第25話 バニラのはいってないミルクレープ
その日、この世界にきて、もっともショックなことが起きた。
それは、ほとんど見回るだけでよくなった畑仕事を終え、昼食を作っているときだった。
腸詰めの肉と、市場で買ってきた野菜を炒めているときだった。調子にのってフライパンを返したとき、具材を床に落としてしまった。それで、落ちた具材を拾おうとして、肩がコンロの下の部分にあたってしまった。
小さなふたが開いて、中にはつまみとボタンが並んでいた。
――これはなんだ?
ヴィリーさんの家のものはあまり触らないようにしていた。キッチンの上や、コンロやシンクの下の戸棚も、ほとんど開けていなかった。
いつものように触らないほうがいいと思う前に、指がボタンを押してしまった。
すると、コンロ下のふさがった面が、下に開いた。
――オーブンだ。
自炊し始め、気になっていたことがある。近所からいただくおかずの中にはコンロでは調理できず、オーブンで作っているものがあった。ヴィリーさんの家にはないものだとあきらめていた。
――まさか、こんなところに……
確かに、コンロの下に備え付けのオーブンがある家も見たことがあるが、実家にも、まして一人で暮らしていたマンションにも、そんなものはなかった。
ということで、オーブンの使い方を知りたい。
いつもは、リーゼさんに教わるのだが、よくよく考えれば、男一人暮らしの家に、年頃の女性を入れるのはまずいだろうと思うようになり、仲良くしてくれる近所の奥さんに聞くことにした。
わざわざ奥さんに、台所に来てもらい、オーブンの使い方を教わった。
オーブンが手に入り、何を作ろうかとあれこれ思いをめぐらせた。
――やっぱりケーキだよな。
と思いつつ、食べたいケーキを頭に浮かべる。
――ミルクレープだな。
クレープ生地の間にカスタードクリームをぬり、何層にも重ねるケーキ。で、気づく。
――オーブン、いらないじゃない!
せっかく、見つけたオーブンなのに、思い浮かべたのはオーブンのいらないケーキだった。でも、一度、食べたいと思うと、その思いを消すことはできなかった。
コンロでフライパンを温め、ぬれぶきんの上において、一度冷ます。そのあと、小さな火力にしてフライパンをおく。
フライパンの上にクレープ生地を薄く伸ばして、焼いた。久しぶりなので、うまく焼けない。火力が強くて焦がしたり、フライパンの熱が均等でなかったのだろう。クレープの表面が焦げた色とクリーム色のグラデーションになってしまったりもした。
それでも、食べても大丈夫そうなクレープを何枚か作ることができた。
作りながら、一人暮らしを始めたころの学生時代を思い出す。もてあます時間に料理を始めたり、ケーキ作りもした。しかし、バイトが忙しくなり、いつのまにか、スーパーの惣菜や、コンビニのケーキですませるようになった。
牛乳と卵を火にかけて、カスタードクリームを作る。バニラが手元になかったので、バニラ抜きのカスタードになってしまった。今度、市場に行って、バニラを探そうと思う。
ようやくできたミルクレープの一切れとハーブティーを持って、いつものベランダに向かった。
外はよく晴れた昼下がりだった。
いつもの光景を見ながら、ミルクレープをひとくち、口にした。
――食べられないことはないが、やっぱり物足りないな。
バニラがはいっていないのはやはり惜しい。これからもケーキを作ることになるだろうから、バニラは必須だなと思い、ふたくち目を口にする。
「こんにちは。ハルさん? 何を食べているんですか?」
声のするほうをみると、リーゼさんが立っていた。
「ミルクレープです」
「ミルクレープ?」
「よかったら、いっしょに食べませんか?」
「いいですか?」
と跳ねるようにベランダにあがってくる。
「ここに座って、待っててください」
僕は、台所へ向かった。
◇
「甘くて、おいしい」
と、小さな口にミルクレープを頬張ると、目を見開いた。
「よかった。でも、これ、完成ではないのです。本当は、もっとおいしいはずなんですが……」
「これよりもですか?」
「ええ、バニラって聞いたことあります?」
「バニラですか?」
「甘い香りがする香料なんです」
「……聞いたことありませんね」
「そうですか……」
「でも、ケーキに入れる甘い香料はいくつかありますよ」
「本当ですか?」
「ええ」
――もしかしたら、この世界にもバニラがあるかもしれない。
そんな期待をしていると、
「あら、お二人で何をしているのかしら? 仲のいいこと」
さきほど、オーブンの使い方を教えてもらった奥さんだった。
「ミルクレープっていうケーキを食べているんです」
と、リーゼさんが答えた。
「ミルクレープですって! また、聞きなれないものを」
「よかったら、いっしょに食べませんか?」
と、僕が誘うと、
「そう」
と奥さんがベランダにあがってくる。
僕は、奥さんのハーブティーとミルクレープを用意しに、屋敷に戻る。
春のやさしい日差しがベランダに差し込み、三人でバニラ抜きのミルクレープを口にしながら、笑いの絶えない、たわいもない話をして過ごした。
日が傾くころ、リーゼさんと奥さんは、帰っていった。
食べ終えた食器を台所へ運びながら、今日一番、感動したことを思い出す。
オーブンの使い方を教わっているとき、キッチンに立つ奥さんと窓から差し込む日の光が、ある絵画を思い出させたのだ。
――まるで、フェルメールだったな。




