第17話 地下室
毎朝、テラスの椅子に腰かけ、朝日にきらめく『ブドウの涙』を眺めながらハーブティーを飲む。それが、近ごろの日課になっていた。
この屋敷にきてから、ずっと気になっていたことがある。
屋敷の奥、台所のさらに先に、扉があったのだ。
以前に、そのドアを開けたとき、地下へと続く階段が見えた。
ヴィリーさんのプライベートな部屋かもしれないと、降りるのをためらっていた。
ところが、最近、台所の料理をしていると、かすかなワインのような匂いが漂ってきた。
匂いのするほうにたどってみれば、地下へと続く階段のある扉にいきつく。
――プライベートな部屋なら、二度といかなければいいか。
と、思い切って、階段を降りることを決心した。
◇
ランプを片手に、僕は石の階段を下りた。
階段は長く続いていた。奥まで降りると、ひんやりとしているが、湿った空気が体をおおった。かび臭くもなかった。
――この空気感、どこかで……
ようやく、階段を降り切ると、そこには広い部屋があった。
多くのワイン樽が並んでいる。ふたの外れた空の樽が、床に転がっている。
温度が低く、寒いくらいだった。
醸造したワインを眠らせるには、これ以上ない環境だ。ワインセラーとしては、最適な部屋になっている。
――だが、醸造する場所ではないな。
実家で作ったブドウは、近くのワイン醸造所に卸していた。
そこは、元、鉄道が走っていたトンネルだった。入り口を鉄の扉でしまってあった。
一度、祖父に連れられて、トンネルの醸造所を見学したことがある。実は、醸造所の片隅を間借りして、自分たちが飲む分のワインを作っていた。
見学したときのことを、今になって思い出した。
できあがったワインは、この部屋と同じ温度と湿度で保管してあった。でも、醸造している場所は、室温は不快なほど、じめじめしていた。
祖父がいうには、
「空気が乾燥していると、樽の縮み、隙間からワインが蒸発してしまう。それに樽の隙間から空気が入って、ワインが酸っぱくなる。だから、これぐらい湿っとらんといけないんじゃ」
――そういうことか。だから、この世界のワインは酸っぱいんだ。
部屋に入って、すぐのところの作業机にランプを置くと、一冊の日誌が目に入った。めくってみると、ブドウの木の日誌のように、こと細かく記録してあった。
部屋の明かりをつけた。
奥のほう、並んでいる樽に近寄った。樽についている栓を開けたが、穴からは何も出てこなかった。すべての樽を試したが、どれもワインは入っていなかった。
樽は何年も使われていなかったのだろう。カビが生えているのもあった。
鼻を近づけると、つん、と獣くさいにおいがする。
――削って、火であぶれば、使えるものもあるだろう。
◇
作業机に、カンナがあったので、さっそく削ってみた。
ところが、これがどうにも使いづらい。
刃が、向こう側を向いている。前へ、押して削る形だ。
――そうか。こっちのカンナは、押して使うのか。
実家のカンナは、手前に引いて削る。体に引きつけるぶん、力がのって、薄く、つるりと削れた。けれど押すカンナは勝手が違って、刃がうまく食い込まない。
樽の内側は、つるつるに仕上げないといけない。ささくれが残っていると、そこからワインが染みて、漏れてしまう。
――引くカンナが、欲しいな。
ここはもう、あの人に頼むしかない。
僕は、部屋の明かりを消し、ランプとヴィリーさんの日誌を持って、もと来た階段を登った。
◇
鍛冶屋を訪ねると、ブルーノさんは僕の顔を見るなり、にやりと笑った。
「よう! ラチェット、売れてるぜ。口コミで知って欲しがるやつが増えているんだ。今は、他のはさみにもつけないか研究中よ!」
「それは……よかったです」
「で、今日はなんだ? また、面白いもんか?」
ブルーノさんが興味津々で目を輝かせている。
「カンナを、作ってほしくて。刃が、手前を向いてるやつを」
「手前? 押すんじゃなくて、引いて削るのか?」
「ええ。そのほうが、薄く、きれいに削れるんです」
ブルーノさんは、しばらく顎をなでて、
「……なるほどな。引くのか。考えたこともなかったな」
と、少し考えて、
「面白え。やってみるか」
◇
その夜。
布団に潜り込んで、地下から持ち帰った日誌を開いた。
そこには、ヴィリーさんの、醸造の記録が詳細に書かれてあった。
几帳面な字が、びっしりと並んでいる。仕込んだ年。ブドウの出来。発酵の様子。
そして、味の感想。
その日誌には何度も出てくる言葉があった。
『今年も、だめだった。あの味には、届かなかった……あの一杯を、もう一度、味わいたい』
その言葉が繰り返される。
ヴィリーさんには、長い年月をかけて追いかけ、それでも届かなかった味があった。
――どんな味だったんですか? ヴィリーさん!
日誌を閉じて、枕元においた。
今日は地下室で大きな発見をした。この世界の酸っぱいワインの原因がわかったかもしれない。思わず顔が緩んだ。
部屋の灯りが、まるで希望の光であるかのように、揺れて、それでも、しっかりと部屋を照らし続けていた。




