三十三 晶子 ――君と呼ぶほかは知らずよ星月夜
戸を、叩く音がした。
二度。強い、ためらいのない音である。
返事を待つ間が、短かった。待ちきれずに、もう二度、鳴った。
急いでいるのではない。生きる速さが、もともと、そうなのである。
束髪の婦人が、立っていた。
羽織姿の、恰幅のよい、中年の婦人である。
ただ、目だけが、娘のままであった。何十年、何万首を経ても、目の光の齢だけは、取らなかった人と見える。
「歌の座と聞いて。——上がらせていただくわ」
聞いてから上がるまでが、また、短かった。
円座に着いて、燗を受けて、婦人は、うまそうに飲んだ。
「あら、いいお酒」
「どちらのお生まれで」と、女が、酌をしながら聞いた。
「堺」
女の手が、一瞬、止まった。
「……堺。いい町ですよ、堺は」
しみじみとした言い方であったが、しみじみの中身は、誰も問わなかった。
婦人は、文台の巻を、頭から、勢いよく読んだ。
読む速さが、生きる速さと、同じであった。
三十句目で——止まった。
秋風や旗を返しにゆく途中。
婦人は、その句を、長いこと、見ていた。
見て、誰の句か、悟った顔をした。
「……この方に」
と、婦人は言うた。
「言いたいことが、あって、生きてきましたのよ、わたくし。……歌で、一度、申し上げたわ。旅順の、包囲のさなかに。弟が、あの城の下におりましたの。——死んでくださるな、と、詠んだの。国賊と、呼ばれましたわ」
座は、静かであった。
包囲の内に弟を持つ姉の歌と、包囲を指揮した父の句とが、同じ巻の上に、載っているのである。
「三十二句目を、お願いします」とセンセが言うた。「その……付け先は、前句、連れの草鞋の句に、ございます」
「あの旗の句には、付けられないの?」
「……付けられませぬ。二つ前でございますので。打越と申して、前々句に付くのは、巻のご法度で」
婦人は、しばらく、黙った。
言いたいことのある相手の句は、二つ前にある。
二つ前には、決して、付けられない。
「……そう」
と、婦人は言うた。怒るかと思われた声は、怒っていなかった。
「いいわ。——歌はいつも、届けたい人の、二つ手前で、止まるものよ」
詠んだ歌が、届いてほしい場所に届いた例しのない人の、それが年季であった。死んでくださるな、は、戦を止めなかった。止めなかったが、消えもしなかった。二つ手前で止まったまま、いまも、そこにある。
「……弟は、帰りましたのよ」
と、婦人は、付けられない句のほうを見たまま、言うた。
「帰って、生きて、畳の上で死にました。……あの方は。あの方の二人は、帰らなかった。……いえ」
婦人は、言い直した。
「——お返しに、なったのね。旗と、一緒に」
言いたいことがあって生きてきた相手の句を、前にして、出てきたのは、それであった。
言い合うつもりだった二人は、巻の上で、二つ離れたまま、どちらも、返しにゆく人と、返された人の話をしている。
婦人は、盃を干して、背を伸ばした。
「さ。付けましょう。連れの草鞋、ね」
連れの草鞋も、同じ濡れよう——同じ道をゆく二人の句である。
婦人の目が、娘の齢に戻った。
「——君と呼ぶほかは知らずよ星月夜」
執筆の筆が、下りた。
墨の音が、五七五のあとを、ついていった。
君、と呼ぶほかを知らない。
恋しい人も、君。死んでくれるなと詠んだ弟も、君。この人は生涯、世界中を、君、と呼びつけて、呼びつけた分だけ、歌にしてきたのである。連れと歩む星月夜に、呼び方はひとつあれば足りる。
婦人は、立った。
戸口で、文台の少女を、振り返った。
「あなた、書きなさいね」
と、言うた。
「女が書くと、うるさく言う人が、まだ、いるけれど。——書けば、黙るわ。書き続ければ、ね」
少女は、筆を持ったまま、婦人を見上げた。
婦人は、それで足りた、という顔で、頷いた。
「では。——まだ、書くものが、あるの」
「死んでからも、お忙しい」と女が笑うた。
「ええ。書くものだけは、減らないの。ありがたいことに」
星月夜の下へ、速い足音が、出ていった。
文台の上に、句が、三十二。
——君と呼ぶほかは知らずよ星月夜
届けたい人の、二つ手前で止まる歌と。
それでも呼ぶのをやめない、君、と。
名残の折の鬘は、強い人であった。
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