第51話 ヴィリーさんの帰省
夏祭りが終わり、街も村も、いつもの静けさを取り戻したころ。フェリルの毛が、ずいぶん汚れているのに気づいた。
出会ったころの銀色の毛並みは、今ではすっかり輝きを失い、ところどころ、茶色にくすんでいる。
一度、洗ってやろう。
食事を餌に、台所の裏まで連れてきた。首輪のリードを近くの柱に結び、遠くへ逃げないようにしておく。石鹸を泡立てたお湯のバケツを、そっとそばに置き、台所の蛇口にシャワーの管をつないで、気づかれないように近づいた。
食べ終えたころを見計らって、体をなでながら、少しずつ水をかけていく。
――じっとしていろよ。
いつでも逃げられるよう中腰のまま、おそるおそる、フェリルの体を濡らす。ある程度、湿ったところで、泡立てたお湯で洗った。
石鹸が、みるみる茶色に染まる。
たわしのようなもので、はじめはやさしくこすってやる。フェリルはおとなしかった。むしろ、気持ちよさそうだ。
汚れが浮いたところで、もう一度シャワーを浴びせ、洗い流す。
濡れた毛をタオルで拭こうとした、そのとき。フェリルが、ぶるぶると身を震わせて、水を飛ばした。しぶきをまともに浴びて、僕はびしょ濡れになる。
次の瞬間、フェリルの足元から風が舞い、その体を包んだ。風がやむと、毛はすっかり乾いて、銀色の輝きを取り戻していた。
――便利だな。こっちは、ずぶ濡れなのに。
櫛を通すと、銀の毛並みに、無数の細かい光が散っていた。
――お前の毛、こんなにきれいだったのか。
整え終えると、まるで神々しいほどの生き物に変わっていた。僕は思わず、見とれてしまう。
リードをほどき、いつもの場所へ連れていこうとしたとき、
「ハルさん!」
声のほうを向くと、貴族のようないでたちの男性が立っていた。
よく見ると、ヴィリーさんに似ている。
「ヴィリーさん?」
「そうですよ。お忘れになりましたか。お久しぶりです」
「ヴィリーさんだ。ほんと、お久しぶりです」
ヴィリーさんが、畑のわきを通って、駆け寄ってくる。僕は、フェリルのリードを握っていて、動けなかった。
「なんか、雰囲気、変わりましたね」
「ええ、庭師から貴族に戻らされたからね。それより、どうしたんです、びしょ濡れじゃないですか」
「ええ、この子を洗ってまして……」
ヴィリーさんが、フェリルに目をやる。
「これって、魔獣じゃないですか」
「そう、みたいです」
「そうみたいって……危ないですよ」
「大丈夫ですよ。ほら」
僕がフェリルに抱きついてみせると、フェリルも嬉しそうに尻尾を振った。
「あきれた。さすが、ハルさんですね」
「ヴィリーさんも、撫でてやってください。喜びますから」
ヴィリーさんは、おそるおそる、フェリルの頭を撫でた。フェリルが「クーン」と甘える。
「人に懐いてるのか……こんな魔獣、初めて見ましたよ。……でも、どこかで見た気が。そう、南の国で、魔獣の群れの討伐を受けたとき。こんな、輝く銀の毛並みでした。屋敷くらいの、大きさでしたが」
「その魔獣は、どうなったんです?」
「すごい速さで駆けるので、逃がしてしまいました」
「そうなんですか……」
ヴィリーさんが、ブドウ畑に体を向けた。
「畑を、見せてもらえますか」
「ええ、どうぞ」
フェリルのリードをつなぎ直し、ヴィリーさんについて、畑へ向かう。
ヴィリーさんは畑を見渡すと、
「今年は、不作だったみたいだね。毎年、もっと実をつけるんだが……」
と、庭師の顔に戻り、残念そうに言う。
「いえ、僕が間引きしました」
ヴィリーさんが、驚いた顔で僕を見た。
「どうして?」
「他より、いいワインになる実の木にだけ間引いて、少ない実に栄養を集めれば、より優れたワインになります。……でも、僕には、どれがワインにいい木なのか、わからなくて。見分けるためにも、全部の木を間引きました」
「そうか……やっぱり、ハルさんはすごいな。私には、どの実も愛しくて、その決断はできなかった」
「僕も、悩みました。でも、今やるしかないと思って」
「優れた実を作るために、他を犠牲にするか……」
ヴィリーさんは、何か思うところがあるのか、じっと畑を眺めた。それから、一本、一本、木をていねいに見て回る。まるで、答案を採点されているような気分だった。
根元のポットに気づいて、
「これは?」
「水やりの器です。素焼きの土器に水をため、しみ出す量を加減しています」
「これだと、水が少なすぎないか」
「いえ、わざと最低限しか与えません。そうすれば、木は子孫を残そうと、実に力を注ぎこんで、いい実をつけるんです」
「驚くばかりだ。この畑を、ハルさんに託して、正解だったよ」
「ありがとうございます。……でも、一本だけ、見ていただきたい木が」
僕は、あの老木のところへ、ヴィリーさんを案内した。
ヴィリーさんは、愛おしむように、幹に手を触れる。
「まだ、枯れずに実をつけてくれるのか……」
と、しみじみ話しかけた。
「足元を、見てもらえますか」
ヴィリーさんが、視線を落とす。
「これは、どういうことです」
無理もない。老木の幹はくり抜かれ、大きな穴があいている。枯れて死んだようにしか、見えない。
「幹の中が、カビに侵されていました。枯れるのも時間の問題かと思って、思い切って、水と栄養を運ぶ外側だけ残して、削り取ったんです」
「これも、ハルさんの国の技術かい」
「ええ。『クールタージュ』という、ブドウ栽培の手法です。腐った部分を取り除けば、あと何十年も生きられると聞いています」
「そうか。……何度でも言うよ。この畑を、ハルさんに託して、本当によかった」
「大げさすぎますよ。そうだ、僕もヴィリーさんに聞きたいことがあるんです。しばらくはいてくれるんですね」
「いや、そうしたいのだが……」
と、言葉を濁した。
僕は、理由を問わなかった。
それでも、ヴィリーさんとは食事をするのも忘れて、ブドウについて語り合った。




