァルドレインは顔を上げた。
「引き受けよう」
扉が開くと光が差し込む。
「じゃあね」
エステラの姿が消え、再び静寂が訪れた。
「……さて」
誰に向けるでもない呟きが静かな執務室に溶けた。
窓の外では夕陽が傾き、赤金色の光が机の上を斜めに横切っている。
ヴァルドレインは椅子に深く腰掛けたまま、指先で報告書の端をめくった。
賢者を探す――それがベルドルフから与えられた任務だ。
百年前、異界から召喚され、帝国に利用され、歴史の中へ消えた男。
文献には英雄と記されている。
だが、それだけではないはずだ。
もし本当に賢者が森にいるのなら。
もし帝国から隠れるように生きているのなら。
その理由くらいは想像できた。
見つけたらその後どうするか……
帝国は再び利用しようとするだろう。
「話ができればいいのだが……」
そう呟きながら報告書に再び目を向ける。
下段へ視線を滑らせたところでふと手が止まった。
「……測定不能」
小さく読み上げる。
夕陽に照らされた文字が妙に目についた。
もう一度読み返す。
聖女イオリ――魔力測定不能。
しかし調合した薬からは高濃度の癒しの魔力を検出。
矛盾――いや、矛盾というには不自然すぎる。
ヴァルドレインは無意識に顎へ手を添えた。
測れない――だが確かに存在する。
まるで意図的に覆い隠されているかのような結果だった。
「……これも賢者の仕業か?」
机上に散らばる術式図面へ目を向ける。
百年前の賢者が残した理論。
今なお解析しきれない魔法式。
常識の外側にある技術。
あり得ない話ではない。
むしろ賢者絡みと考えた方が自然だった。
「一度会っておくべきか」
異界から来た聖女。
賢者が関わっているかもしれない存在。
幽玄の森へ向かう前に直接話を聞いておく価値はある。
そう思った瞬間、ふと眉が寄った。
いや……待て、それは悪手かもしれない。
ヴァルドレインは椅子にもたれ、天井を見上げた。
大魔導士――その肩書きは便利な反面、相手を警戒させる。
まして異界から来たばかりの女性だ。
ベルドルフとの面談直後なら尚更。
自分が面会を申し込めば、尋問でも始まると思われるだろう。
聞ける話も聞けなくなる。
しばらく考え込む。
すぐに一人の顔が浮かんだ。
自分と同じ亜麻色の髪、そして、自分とはかけ離れた空色の瞳。
少々頑固で妙なところで世話焼きなところは亡き姉とそっくりだ。
ヴァルドレインが引き取り、これまで実の娘のように育ててきた。
「……フレア……か」
思わず苦笑が漏れた。
リプレア聖苑……
そこには聖女になったばかりのフレアがいる。
フレアの父としてならどうだ?
ならば、大魔導士であれども少しは警戒が緩まるのではないか……?
ヴァルドレインは椅子から立ち上がった。
窓際へ歩く。
夕風がわずかにカーテンを揺らした。
遠くには聖苑の白い建物が見える。
利用するようで気は進まない。
だが、あの娘なら、なんの疑いもなく聖女イオリに紹介してくれるだろう。
「……挨拶をしたいのだといえば……」
ヴァルドレインは窓から視線を外し、通信魔導具へ手を伸ばした。
異界の聖女。
測定不能の魔力。
賢者の気配。
偶然にしては出来すぎている。
何かが動いている。
そんな予感だけが、胸の奥に小さく引っかかっていた。




