第8話「陰影の声」
ああ、やっぱり追い出される。と、柚月葉は着物をギュッと握り締める。偽物が来たのだからこれは仕方ないこと。けれど、どうしても持っていきたいものがある。
それは幼い頃に父が買ってくれた小さな櫛。それだけはどうしても返して欲しくて、柚月葉は息を呑み込んで言葉を発しようとしたけど、
「そこから入って来い」
想像もしない声が聞こえた。
玄関先に放り出した柚月葉に、今度は戻って来いと指示が飛ぶ。
「……ぁ、」
声が詰まる。ぽっかりと口をあげた闇(玄関)が映る。ここから屋敷に入るなど、私にはできない。
「どうした」
「申し訳ありません、私はここから入る資格はないのです」
頭を下げ、謝罪すれば、京弥がこちらに歩いてくる。打たれるのではないかと、肩が震える。
「ここはお前の家だ、なぜ入れない」
私の、家? そう言われて、柚月葉はゆっくりと顔をあげた。冷たく光る瞳と視線が絡む。
「……私は」
「玄関はここだ。ここから入れ」
「ま、待ってくださいっ」
動かない柚月葉の手を掴むと、京弥は強引に玄関の中へと歩き出す。
【ゴミが、正面から入るんじゃないよ!】
耳に声が響き、柚月葉は思いっきり踏ん張ってそれを阻止したが、京弥はそんな柚月葉の抵抗など無視して、玄関の中に引っ張り込んだ。
屋敷の中に入ってしまった。
「わ、私、……申し訳ありません」
急いで外に出ようとしたけど、京弥が手を掴んでいて逃げられない。
叩かれて、怒られてしまう。
「おいッ!」
恐怖と罪悪感で私は、土下座して謝ろうと地べたに座り込もうとして、京弥に抱えられてしまう。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「立て。なぜ謝る」
「私なんかが、正面から入ってはいけないのです」
ここは神聖な場所。陰の者が決して踏み入れてはいけない場所。柚月葉は掴まれた腕を振りほどくように外へと逃げようとして、京弥に捕まる。
「逃げるな」
「……離してください」
裏から、裏口から入れてくださいと、無意識に声が出る。
「家に入るだけだろう」
何をそんなに怯える必要があると、京弥の声が高くなるが、ただひたすらに怖かった。
「柚月葉様!」
全身を震わせて足元から崩れた私に、美坂が駆け寄って背中をさすってくれる。
「京弥坊ちゃま、何かご事情があるようなのです」
「……どうなっている」
「解せない秘め事がありそうなのです」
柚月葉には秘密があると、碧海に耳打ちをされ、京弥は何がどうなっているのかと、顔を顰めて、ひとまず美坂に部屋で休ませるようにだけ伝え、自室に戻った。
碧海が手紙に書いたことが事実だった。何かがおかしい。
異常なまでの拒否反応や、食事についても、何もかも全てがおかしいと、京弥は部屋で難しい顔をしていた。
「俺は一体何者と結婚させられた?」
妾の子だとしても、参議の妾ならば、それほど粗末な生活など送っているはずもない。だが、柚月葉の言動には違和感しかない。
碧海からの報告が正しいとすれば、榎室本人に直接抗議をすべきなのだろうと、面倒臭いことになったと、京弥は自身で解決するか、それとも実家を巻き込んで大ごとにすべきか、どちらも煩わしいことに変わりないと、頭を悩ませた。
軍を続けるための結婚。このまま置物として置いておいても構わないが、後々揉め事になるのも厄介であり、このまま知らなかったと白を切るのも難しいだろう。
京弥は、ひとまず蒼からの報告を聞いてから、対策を考えることにした。
気持ちが落ち着かず、今日は部屋に夕食を運んでいただき、一人で食べた。ひとまず追い出されなかったことが何よりも嬉しかったけど、京弥の機嫌は損ねてしまっただろうと、結局追い出されることは変わらないと、窓の外に視線を向ければ、月明かりが雲に隠れ闇を映しだしていた。
【あと少しの辛抱だ】
部屋の影から聞き覚えのある声がした。時々聞こえる頭に響くような声は、5年ほど前より私を励ましてくれていた。
「ごめんなさい、……私」
【長く待たせてしまったな】
「それは?」
【あと、ひと月を待たず、……ようやくここから出ることが叶う】
闇より響く声は、それを告げる。どこかに閉じ込められていて、時が経てばここを出ることができ、そうしたら迎えに行く。ずっとそう声を掛け続けられていた。
私を救ってくれると、助けてくれると、共に行こうと、励まし続けてくれた。
どこの誰とも分からない誰かだけど、声は悲しい時に寄り添い、寂しい時は歌を歌ってくれた。私の唯一の友達で、愛しい人。
【ユズハ、迎えに行くまで待っていてくれ】
もうすぐ会えると嬉しい言葉が聞こえるが、私はここを追い出されたら、行くところがない。
「私は、もう生きていく居場所がありません」
【命を絶ってはいけない。ワタシが迎えに行くまで、どうか頼む】
会いたい、けれど、ひと月も外で暮らしていける自信などありはしない。それに、この寒さでは、きっと寝てしまえば目を覚ますことなどないだろう。
どれほど嬉しくとも、現状を受け入れるしかなく、私はそっと涙を零す。
「……会いたかったです」
声だけではなく、その姿を見たかった。抱きしめてくれると約束してくれた、その願いを叶えて欲しかった。けれど、もう待てない自分がいた。
【頼む、ワタシにユズハを抱きしめさせて欲しい】
「ごめんなさい」
【ユズハっ! 生きて、生きてくれ】
いつになく必死に叫ぶ声がした。けれど……
【力が足りない……、ダメだ、切れてしまう】
これ以上ここに留まれないと、声が苦痛の声をあげた。いつも『おやすみ』と、優しい声で切れる声が、今日は悲鳴にも聞こえる。
「あなたに会ってみたかった……。ずっと傍に居てくださり、ありがとうございました」
明日には追い出される。そうしたらもう聞こえない声。きっと今夜でお別れなのだと、私はずっと会いたかったと想いを口にする。
【どうかワタシのために、生きてほし、……い……】
声はそこで途切れ、部屋の闇はそのまま静寂に包まれた。
「いままでありがとう」
いつも傍に居てくれた、その優しさが嬉しかったと、もう届かない声をだし、私は大切な櫛だけをそっと傍に置き、朝には出て行こうと決めた。
あの冷たい瞳で「出て行け」と言われたら、やっぱり辛いから。




