16話 ぶどうの涙
ピザ窯の土台にする石を並べながら、僕の心は、半分、ブドウ畑にあった。
剪定を終え、古木のクールタージュも済ませた。やれることは、やった。
あとは、木が応えてくれるのを待つしかない。
毎朝、早く目が覚め、日の出とともにブドウ畑を見てまわる。
――今日も、まだか……。
冬の間、ブドウの木は枯れ木のように見える。葉もなく、茶色い枝と幹だけしかない。まるで眠っているようだった。
けれど春が近づき、地面が暖まると、根が目を覚まし、地中深くから、水や栄養を吸い上げはじめる。水と栄養は木の導管を伝って、木の隅々までいきわたる。
木が生きていれば、剪定で切った枝の先から、透明なしずくがにじみ出てくる。
それが――「ブドウの涙」。
涙が出れば、木は生きている。根が動き、水を吸い上げている証拠なのだ。
――涙が出なければ……
今は、運を天に任すしかない。
とくに、気がかりなのは、あの古木だった。
幹をくり抜き、空洞にしてしまった。あれだけ大きく手を入れて、はたして耐えてくれたのか。畑の主のような、いちばん古い木。もっともヴィリーさんが大切に育てていた木だった。
――もしものことがあれば、合わす顔がない。
そんな気を紛らわすため、ピザ窯を作っているのかもしれない。
◇
遠い昔。実家の畑で、祖父が切り口から垂れるしずくを見て、安心した顔をしていたのを思い出す。まだ小さかった僕は、そんな祖父に言ったことがあった。
「おじいちゃん、枝の先から水がたれているよ?」
すると祖父は、しわだらけの顔をほころばせて、こう言った。
「これはな、このブドウの生きている証なんだ。冬のあいだぐっすり眠ってた木が、目覚めて、そのときに出るのが、この涙なんだ。お前も朝、目が覚めたときに、あくびといっしょに、涙が出るじゃろ? あれだよ」
「そうなんだ……」
「わしにはな、これが、今、目がさめたから、これからよろしくって言っている気がするんだ」
「ふーん」
祖父は、このしずくを「ブドウの涙」ということを教えてくれた。
◇
「ブドウの涙」を流さない日々が長く続いた。ヴィリーさんの日誌を見ても、そろそろ流しだすころだった。
毎朝、ブドウの木を一本一本、念入りに確かめても、その兆しすらない。
ピザ窯を作りながら、ブドウ畑が気になって仕方ない。
次の朝も、出ない。その次の朝も。
涙を流さなかった。
ある日、ピザ窯作りに気が入らず、畑の前でぼんやりしていると、リーゼが通りかかった。
「どうしたの? 難しい顔して」
「いや……木が、まだ目を覚ましてくれないんです」
「ヴィルフリート様も、この時期になると、毎朝この畑を眺めていたわ。今のハルさんと同じ顔をして」
――ヴィリーさんも、待っていたんだ。
◇
そして、ある朝のことだった。
あまり期待せずにいつものように外に出て、ブドウ畑へ向かった。その日はいつもと空気が違った。やわらかく、湿っていて、いつもより強い土の匂いがした。
ブドウ畑を見たとき、思わず、畑のほうに駆け出した。
ブドウの木のそれぞれの枝先が日の光に照らされ、光っていたのだ。
もっとも手前にあったブドウの木を確認する。枝先から小さなしずくが、宝石のように輝きながらこぼれていた。
思わず、手のこぶしを思いっきり握りしめた。握ったこぶしが震えている。
――やった! 生きててくれた。
隣の木を見る。こぼれている。その隣も。
あわてて、他のブドウの木を見て回る。どの木の枝先にもしずくが垂れていた。
「ブドウの涙」を流していたのだ。
◇
最後に、僕は畑の真ん中へ向かった。
あの古木。カビをくり抜き、空洞になった、みすぼらしい木。いちばん心配していた木。ヴィリーさんが大事にしていた木。
剪定した枝先に顔を近づけてじっくりと見た。
――……出ていない。
さっきまで、喜んでいたのに、一気に気が滅入る。
――やはり、あの大手術は古木にはこたえたのだろうか?
「ブドウの涙」が流れない枝先をじっと見つめた。
――いや、まだあきらめないぞ。この木だけ、目覚めるのが遅いだけなんだ。きっとそうだ。
と自分に言い聞かせていると、
すると。
ぷくり、と。
切り口の端に、ちいさな水玉がふくらんだ。ゆっくりと、大きくなり、重さをこらえきれなくなったのだろう。
つーう、と一筋、年老いた幹に落ちた。
声にならなかった。
永く生きた、幹がからっぽの木が、水と養分を吸い上げて、生きている。
――この世界にきて、一番うれしい!
ブドウ畑のすべての木が、日に照らされて、「ブドウの涙」をきらめかせていた。




