第53話 ヴィリーさんとの別れ
夕食を終え、みなが帰ったあと、ヴィリーさんに泊まってもらおうと、寝室へ案内した。
部屋の空気は、定期的に入れ替えていた。ちょうど二日前、窓を開け放って風を通したばかり。心から、よかったと思った。
寝室に通すと、
「もう、ハルさんの家なんだから、私は客間でいいんだよ」
と、ヴィリーさんは言う。
「いえ。この部屋は使っていないので、気にしないでください」
「じゃあ、ハルさんは、いつもどこで寝てるんだい」
「台所の横の部屋です」
「え。あそこは、使用人の部屋だよ」
「あの部屋が、いちばん落ち着くんです。ほかは、広すぎて」
「それなら、仕方ないな」
と、ヴィリーさんが笑った。
ふと、枕元の絵に目をとめると、その顔が、悲しげに変わる。
絵には、一人の女性が描かれていた。品のある、美しい人だ。見る者に、やさしく微笑みかけている。
「奥さん、ですか」
「ああ。亡くなって、三十年になる」
「そうですか……」
ヴィリーさんの横顔に、何も言えなくなった。
しばらくして、「ごゆっくり、お休みください」とだけ告げ、僕は寝室を出た。
◇
翌朝、早くに起きて、二人分の朝食を作った。
いつもベランダで食べていると話すと、ヴィリーさんも「じゃあ、ベランダで」と言うので、二人で外に出る。
「この音色だったんだ」
と、ヴィリーさんが、風鈴の音に耳を傾けた。
チィリーン。
「いいね。暑い夜に、涼しさを運んでくる」
と、しみじみ、風鈴を見上げる。
支度をしていると、焼きたてのパンを抱えて、リーゼさんがやってきた。
「リーゼも、いっしょにどうだ」
ヴィリーさんが誘い、三人で食卓を囲むことになる。
リーゼさんのパンを、ヴィリーさんがひと口。
「相変わらず、アイラさんのパンはうまいな」
「それ、お母様じゃなくて、私が焼いたの」
「それはすまない。リーゼも、腕を上げたな」
「まだ、お母様にはかなわないけど。でも、間違えられて、うれしい」
と、はしゃいでいる。
皿には、リーゼさんのパンと、僕の作ったパンを並べた。
僕が焼いたのは、フレンチ・トーストだ。
よく溶いた卵を網でこし、なめらかにする。牛乳と少しの砂糖を加え、そこにパンを浸して、前の晩から冷やしておいた。それを今朝、フライパンで、こんがり焼いたものだ。溶かしバターをかけて、皿にのせる。
「これは?」
「『フレンチ・トースト』という料理です。ナイフとフォークで、食べてみてください」
「パンを、ナイフとフォークで?」
と、二人は興味津々で口にする。
「おいしいわ。中までしみて、ふわふわ」
「確かに。これはいい」
と、ヴィリーさんが、二口目を急いでフォークにさすのを見て、僕は満足だった。
食べ終えると、リーゼさんが、
「ハルさん、作り方、教えてね」
「いいですよ」
と、快く引き受けた。
冷たい果物のジュースが空になったころ、
「大叔父様は、いつまでこちらに?」
と、リーゼさんが尋ねた。
「今回は、長くいられないんだ。実は、昼には首都へ帰るつもりでね」
「そんな。もっと、ゆっくりしていけばいいのに」
「すまないね」
戦争のことが、頭をよぎった。けれど、口に出すのは、ためらわれた。
◇
朝食のあと、リーゼさんは帰り、ヴィリーさんと畑仕事にかかった。教えながら、風通しをふさぐ葉やツタを、切ってもらう。僕は、ポットに水を足していく。
陽射しは強く、汗がしたたる。それでも、二人でする畑仕事は、どこか心地よかった。
――こんな日が、続けばいいのに。
そう思うそばから、どうしても、不安がよぎる。
昼前になり、そろそろ昼食を、と考えていると、近所の人たちが、次々と料理を持ってやってきた。
「ヴィルフリート様、召し上がってください」
みなが持ち寄るので、二人では食べきれない。結局、大きな食卓を囲んで、ランチ・パーティーになった。始終、笑いが絶えなかった。
パーティーがお開きになり、近所の人たちを、ヴィリーさんと玄関まで見送る。ヴィリーさんが屋敷へ戻り、僕も入ろうとしたとき、一台の馬車が、屋敷の前に停まった。
御者が、
「こちらに、ヴィルフリート様はいらっしゃいますか」
と尋ねる。
「はい、少々お待ちを」
僕は、ヴィリーさんを追った。
ヴィリーさんは、寝室にいた。大きなトランクを開け、中を見つめて、たたずんでいる。
箱の中には、気高い武具が、のぞいていた。
「ヴィリーさん」
声をかけると、ヴィリーさんは、あわてて箱を閉じた。
「お迎えの方が……」
「そうか」
と、静かに答え、「悪いが、御者を呼んできてくれないか」と頼む。
御者を交え、三人で武具のトランクを運び出し、馬車に積んだ。
ヴィリーさんは、部屋に戻ると、貴族のいでたちに着替えて、現れた。
「もう、行くのですか」
「ああ」
短く答え、「ブドウ畑のことは、頼む」と、握手を求めてくる。
僕は、その手を握り返して、
「収穫のときには、帰ってきてくださいね。人手が、足りませんから」
と言うと、ヴィリーさんは、何も言わず、ただ微笑んだ。
僕の隣にいたフェリルが、クーンと鳴く。
「お前もな、ブドウ畑を頼むな」
と、フェリルの頭をなでる。
馬車に気づいたのか、近所の家々から、見送りの人が、続々と出てくる。
◇
ヴィリーさんが去って、何日か経ったころ。
この国の国王が、南の国へ宣戦布告をした――と、僕は、耳にした。




