三十二 狂言「三十一句目」 ――連れの草鞋も同じ濡れよう
文台の上に、句が、三十。
軍服の背中を見送って、センセは、いつもの通り、書物の山に潜った。
潜って——出てきた顔が、いつもと違った。
「……おい。あの御方、おひとりでは、なかったぞ」
「え?」
「あの朝。……奥方が、共に、じゃ」
座が、静かになった。
旗を返しにゆく途中、と詠んだ人である。途中、を歩いていたのは、一人ではなかったのである。
「……奥方は、望んでか。命ぜられてか」
と、誰かが低く聞いた。センセは、書物を三冊、繰り比べて、唸った。
「書物によれば……諸説、ある。命ぜられた、とする説。止められたのに従うた、とする説。初めから二人で決めておった、とする説。……珍しいことじゃ。書物どもが、揃わん」
書物が揃わぬときは、書物の外で決まったことなのである。
女は、燗をつけながら、黙って聞いていた。
聞き終えて、徳利の口を拭きながら、こともなげに言うた。
「……諸説、ねえ」
「そなたは、どう見る」
「あのね、センセ」
女は、火から徳利を上げた。
「ああいう朝に、白装束をね、自分で着る女は——命じられて着られるもんじゃ、ないんですよ、あれは。帯の結び目を見りゃ、分かります」
帯の結び目まで書いた書物は、ない。
ないが、座の誰も、女の説に、異を唱えなかった。酒席で千年、女たちの帯の結び目を見てきた者の説である。諸説の上に、静かに、蓋が閉まった。
囲炉裏の端で、爺が、ぽつりと言うた。
「……あの朝はね、静かだったよ。……足袋の鳴る音が、二人ぶん、してた。……揃ってた。稽古したみたいに、揃ってたよ」
誰も聞いていなかった。
聞いていなかったことに、しておいた。
「三十一句目、そなたの番じゃ」
女は、へえ、と言うて、文台の前句を、ちらと見た。
秋風や、旗を返しにゆく途中——。
それから、こともなげに、詠んだ。
「——連れの草鞋も同じ濡れよう」
執筆の筆が、すぐに、下りた。
センセが、腕を組んで、検分した。
「……旅の人に、連れを付けたか。道連れの草鞋が、同じに濡れておる。……秋の露の道じゃな。付き過ぎず、離れ過ぎず。軽い。……」
軽いが、の先を、センセは、言わなかった。
書かれた七七と、燗をつける女の横顔とを、順に見て、それきり、口を閉じた。
言わないことを、この男も、四折かけて、覚えたのである。
同じ濡れよう——。
同じ道を、同じ露に濡れて、同じ歩幅で。命じられた足では、ああは濡れない。結び目と、濡れようと。書物に載らない証拠ばかりで、この七七は、諸説に返事をしていた。
燗が回った。
表の柿の木から、また、実の落ちる音がした。
「……残り、五句か」
と、センセが、指を折って、小さく言うた。
名残の折は、数えるたびに、減っていく。減るのが惜しい巻というものを、座は、初めて、巻いているのであった。
文台の上に、句が、三十一。
——連れの草鞋も同じ濡れよう
連れ、と書いて、名は書かない。
この巻の流儀である。流儀が、こんなに優しく使える七七も、めったにない。
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