第56話 雨の臭い
次の朝、日の出とともにリーゼさんがやってきた。
「おはようございます。ハルさん」
朝から元気な声に、
「おはようございます」
と、答えるも、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。
リーゼさんのいでたちが、ツボにはまってしまった。
だぶだぶのシャツにオーバーオール、作業靴を履き、麦わら帽をかぶっている。
それが、どれも大きすぎて、彼女に合っていない。
たぶん、父親のを借りてきたのだろう。
やる気が服にでていて、見ていると、けなげに思える。
何か言ってあげたいが、言葉を間違えると、傷つけることになるかもしれないので何も言えない。
僕は、できる限り冷静をよそおい、リーゼさんにブドウのことを教えることにした。
まずは、ブドウの実の色の変化、重さ、やわらかさなど、実際に実を触らせながら教えた。
一粒の実を手にとり、日に透かしてみせた。透かした実をみようとリーゼさんの顔が近づく。近づく彼女の唇が気になり、僕は思わず、持っていた実を落としてしまう。
何もなかったように、別の実を摘み、リーゼさんに味わわせてみた。
酸っぱかったのか、彼女は顔をゆがめた。
その顔を見た僕は思わず、
――かわいい。
と思ってしまう。
ときどき、話していて目が合うと、どちらからともなく目をそらしてしまう。それでも、何もなかったように、ブドウの話をつづけた。
リーゼさんも、目が合うたびに頬が赤くなる。そんなことを繰り返し、僕は、ブドウのことを教えた。
夜の散歩での出来事は、あれきり、二人とも口にしていない。
別の日には、収穫の話をした。
「雨が降る前に収穫しなければならないんだ」
「どうして?」
「熟れたブドウに水があたると、実が雨を吸って、せっかくおいしく熟れたのに、その味が薄まってしまうんだ。そして、実が……パーン! って割れるんだ」
僕が「パーン」というところで少し声を上げて言ったので、彼女はびっくりした顔になった。
「ごめん。脅かしてしまって」
と僕は笑いながら、すぐに謝った。
「もう、びっくりしたじゃない」
と、リーゼさんは少し怒っている。
実は、僕の不安がリーゼさんに伝わらないように、できる限り、明るく説明したかったのだ。
――雨が降る前に、ブドウの実が熟してくれればいいんだが……。
間に合わなければ、今まで育ててきたことが、無駄になってしまう。
「それと、今回の収穫は、夕方から早朝になりそうなんだ」
もう一つの不安は、この暑さだ。季節が秋になって、朝夕の暑さは和らぎ、過ごしやすくなった。それでも昼間の暑さはまだ残っている。
「収穫するときの暑さも、ブドウにとっては大敵なんだ。なぜって? 暑い日に収穫すると、勝手に発酵しだして、酸化が進んだり、最悪、腐ってしまうこともあるんだ」
リーゼさんと、そんな朝のひとときを過ごしたあと、二人で麦刈りに出かける日が続いた。
ブドウの実は熟し、収穫してもよいころだと思う。ただ、中には、まだ熟しきっていないものもある。
風も日に日に暑さを緩め、雲も少しずつ増えてきた。
◇
麦刈りを手伝い終え、夕方になったころ、気づく。
日が沈みかけているにもかかわらず、夕焼けが麦畑を赤く染めていない。
「このぶんだと、明日から、雨がふりそうだな」
と、誰かがつぶやいた。
「ああ、それに風の向きもかわったし、遠くの山も、なんだか近くに見えるしな」
「雨の臭いも少しするよなあ」
それを聞いて、僕は、
――今夜、ブドウを摘もう。もう少しで熟す実もあるが、しかたない。
と、空を見上げて、決心する。
「今夜、収穫するのね?」
と、リーゼさんに訊かれた。
「うん、そうする」
「じゃあ、私も手伝わせてね」
「それは……」
若い女性が一人、夜中に男の家に行くのは、どうかと思う。実は、リーゼさんを、家にはなるべく入れないようにしていた。一人暮らしの男の家に入るのは、世間的にまずい。変な噂が流れて、リーゼさんに迷惑がかかるのを避けたかった。だから、
「いや、それはダメだよ。夜遅くに、若い女性が、男の家を訪ねるなんて……」
「でも……」
「ごめん」
そう言うと、リーゼさんは残念そうな顔をした。




