第59話 樽の支度
次の日には、選果はすべて終わった。
窓のない地下室では、こもっていると、時間の感覚がなくなる。
だから、時刻も忘れて夢中になってやっていた。
それでも、フェリルが腹をすかしたのだろう。ドアを叩く音が聞こえ、上がっていくと、フェリルが餌を要求している。
まだ雨は降りやまなかったので、フェリルを散歩に連れ出すことはできなかった。
夜は夜で、ヴィリーさんの日記を手に、ベッドに横になる。
日記には、ブドウを摘んだ後、熟成までの仕込みが書かれてあり、僕は、それを何度も読み返してきた。
仕込みでやったこと、それに使った道具が書かれてある。昔、醸造所の見学で教えてもらった工程と照らし合わせながら、次の作業の計画を練る。
ヴィリーさんの日記と、醸造所の工程は、ほとんど変わらない。
収穫後、
選果:傷んだ実をよける。
除梗:ブドウの軸(茎)を取り除く。
破砕:果皮を破って果汁を出す。
圧搾:プレスし、果汁を取り出す。
発酵:酵母が糖をアルコールに変える。
熟成:寝かせて旨味や丸みを引き出す。
実は、赤ワインと白ワインでは、少し工程が変わる。
白ワインの場合は、この順でいいのだが、赤ワインの場合、破砕したあと、発酵させてから、圧搾して、果汁を取り出す。
赤ワインは、果皮や種から、赤色と渋みを出させるためであり、白ワインは、渋みを出させないために、果汁のみで発酵させる。
そして、ヴィリーさんがやっていたのは、まさに白ワインの工程だった。
日記で気になったことが書いてあった。それは、ときに飲めないほど、酸っぱいワインができることだった。
これに関しては、心当たりがある。発酵に失敗しているのだと思う。となると、発酵させるための樽の問題が考えられるのだが、樽の処理については書かれていなかった。
元の世界の醸造所でならった方法を行うしかない。
ワインを酸っぱくさせる原因は雑菌で、とくに酢酸菌が繁殖すると、ワインがお酢のように酸っぱくなる。
こちらの世界では、まだパスツールのような人が菌を発見していないみたいだ。
ということで、樽を使う前には殺菌をする必要がある。殺菌には、硫黄を燃やして燻すやりかたを昔は行っていた。醸造所で、硫黄で樽を燻す古い写真をみながら、説明を受けたことがある。
硫黄で燻すと酢酸菌は死滅するが、発酵に必要な酵母菌には耐性があり、生き残るらしい。
硫黄は、すでにある。畑に引く水源を確認しに山に登ったときに温泉を見つけていた。
いわゆる、湯の花を煮て、硫黄を抽出するつもりだった。
◇
夏のころ、大きな鍋を担いで、温泉から硫黄をとりに山に登ろうとしたときだった。
「どこ行くんだい?」
と、近所のおばさんに声をかけられた。
「硫黄を取りに……」
「硫黄? 聞いたことないね。何に使うんだ?」
「ワイン用の樽を殺菌するためです」
「殺菌?」
「あ! 樽の中をきれいにするんです」
――菌が見つかっていないことを忘れていた。
「そんなら、アイラさんにお願いしたらいいだろう? あの人、浄化魔法を使えるんだから」
「え! そうなんですか、でも……」
と断る前に、おばさんは、
「あたしが、アイラさんを呼んできてあげる」
と、去っていった。
樽を浄化してしまうと、酵母菌まで死んでしまうかもしれない。でも、それには考えがあった。もともと、酵母菌として、樽に残っていた澱を使うつもりでいた。
ある樽の中に酵母菌として使える澱が残っていた。鼻を近づけて嗅いでみると、嫌な臭いはなく、ブドウの香りがして、少し舐めてみても酸っぱくなかった。それを集め、酵母菌として使うことにしていた。
屋敷で待っていると、リーゼさんのお母さんのアイラさんがやってきた。
浄化してもらう樽は、すでにブルーノさんに作ってもらったカンナで削ってある。
さっそく、樽の前に立ち、呪文を唱えると、樽は青い光に包まれ、光はすぐに消えた。
こちらの世界に来て、初めて人が使う魔法を見た。映画やアニメで見たことはあったが、いざ、目の前でみると、不思議である。異世界にいるのだと思い知らされる。
なんでも、アイラさんが使う浄化魔法はいわゆる生活魔法のレベルで、聖女にもなると、魔物が出す瘴気や広い範囲の浄化ができるらしい。
「リーゼさんも魔法を使えるんですか?」
「だめよ。そんなことを聞いちゃ。年齢とおなじで、若い女性にとっては、最高機密なんだから」
「でも、アイラさんは、魔法を見せて……」
「私に何を言わせたいのかしら?」
「あ! ごめんなさい」
「あやまられるのも、違うと思うけど……」
こちらの世界でも、女性に対する会話は気をつけないといけないと、改めて知る。
そういうわけで、樽の支度は、夏のうちに済んでいる。




