第111話 ジェロール帝国【大聖女の焦り】
「異界から来たのは……聖女だと言うのか?」
静まり返った謁見の間に、その声だけが低く落ちた。
ぞくり、と背筋を冷たいものが這い上がる。
目の前の女は滅多に感情を表へ出さない。百年の時を生きた彫像のように、常に穏やかで、美しく、そして空虚だ。
だが今は違う。
玉座にも似た豪奢な椅子に腰掛けた大聖女レイラの瞳の奥で、何かが揺れていた。
怒り……あるいは、焦り。
高い天窓から差し込む月光が差し込む部屋には、魔導灯の淡い光がゆらめいていた。
それがレイラの白磁のような頬に陰影を落とし、いっそう不気味さを漂わせている。香の甘い匂いが満ちる大聖堂の最奥。
なのに、肌にまとわりつく空気だけが妙に冷たかった。
ベルドルフは唇の内側を噛んだ。
「は、はい。癒しの魔力を有することは、すでに確認されております」
声がわずかに掠れる。
自分でも情けないと思うほど、喉が乾いていた。
レイラの足元から、黒い粒子がゆらゆらと立ち昇っている。
煙でも霧でもない。
光を吸うような闇の欠片。
見るたびに、胸の奥を素手で掴まれるような嫌悪感が走る。
額に滲んだ汗が、こめかみを伝った。
「癒しの魔力……聖なる魔力……」
レイラが呟く。
まるで獲物の名を確かめる捕食者のようにその声音は静かだった。
ベルドルフは唾を飲み込み、慎重に言葉を選ぶ。
「恐れながら申し上げます。以前、グラセナ山脈の向こうで観測された巨大な魔力波ですが……あれは、異界の聖女が召喚された際に発生したものではないかと――」
ガタン――重い音が石造りの部屋に響いた。
レイラが立ち上がっていた。
白い法衣が揺れる。
その瞬間、室温が数度下がったような錯覚に襲われ、ベルドルフは思わず息を呑む。
「そんなわけがない」
低くて腹の底を震わせるような声だった。
黒い粒子が、まるで生き物のように彼女の周囲を漂う。
「あの魔力波は――」
一歩……レイラが踏み出す。
ただそれだけで、石床を這う影が濃くなった気がした。
「確かに賢者のものであった」
断言……否定ではない、完全なる確信だった。
ベルドルフの背に、氷水を流し込まれたような悪寒が走る。
なぜだ。
なぜ、そこまで言い切れる。
まるで――実際に知っているかのように。
「まあいい」
レイラは再び椅子へ腰を下ろした。
白く細い指先が肘掛けの先を握りしめた。
美しい顔が忌々しげに歪む。
「異界から来た聖女というのなら、魔力量も相当高いのではないか?」
「は……はい。おっしゃる通りです」
答えながら、ベルドルフは無意識に喉を動かした。
まるで砂を飲み込んだように乾いている。
香炉から漂う甘い香りが鼻をくすぐるたび、胸の奥がむしろ重くなる。窓から差し込む月光は淡いはずなのに、この部屋だけが妙に冷えていた。
レイラがわずかに唇を持ち上げた。
笑み……だが、全く温度を感じない。
「ならば、その力を存分に使ってもらおう」
まるで雨の日に傘を使えと言うような気軽さでさらり、と告げる。
「聖女教育が済み次第、現場へ送るがよい。癒しの魔力を使わせるのだ――その力が果てるまで」
どくん。
ベルドルフの心臓が重く脈打った。
「だが、やりすぎるなよ。あくまでも聖女を大切に扱いながら、力を行使させるのだ」
指先がぴくりと震える。
ほんの一瞬だった。だが、自分では隠し切れた気がしない。
あまりにも当たり前のように使い潰す。
まるで人ではなく、灯火の消えかけた魔力玉でも扱うように。
教団に集められた聖女たちは、人々から敬われる。
美しい衣。豊かな食事。清らかな住まい。
――表向きは誰もが憧れる聖なる乙女。
その光の裏側を知る者は少ない。
いや、知ることを許されない。
力を使い果たした聖女たちがどこへ消えるのか。
誰も問わない。
問えない。
朝霧のように、静かに姿を消していくのだから。
教団に逆らえる者はいない。
それがたとえ皇帝でさえも。
ベルドルフは若き日の自分を思い出した。
魔法を究めれば世界を良くできると、本気で信じていた頃の自分を。
上級魔導士になり、大魔導士になった。
さらに、大魔導士卿へ。
階段を一段上るたび、見えなかったものが見えるようになった。
そして、知らぬままの方が幸せだったものを知ってしまった。
大魔導士卿へ叙任された日。
薄暗い大聖堂――将星の間。
揺れる燭台の火。
鼻を刺す香油の匂い。
祭壇の前で捧げさせられた誓い。
ベルドルフはこの世界を守るため光の教団へ忠誠を誓え、と大聖女を通して女神アーシェラの祝福を受けたその時のことを思い出す。
帝国ではない。
皇帝でもない。
――光の教団へ。
あの瞬間、黒い霧が部屋中を満たし、それが裏切りを許さないというかのように体の中に吸い込まれた。
それ以来、教団に逆らう考えを抱くだけで頭痛と吐き気に見まわれた。
大聖女レイラ――歳月を拒絶した美貌。
時折漏れ出る黒い粒子。
人の気配とはどこか違う、底知れぬ何か。
寒気がした。
理由のわからない警鐘。
だが、口を開けば終わる。
ベルドルフだけではない。
皇帝グラリオスは教団を篤く信奉している。
そして皇太子レグルス。
その婚約者は――自分の娘だ。
ぎり、と奥歯を噛み締める。
爪が掌へ食い込んだ痛みは妙に鮮明だった。
地位を……家を……そして、娘を守らねばならない。
たとえそこに不穏な影を感じたとしても。
「御意……」
ベルドルフはそう告げると、頭を下げて大聖女レイラの元を去ったのだった。




