第106話 大魔導士卿ベルドルフとの対面
「イオリ様、さあ、中へ」
扉の前で足を止めたままになっていた私に、エステラが柔らかく声をかけた。
ごくり、と唾を飲み込む。
――大丈夫。
自分に言い聞かせて、一歩。
磨き上げられた床に靴音が小さく響いた。
室内へ足を踏み入れた瞬間、古い紙と革の匂いが鼻先をくすぐる。
左右の壁を埋め尽くす巨大な本棚。そのどれもが天井まで届いていて、隙間なく並ぶ背表紙の列に思わず息を呑んだ。
右手の本棚の間では、大きな振り子時計が静かに時を刻んでいる。
カチ、コチ。
やけにその音だけが耳についた。
視線を前へ向ける。
アーチ型の窓から差し込む淡い光を背に、一人の男が机の向こうに座っていた。
こちらに気づくと、ゆっくり立ち上がる。
濃い茶色の髪。口元を囲む整えられた髭。琥珀色の瞳。
穏やかそうな笑みを浮かべている。
けれど、その目の中に研ぎ澄まされた刃のようなものが見えた。
何一つ見逃さないというように私を観察している。
「ああ、聖女イオリ殿。よくぞお越しくださった」
低く落ち着いた声だ。
歓迎の言葉なのに、胸の奥がきゅっと縮こまる。
「えっと……あなたがベルドルフ……さん?」
口にした瞬間、しまったと思った。
さん……さんって言っちゃった。
大魔導士卿様とか、もっとちゃんとした呼び方があったんじゃ……
熱が首筋まで駆け上がる。
うるさいくらいに鼓動が速い。
「ははは」
ベルドルフが肩を揺らした。
怒った様子はない。
それだけで少しだけ肺に空気が戻る。
「いかにも。私が魔導院を統べる大魔導士卿、ベルドルフだ。まずはそこにお掛けください」
机を挟んだ向かい側にぽつんと一脚だけ置かれた椅子が目に入る。
「さあ、どうぞ」
エステラが先に歩き、その椅子を示した。
私はぎこちなく頷くと、なるべく音を立てないよう腰を下ろした。
机を挟んだ椅子にベルドルフも腰掛ける。
たぶん、彼はこの国で最も偉大な魔導士なのだと思う。
手のひらにじんわり汗が滲んだ。
絶対に怒らせちゃ駄目だ。
帰りたい……あの小人たちの村に。
理玖がいる場所に。
そのためには話をしなきゃいけない。
どんなに怖くてもそうしなければここから出られない。
「さて――聖女イオリ様」
ベルドルフが組んでいた指をほどいた。
静かな声だった。
それなのに。
「あなたは、別の世界から来たのだろう?」
その一言で、背筋が凍りついた。
息が止まる。
振り子時計の音だけがやけに大きく耳に響いた。
カチコチ……
「えっと……あの……それは……」
喉が張りついたようで、うまく声が出ない。
膝の上で握った手にじっとりと汗が滲んでいた。
ああ、どうしよう。
ちゃんと説明しなくちゃいけないのに……
不審に思われないように、うまく理玖のことを隠して言わなきゃいけないのに……
「そんなに怯えなくても大丈夫ですよ」
ベルドルフが微笑む。
まるで子どもを安心させるような柔らかな声音だった。
「私たちにはすべてわかっておる」
すべて……その言葉に胸が跳ねた。
わかってる?
何を、どこまで?
冷や汗が首筋を伝う。
いや、落ち着け。
優しい顔をしているからといって信用していいわけじゃない。
テレビで見た詐欺特集だってそうだった。
人を騙す人ほど最初は親切そうに笑う。
まして目の前にいるのは、この国で大魔導士卿にまで上り詰めた人物だ。
そんな人が、本当に見たままの穏やかな人間だろうか。
「えっと……すべて……とは?」
逆に質問してみる。
できるだけ何でもないような顔で。
けれど声が少し上擦った。
ベルドルフは気にした様子もなく答える。
「賢者の召喚術でこの世界に来たということだ」
賢者……その単語を聞いた瞬間、肩がぴくりと揺れた。
まずい、反応した。
けれどベルドルフの表情は変わらない。
「あの……私、本当に何もわからないんです」
慎重に言葉を選ぶ。
「確かに私は、この世界の人間じゃありません。でも、気づいたらあの小さい人たちの村にいて……」
机の上に置かれた魔導灯の光が、磨かれた木目に淡く反射している。
その光を見つめながら続けた。
相手が知っているだろうことだけを話す。
余計なことは言わない。
「……そうか」
ベルドルフは小さく頷いた。
「それで、その村に賢者はいるのだろうか?」
一瞬だけ息が詰まる。
でも答えは決まっている。
「……いいえ」
視線を逸らさない。
「小人たちの話では、賢者は百年前に亡くなったそうです。亡くなる前に召喚術を施していて、それに私が巻き込まれたみたいで……」
嘘じゃない。
全部ではないだけ。
ただ、それだけ。
ベルドルフが言っているのはきっと小人たちが言っていた先代賢者のことなのだろうから。
理玖は違う。
たとえ小人たちがそう言っていたとしても先代賢者とは関係ない。
「なるほど……」
ベルドルフが背もたれに身を預けた。
「賢者は、すでに亡くなっている、ということだな」
琥珀色の瞳がこちらを見据える。
静かだった。
自然と背筋が真っ直ぐ伸びる。
拳を握りしめ、張り詰めた空気に耐える。
ベルドルフは私の瞳の奥に隠されている何かを探すように鋭い眼差しを向ける。
そこには決して見逃さないという強い意思が見えた。
部屋の空気が重い。
古い本の匂い。
窓から差し込む柔らかな陽光。
時計の音。
全部そのままなのに、自分だけが息苦しい。
どくん……胸が鳴る。
どくん……うるさい。
聞こえてしまいそうで、額に汗が滲む。
動揺するな……落ち着くんだ。
私は唇の端をほんの少し持ち上げた。
ぎこちなくてもいい。
震えていてもいい。
視線だけは逸らさない。
ベルドルフの瞳を真正面から見返しながら、これ以上何も知らないというように私は口を噤んだのだった。




