第40話「結婚白紙」
「何のためだ」
咎人でないとすれば、なぜ名前を偽る必要があると、京弥は険しい表情になる。柚月葉は生まれた時より渡森として育てられていたはず、本人も渡守という名を知らないだろうと、益々疑問が浮上する。
だが、それを確かめるための柚月葉の両親も、祖父母ももういない、隔靴掻痒だと、京弥は深く息を吐きだすと、とにかく今できることをすべきだと、頭を切り替えた。
※隔靴掻痒=物事の核心や急所に触れず、もどかしいこと。
ひとまず里桜を守るべきかと、京弥は明日にでも血相を変えて飛び込んでくるだろう榎室儀朗を迎えるため、美坂に茶の用意を頼む。
翌朝、京弥が予言したとおり、儀朗が転がるように神白家にやってきた。
「京弥殿、これは一体どういうことなのか、説明をしていただきたいっ」
京弥の元に届けられた手紙とは別に、榎室家にも神白本家より手紙が届けられていた。内容は当然『結婚白紙』との通達だ。
「そのままの意で間違いないが」
「職務悪用とは、何のことか見当もつかぬ」
儀朗は、一方的に破棄されたと、顔を真っ赤にして手紙を握り締める。いくら神白家が大尽だからといって、理不尽な結婚白紙など認められないと吠える。
「本家が決めたことに、俺は異を唱えることはない」
全ては本家の指示に従うと京弥が言えば、儀朗は「何も知らぬと」と、京弥は詳細を何も知らないのかと奥歯を噛む。
苦労して里桜連れ戻したというのに、破棄されるなど想定外であり、一度取り決めた事を神白家の勝手で白紙にするなど許されないと、ギリギリと歯を鳴らす。
「里桜が何か粗相をしたということですかな」
「違うな」
「ではなにゆえ結婚白紙など」
京弥は里桜を良く思っていたはずだと、儀朗は数日で心変わりするとは思えず、まさか駆け落ちが晒されたのではないかと、額に汗をかく。里桜の駆け落ちが本家に伝わり、破棄されたのではと、探るように視線を向ければ、京弥からとあるものが手渡される。
それは何かの書類? いや契約書と帳簿だった。
「架谷家より、贈収賄を受けていたようだが」
冷ややかにそう言われ、儀朗は帳簿類を開く。そこには賄賂と見返りなど事細かく記載されており、契約書には自分のサインもしっかりと残されている。
他にも数名、名が綴られてはいたが、自分の名がここに記されていることに冷や汗が浮き出る。
その事実に儀朗が驚愕していれば、「他の者もいずれ処分される」と、神白家を甘く見ない方がいいと忠告した。
本家はそれほどまでに政治に介入することができ、国を影で支えていると脅す。
自分は参議を降ろされるだけでなく、おそらく追放されるかもしれないと、今度は青ざめる。ここまでのし上がってきた全てが落ちる。
「馬鹿な……、こ、これは偽物だ」
「本家は本物と判断した」
つまり、帝上も認めたということだと虚偽を告げれば、儀朗は壊れたように笑い出す。
本当は神白家しかまだ知らぬことだが、脅しをかけるなら帝上の名を出した方が利があると、京弥はそう伝える。
「私は参議だぞ。神白家などに潰されてなるものか」
次期国務大臣と言われた自分が地に落ちるなどありえないと、全て神白家の罠だと騒ぎ出す。
「ならば、御薬袋様にそう告げればいい」
ただし、その場で首を刎ねられるかもしれないがなと、京弥が冷たく言い放てば、儀朗はハッと息を飲む。ここにある証拠が本物となれば、間違いなく首を刎ねられる。生唾を飲み込む儀朗を、一気に血の気が引いていく感覚が襲う。
「は、はは……」
「この件は、まだ公にはなっていない」
「それは、」
「真っ当に参議を務めたいと願うのならば、こちらから提案がある」
これより真面目に参議としての役目を果たすと約束するならば、いい条件があると京弥が声を出せば、儀朗の瞳の色が変わる。
追放または下層への没落を免れる。これほどまでに魅力的な話はなく、儀朗は姿勢を正し、京弥に向き合う。
「我が行いを悔い、身を改める」
架谷家にそそのかされて、欲に目がくらんでしまったと言い訳をした儀朗は、京弥に向かい頭を下げた。愚かなことをした自分をどうか許してほしいと。
地位も名誉も失うわけにはいかないと、儀朗の黒い部分がそうさせているのは分かったが、里桜を救うことができるのならば、それでも構わないだろうと、京弥は腹黒い男を目の前にしながらも、冷静を保つ。
本家に贈った帳簿には細工をし、儀朗が関わったのは一度きりとし、しかも勘解由小路の名をほのめかし、唆されたのだろうと見せかけた。
贈賄があったことは事実だが、闇に足を染める勘解由小路の名を出したおかげで、榎室家は今回のみ難を逃れたはずだが、結婚は当然白紙となり、全ては京弥の思い描く事態となっていた。だからこそ、これを利用すると、京弥は姿勢を正し儀朗を覗き込むように声を掛ける。
「東都柊磨という男をご存じか?」
「東都ですか……」
「架谷家に代わり、神白家が御薬袋様に推薦することが決まった家です」
まだ内密ではあるが、本決まりで間違いないと京弥が伝えるが、儀朗は誰のことか分からないのか、首を傾げた。
娘が駆け落ちした相手を覚えてもいないのかと、苛立ちはしたが、それを説明するのも面倒だと、京弥は話しを進める。
「神白家が推挽するとなれば、その名も広まるでしょう」
かなりの箔がつくと、京弥はすぐに名家になるだろうと話を盛る。実際帝上より札が与えられ、神白家が推薦し、お墨付きまで与えれば、東都家は一夜にしてその価値が上がることが分かる。
だが、なぜ京弥は唐突にそんな話をするのかと、儀朗は難しい表情をしたまま不思議そうに見る。
「して、私は何をすればよいと申すか?」
「東都柊磨は、米屋を営んでいる青年なのだが、本当にご存じないか?」
「米屋を……っ」
京弥に再度問われ、儀朗はようやく男を思い出した。それと同時に、背筋が凍る思いをする。
京弥は里桜が駆け落ちしたことを知っている、そう思えば思うほど汗が止まらなくなる。神白家の者を欺くなど出来なかったのだと、儀朗は手拭いを取り出すと額を拭う。
娘が他の男と逃げたこと、想いを寄せていることを京弥は知っている、いや、知られてしまったのだと、裏帳簿などなくとも結婚を破棄することなど容易くできた。自分はなんと愚かなことに気付かなかったのかと、肩を震わせる。
「儀朗殿さえよければ、東都家の息子を里桜殿の婿にどうかと思いまして」
突然の申し出に、儀朗は目を丸くする。
「里桜の……」
「残念なことに里桜殿との結婚は白紙となってしまい、里桜殿には申し訳ないと思いまして」
本家の命に背くことが出来ない代わりに、好青年だと聞いた柊磨を婿にしたらどうかと提案させていただいたと、京弥はどうぞ考えて欲しいと声を出す。
それを聞き、儀朗は京弥は駆け落ちを知らないのでは? と、気持ちを軽くする。神白家がお墨付きを与え、架谷家に代わり帝上に米を卸す。条件としてはそれほど悪くはない。
今は無名だとしても、すぐに名が売れ、おそらくそれほど時間はかからないだろうと読む。
それに、神白家からの推薦とあらば、里桜の婿としても申し分ないのではないかと、榎室は京弥との結婚は破棄されたが、これはまたとない機会だと、口角を緩める。




