第二話 黒衣の襲撃者
扉が閉まる。
同時に、外の喧騒が遠くなっていく。
「走って!」
壁に埋め込まれた魔石の頼りない光だけを頼りに、薄暗い地下道を、お母様に手を引かれて走る。
「お父様を置いていくんですの!?」
「あの人なら大丈夫よ」
「でも!」
「ローゼリア!」
強い声だった。
思わず足が止まりそうになる。
お母様は振り返らなかった。
「今は逃げるの」
「嫌ですわ!」
わたくしは手を振りほどいた。
「わたくしだって戦えます!」
「だめよ」
「どうしてですの!?」
お母様が足を止め振り返る。
見たことのない表情だった。
「お願い。あの人の気持ちを無駄にしないで」
言葉が出なかった。
お父様が戦っている。
騎士たちも。
使用人たちも。
なのに。
わたくしだけ逃げる?
「……嫌ですわ」
「ローゼリア」
「そんなの、嫌です」
握った拳が震える。
「アルデルテ家の娘なのに……自分の家が襲われているのに、逃げるなんて……!」
「生きることは逃げることではないわ」
「ですが!」
――ドォン!
地下道全体が揺れた。
「きゃっ!」
天井から砂埃が降り注ぐ。
背後。
今通ってきた方向から、大きな音が響いた。
お母様の表情が変わり、わたくしの前へ立った。
「行きなさい」
「お母様?」
暗闇の向こう。
足音がした。
一つ。
二つ。
ゆっくりと近づいてくる。
「大丈夫よ」
お母様が小さく呟いた。
次の瞬間。
暗闇の奥で黒い光が瞬いた。
「伏せて!」
「っ!」
頭を下げる。
わたくしたちの頭上を、黒い魔力の刃が通過した。
壁が大きく抉れる。
「見つけたぞ」
暗闇の中から、三人の黒装束が現れた。
「お母様!」
「ローゼリア、早く行きなさい!」
一人が地面を蹴った。
速い。
剣が振り下ろされる。
けれど。
「《紅薔薇の壁》!」
お母様が片手を掲げた。
赤い薔薇の花弁が宙を舞い、瞬時に壁へ変わる。
金属音。
黒装束の剣が弾かれた。
「《紅薔薇の棘》!」
「ぐっ!」
一人の胸を紅い棘が貫き、その身体が後方へ吹き飛んだ。
「……すごい」
思わず声が漏れる。
お母様が戦っているところなど、ほとんど見たことがなかった。
いつも穏やかで。
笑っていて。
わたくしの髪を撫でてくれる人。
だけど。
今のお母様は間違いなく、アルデルテ家の魔術師だった。
わたくしは右手を突き出した。
「《紅蓮華》!」
真紅の薔薇が咲く。
炎槍が地下道を駆け抜けた。
「なっ……!」
一人が咄嗟に障壁を展開する。
激突。
爆発。
黒装束ごと壁へ叩きつけた。
「なにをしているの!」
「わたくしだって戦えますわ!」
「もう……!」
お母様が困ったような顔をした。
こんな状況なのに。
ほんの少しだけ。
いつものお母様に見えた。
「誰に似たのかしら」
「お母様でしょう?」
「そこはお父様と言っておきなさい」
最後の一人が逃げようとする。
その瞬間。
「逃がさん」
低い声。
銀色の剣が闇を裂いた。
黒装束が倒れる。
「お父様!」
地下道の奥から、お父様が現れた。
「無事だったか」
「当たり前ですわ!」
「そうか」
その一言に。
胸が詰まりそうになった。
けれど。
「お父様……その腕」
「大した傷じゃない」
左腕から血が流れていた。
服もところどころ裂けている。
わたくしが知る限り、お父様がこんな姿になったことなど一度もない。
お父様が剣についた血を払う。
「数が多すぎる。それに、こいつらは屋敷の構造まで把握している」
「では……最初からアルデルテ家を?」
「おそらくな。だが、目的までは分からん」
……カツン。
足音。
お父様が剣を構える。
お母様もわたくしの前へ出た。
「まだ来ますの?」
わたくしたちが来た方向。
その暗闇の向こうから、再び足音が響いた。
黒い影が一つ。
ゆっくり近づいてくる。
白い仮面。
「……あの者」
黒ローブ。
その後ろから、黒装束たちが次々と現れる。
「ローゼリア」
お父様がわたくしの前に立った。
「走れ」
「嫌ですわ」
「聞け」
「嫌です!」
声が震えた。
「もう逃げませんわ!」
「ローゼリア!」
「わたくしはアルデルテ家の娘です!」
右手に魔力を集める。
真紅の光。
「お父様とお母様だけ戦わせて、わたくしだけ逃げるなんてできません!」
「…………」
お父様は何も言わなかった。
少しだけ。
笑ったように見えた。
「まったく」
剣を構える。
「誰に似たんだか」
「あなたでしょう?」
お母様が言った。
「エレノアまで……」
黒装束たちが一斉に動く。
「来ますわ!」
戦いが始まった。
◇
何度魔法を撃ったのか。
覚えていない。
「《紅蓮華》!」
炎槍が敵を貫く。
横から剣。
「っ!」
避けきれない。
その間にお父様が入った。
「下がれ!」
剣同士がぶつかる。
「お父様!」
「前を見ろ!」
「……っ!」
正面。
黒い魔法が飛んでくる。
「《紅壁》!」
薔薇の障壁。
激突。
腕が痺れた。
視界に入ったあの人……。
黒ローブだけは動かない。
少し離れた場所から。
ずっとわたくしを見ていた。
「何なんですの……あの人……」
「ローゼリア!」
「!」
振り向く。
刃。
「危ない!」
お母様がわたくしを突き飛ばした。
「お母様――?」
赤いものが散った。
一瞬。
何が起きたのか分からなかった。
「……え?」
お母様の脇腹から。
剣の先が突き出していた。
「お母様……?」
「エレノア!」
お父様の怒声。
剣を突き刺した黒装束の首が飛ぶ。
お母様が崩れ落ちる。
「お母様!」
受け止める。
手が。
赤く染まった。
「そんな……」
「ロー……ゼリア……」
「喋らないでください!」
「そんな顔……しないの」
「無理に決まってますわ!」
治癒魔法。
そうだ。
使える。
「今、治しますわ!」
傷口へ手を当て魔力を流す。
「お願い……!」
光が傷口を包む。
でも。
血が止まらない。
「どうして……」
「ローゼリア」
「嫌です」
「聞いて」
「嫌です!」
お母様の手が、わたくしの頬に触れた。
夕方と同じ。
温かい手。
「あなたは……あなたよ」
「…………」
「誰に……何を言われても……」
「やめてください」
「自分で……選びなさい」
「やめて!」
手が。
ゆっくりと落ちた。
「お母様?」
返事がない。
「……お母様?」
嘘。
そんなはずない。
「起きてくださいませ」
揺らす。
「お母様」
何も言わない。
「怒りますわよ」
何も。
「お母様……?」
「ローゼリア!」
お父様の声。
顔を上げる。
黒い刃が迫っていた。
お父様がそれを受け止める。
「逃げろ!」
「でも、お母様が!」
「行け!」
「置いていけるわけありませんわ!」
「いいから早く行け!」
お父様が叫んだ。
振り向く。
その顔。
泣いている……?
「頼む」
「…………」
「生きてくれ」
初めて見た。
お父様の涙。
「それだけでいい」
そして。
お父様が敵の中へ飛び込んだ。
「待って!」
「《紅薔薇・千変万化》!」
無数の赤い刃が地下道を埋め尽くした。
「お父様!」
近づけない。
魔力の嵐。
爆発。
赤い光。
「お父様ぁっ!」
やがて。
光が消える。
「…………」
静かになった地下道。
そこに立っていたのは。
黒ローブ。
そして。
地面に倒れたお父様だった。
「……うそ」
身体が動かない。
「お父様?」
返事はなかった。
「…………」
頭の中が真っ白になった。
お母様。
お父様。
朝まで。
あんなに普通に。
話していたのに。
「……許さない」
声が出た。
「絶対に……」
魔力が溢れる。
赤い光がわたくしの身体を包む。
「あなたたちを許しませんわ!!」
これまで感じたことのないほどの魔力。
薔薇が咲く。
一つ。
十。
百。
地下道一面を真紅の花が埋め尽くす。
「《紅蓮……》!」
「無駄だ」
初めて黒ローブが口を開いた。
「……え?」
わたくしの薔薇が。
消えた。
跡形もなく。
「なんですの……それ……」
膝から力が抜ける。
何が起きたのかさえわからない。
黒ローブの後ろにいた黒装束の男が剣を抜く。
こちらへ歩いてくる。
逃げる力など残っていなかった。
それでも。
睨みつける。
「やりなさい」
怖い。
当然です。
でも。
あの二人を殺した者たちに。
怯えた顔だけは見せたくない。
もう、いい。
お父様もお母様もいないのなら……。
わたくしだけ生き残って、何になりますの。
男が剣を振り上げる。
その瞬間。
「待て」
黒ローブの声。
剣が止まった。
「……どうされました?」
「その娘には手を出すな」
「ですが、アルデルテの血筋です。ここで始末すべきでは――」
「二度言わせるな」
「……はっ」
男が剣を下ろす。
「…………」
意味が分からない。
力の差は歴然。
抵抗する力もない。
黒ローブがこちらを見る。
「なぜですの……?」
声が震える。
「お父様も、お母様も……みんな殺したのに……」
黒ローブは何も答えない。
「どうして、わたくしだけ殺さないんですの!」
叫んだ。
白い仮面が、わたくしを見つめる。
しばらくの沈黙。
そして。
「――教主様のお言葉だ」
「……教主?」
それだけを残し。
黒ローブは背を向けた。
「待ちなさい!」
立てない。
黒装束たちが去っていく。
「あなたたちは……あなたはいったい、何者なんですの!」
返事はない。
「どうして……」
地下道に。
わたくしの声だけが響いた。
「どうして、わたくしだけ……」
答えてくれる人は。
もう。
誰もいませんでした。




