第35話 商人ギルド長
その日、キースさんからは、この世界のことを、いろいろと教わった。
この世界には、十もの国があること。それぞれの国に、特色や特産品があること。
南の国のさらに南の果てには、まだ人の手の入らない未開の土地が広がり、北の果てには、魔族の住まう地がある。その境には、大きな壁がそびえているのだという。
どの国にも、勇者や英雄と呼ばれる者がいて、ときおり現れる魔物を退治したり、ダンジョンを攻略したりしている。
――勇者に、英雄、それにダンジョンか。
まるで、物語のなかの言葉だ。この世界に来てから、畑ばかり見ていた僕には、いまさらのように、ここが異世界なのだと、思い知らされる。
僕が、この地に来たいきさつや、ヴィリーさんに世話になったことを話すと、キースさんは、意外そうな顔をした。
「ヴィルフリート様といえば、この国の英雄では、ありませんか」
「英雄……?」
あの、穏やかな庭師が。
どうやら僕は、とんでもない人に、お世話になっていたらしい。
◇
キースさんは、僕が考えた石鹸も、大量に買い取ってくれた。持ち帰って、商品にするのだという。
そんな話をしているうちに、すっかり夜はふけ、二人には、屋敷に泊まってもらうことにする。
風呂に入ってもらい、客間に寝てもらった。
次の朝、乾いた服に着替えると、二人は、丁寧に礼を言って、旅立っていった。
◇
二人を見送ってから、僕は、お米のことで、しばし悩んだ。
早く食べたい。けれど、どうせなら、玄米より、白いごはんが食べたい。
――となると、精米しないと。
だが、この世界に、精米機なんて、あるはずもない。臼と杵でつくのか、瓶に入れて棒でつくのか……。
そんなことを考えながら、いつものように、ブドウ畑の世話をした。
◇
昼どき、ベランダで昼食をとっていると、屋敷の前に、一台の馬車が止まった。
中から、少し着飾った女性が下りてくる。その後ろに、地味な身なりの若い女性が、続いた。
「ハルさん、ですか?」
「ええ、そうですが……」
「そちらへ、伺っても、よろしいでしょうか」
女性は、足早にベランダの前まで来ると、にこやかに名乗った。
「はじめまして。私、商人ギルドで長を務めております、セシリアと申します。こちらは、秘書のマーゴットです」
マーゴットさんが、軽く会釈する。
――商人ギルド長。
そういえば、と思い出す。以前、職人ギルド長のバーナードさんから、「商人ギルド長が会いたがっている」と言われて、「近いうちに」と約束したきり、先延ばしにしていた。
「セシリアさん、すみません。伺わなければと思いながら、ご挨拶もせず……」
「いえ、もう、いいんです」
「それより――昨日、カーマイン商会のキースさんが、こちらへ来られましたね?」
「はい。昨夜泊まって、今朝、発たれました」
セシリアさんが、小さく、ため息をついた。どうやら、一足違いだったらしい。
◇
「実は今日、伺いましたのは、商人ギルドと、契約を結んでいただきたくて」
「契約、というと?」
セシリアさんが目配せすると、マーゴットさんが、一枚の書類を差し出した。
「よその土地から来た商人が、ハルさんに会うには、必ず商人ギルドを通す。そういう取り決めに、したいのです」
「どうして、です?」
「あなたを、守るためです」
セシリアさんは、まっすぐに僕を見た。
「商人というのは、抜け駆けも、だし抜きも、時にはだますことも、平気でやる連中です。放っておけば、いいように振り回されて、あとで厄介ごとになりかねません。その前に、ギルドで押さえておきたいのです。ハルさんにも、損はありません。勝手に押しかけてくる商人の相手を、しなくて済みますから」
「キースさんは、いい方でしたよ」
「ええ、存じています。北の港町で、いちばん大きな商会の方ですもの」
――そんな、大商人だったのか。
どうやら僕は、人を見る目が、ないらしい。キースさんもそうだし、英雄だったというヴィリーさんも、そうだ。
そのとき、
――チィリーン。
風鈴が、澄んだ音を立てた。
「……涼しい音ですこと。暑さが、やわらぎますね」
セシリアさんのその言葉を聞いて、
「……わかりました。契約しましょう」
「では、こちらに、ご署名を」
差し出されたペンで、僕は、書類に「ハル」とサインした。
◇
契約がすむと、セシリアさんは、ほっとしたように、ベランダの椅子に腰を下ろしかけようとして、はっと、身を起こした。
「座っても、よろしいですか?」
「どうぞ。何か、冷たいものでも」
僕は台所へ立ち、冷やした水に、シロップと果汁を加えて、レモネードもどきをこしらえた。ベランダに戻ってくると、マーゴットさんにも、椅子をすすめた。
テーブルにグラスを置くと、二人は、ひとくち、口をつけた。
風が吹いた。
――チィリーン。
風鈴が、また涼しげな音を立てる。
三人の視線が、軒先へ向いた。




