第32話「まだ大丈夫」
恋焦がれた顕仁様に一目会えた、それだけでいいと、自分には勿体ないほどの美しい方だったと、心のどこかでほっとしていた。
「掃除は怪我が治ったらお願いするから」
蒼は、まだ完治していないと柚月葉を部屋に戻そうとする。
「しかしそれでは……」
「時々お掃除屋さんが来てくれるから、大丈夫だよ」
「そうなのですか?」
「一人身だからね、お節介をしてくれる人がいるの」
だから掃除は大丈夫だと、蒼は説明する。本当は式神にお願いしているのだが、さすがに柚月葉の前で動く人を形成するわけにもいかず、ひとまず誰か来てくれると言ってみた。そうすれば、仕事を失った空虚感に柚月葉は影を落とす。
「すみません、何のお役にも立てず」
ここでも『いらない』と言われたみたいで、柚月葉は力なくそう謝る。数日間も部屋にこもりきり、寝たきりだったことを考慮し、蒼は気晴らしは必要かとそっと柚月葉の肩に手を置く。
「足は大丈夫?」
「まだ少し痛みますが、屋敷の中なら歩けないほどではありません」
それを聞き、蒼は「庭に出よう」と誘った。
外の空気は清々しく、随分温かくなっていた。もうすぐ春が来る。
蒼の屋敷は術で隠されているとはいえ、結界には範囲がある。
「あの柵より向こうは出ちゃダメだよ」
そう忠告する。顕仁という怨霊がまだ柚月葉を狙っているかもしれないと、蒼は警戒する。
「あの先には何が?」
「熊が出るんだ」
「熊?!」
さすがに熊が出ると言われれば、柚月葉も身を固くする。鬱蒼とした林が広がる蒼の屋敷ならば、獣が出てもおかしくはないが、熊は危険すぎると「なぜこのような場所に?」と、柚月葉は心配そうに見上げてきた。
「静かな場所が好きでね」
だからこんな山奥に住んでると答えれば、柚月葉は周囲を見回し、ここならばあまり人も訪れないだろうと、蒼の気持ちを汲んでくれた。
「あ、それから、熊よけの薬が撒いてあるから、消さないようにね」
柵の向こうに出たりしないようにと、再度忠告をした蒼は、後は好きに見て回っても大丈夫だと笑顔を見せてくれる。
架谷家や神白家の庭のような手入れはなかったが、自然のものがたくさんある蒼の庭は、柚月葉の興味をすぐに惹いた。
「生えている草を取ってもよいでしょうか?」
「手入れもしていない庭だ、好きにしていいよ」
「ありがとうございます」
軽く頭をさげた柚月葉は、ゆっくりと庭の隅に歩いてく。そしてしゃがみ込むと、夢中になって草を採る。
「そんなに珍しいものなのかい?」
毎年ここら辺に大量に生えてくる草だと、蒼が覗き込めば、柚月葉はなぜか軽く笑った。
「これはフキノトウと申しまして、てんぷらや和え物にすると美味しいのですよ」
「え、食べていいのかい?」
「冬が過ぎれば、山菜がたくさん採れます」
春から秋にかけて、食べることのできる野草はかなりあると柚月葉は蒼に言う。架谷家で出される食事は、育ち盛りだった頃の柚月葉には少なすぎて、お腹を空かせて川で洗濯をしていたら、みすぼらしいおばあさんに出会い、その人がそこらへんの草はほとんど食べられると教えてくれたという。
隙間風が酷く、扉も傾いたボロボロの家に住んで居たおばあさんには、他に仲間もいて、柚月葉もときどき仲間に入れてもらえたと、その時にその人たちから、食べていい野草と危険な野草を教わったのだと、話してくれた。
おかげでお腹がすいたときは、自分で食料を調達できるようになったのだと、感謝してもしきれないと柚月葉は、人の優しさに触れたあの時のことを今でも忘れていないと話す。
「良い人たちに出会ったね」
「はい」
柚月葉は優しく微笑むと、収穫した野草を手に一杯抱えていた。
(柚月葉ちゃんは、まだ大丈夫)
蒼は笑顔を見せてくれた柚月葉に、安堵する。塞ぎこんで、闇を抱える人間は、悪霊の類に取り憑かれやすい。その上、恨みや妬みなどが増せば怨霊になる。だから蒼のような祓い師が必要だった。陰陽者と呼ばれていた者たちがそれを得意としていたが、文明が発展していく中で、怨霊たちはその姿を消したように見えた。
祓い師というものが衰退し、消えてしまったこの時代に、再び怨霊たちが姿を見せ、特別な能力をもって生まれてきた者たちが、その任についてはいるが、取り憑かれてしまった者は怨霊へと変貌する事態にまで悪化していた。
この時代で霊を祓えるのは、お坊様だけ。ただ、お布施が高く庶民には到底難しい話ではある。だから蒼がただも同然でひっそりとお祓いを行う。
『祓い師としての腕はあまりよくありませんが』と付け加えて、気休め程度だと嘘をついて、仕事を受けることで生計をたてていた。
京弥に、帝上に進言すべきだと言われたことがあったが、自分の能力を広めることを断ったことがある。金銭が欲しくないわけではなかったが、人と関わるのがどうも苦手なのだ。
誰かに使われる、それが受け入れられず、蒼は自分には大した能力はないと、苦笑しながら謝罪した。それで京弥から自分に協力してくれないかと提案があり、『占い』を提供している。もちろんそれについての報酬は受け取っている。さすがに生活できそうもないと。
一人で生活するには問題ない収入なので、蒼は現生活に何の不満もなかった。
待ち望んでいた来訪者は、翌日の朝日が昇る前の早朝に姿を見せた。
「このまま来ないと思ってたよ」
若干の嫌味を含めて、蒼は訪問者に言葉を投げる。
「すまない、こちらにもいろいろあってな」
「用件は?」
「蒼、怒るぞ」
自分で手紙を置いていったくせに、それを聞くのかと玄関先で睨めば、蒼はクスクスと笑い出す。
「そんなに息を切らせた京弥は珍しいね」
完全に息が上がっている京弥に、ここまでかなり急いできたことが伺えた。やっぱり柚月葉ちゃんが心配だったのだろうと分かる姿だった。
「無駄話をしにきたわけじゃないが」
「悪い悪い、柚月葉ちゃんなら奥にいるよ」
そう伝えれば、京弥はムスッとしたまま屋敷に上がってくる。
「怪我は?」
「かなり酷かったけど、だいぶ薄れてきたよ」
「そうか」
「ただ、顔に痣がまだ残っている」
蒼が驚かないで欲しいと忠告すれば、京弥は眉間に皺を寄せる。美坂の話によれば、裸足で出て行ったので、足に怪我を負っているはずだが、なぜ顔にと思う。




