第3話「置物の妻」
その人はそのまま料亭の中に飛び込んでいく。そして、しばらくすると息を切らせて料亭から出てきて、辺りを見回すとこちらに向かって走ってきた。
「奥様ッ」
目の前まで来た男がそう叫ぶ。
「……ぇ?」
「三時間ほど前に、婚姻届けにサインをしましたか?」
「はい、……」
時間は分からないが、サインをしたのは覚えており、私は静かに頷きながらそう返事を返す。すると「良かったぁ」と、安堵の息を吐かれた。
「京弥様が大変失礼をいたしました」
頭を下げて謝罪をされても、私には何のことか分からず、きょとんと男を見るだけ。返事が返らず男が顔をあげれば、寒さで手は赤く、顔色も真っ青になっていた。
この寒さの中でずっとここに居たのかと思うと、男は奥歯を噛んでそっと手を取る。氷のように冷たくなった手からは、痛みさえ伝わってくる。
「屋敷に戻りましょう」
「あ、あの……」
「紹介が遅れました。私は神白家に仕える碧海実乃吏と申します」
丁寧に挨拶をしてくださり、私はようやくどこの家に嫁いだのか知ることができた。世間知らずな私は神白と聞いても全く分からなかったけど、ひとまず旦那様の欠片を知ることができた。
私は『架谷柚月葉』から『神白柚月葉』になったのね、と、冷静にそれを受け止められた。
「ここは冷えます、屋敷に戻り温まりましょう」
優しく手をとった碧海は、車に誘導すると私を乗せてくれた。
車中で碧海が旦那様のことを話してくれて、私は『神白京弥』という人と結婚したのだと知る。しかし、叔父に説明された人物とは何かが違っていた。
「中将なのですか?」
「京弥様は若くしてその才を発揮されたのです」
年は20歳。年上から年下まで、多くの隊員をまとめている立派な方だと説明を受けたが、私の結婚相手は三十五を過ぎており、商いをしていると聞いていたので、どういうことなのかと、こちらが不安になってしまう。
しかし、婚姻届けを持参してきたのは間違いなく京弥で、結婚自体は間違っていないのだろうと、私は追及することはしなかった。
―― 運命の輪が外れてしまったことなど、知りもせずに ――
――――――――――
「こちらが神白のお屋敷になります」
人里離れた竹林の奥深くに佇むお屋敷は、とても大きく、立派過ぎて足を踏み入れるのが怖いくらいだった。
少し竦んでしまった足を止めていたら、玄関より女性の声が響いてきた。
「京弥坊ちゃまッ!」
その声に碧海が私に一礼をして走り去る。
「実乃吏か、家をしばらく空ける」
「京弥様、それは……」
「仕事だ。家のことはいつも通りに」
「奥様をお連れいたしました」
今すぐにでも家を出て行こうとする京弥に頭を下げれば、自然と視線が門へと流れた。確かに女性が一人佇んでいるのが見え、アレが妻か? と、まるで他人事のように脳裏に入ってきた。
結婚などに興味はなかった。しかし、いかんせん周りも親も煩く、このままでは軍を辞めさせられ、家業を継ぐことになりそうだったので、一族が決めた相手と結婚することを条件に、軍を継続させてもらえる約束をした。
これは取引であり、妻という置物ができただけだと割り切った。
「女の外出は認めない。後は自由にしろ」
そう言い捨てて京弥が歩き出せば、実乃吏が後を追う。
「しかしっ」
「勘違いするな。あれは妻という名の置物に過ぎない」
愛することなどないとはっきりと告げた京弥は、門に向かって歩き出し、柚月葉とすれ違うそのときに足を止めた。
「俺の妻だと口外することは禁ずる」
冷たく言い放ったその口元には、薄墨色の布があった。素顔を晒さないように覆われた布では、細められた鋭利な瞳しか見えない。
その冷たさに、私の身体が硬直する。
「余計なことを口にすれば、その首を落とし、川に沈める」
「……っ」
「屋敷で大人しくしていろ。殺されたくなかったらな」
京弥はそれだけ言い残して屋敷を出て行ってしまった。
足が震える。
「申し訳ありません、奥様」
屋敷に来たばかりだと言うのに、京弥から冷たい言葉を浴びせられ、実乃吏が謝罪するが、私の顔色はますます青くなる。
妻と名乗ることを禁じられたのに、「奥様」と呼ばれ、背筋が凍り付く。
「柚月葉と申します」
早く名前を伝えなければと、急ぎ名を名乗れば、実乃吏は驚いたようにこちらをみる。
「りお様ではないのですか?」
その言葉に、やはり妹が嫁ぐはずだったのだと知る。きっと京弥様はそれを知り激怒したのだと、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
こんなみすぼらしい、枯れた花のような私などを妻にさせられ、世間に見せるわけにはいかないと、屋敷から出るなと申したのだと、全てを知った。
「……ご、めんなさい」
膝が崩れ、私は地面に両手をついて実乃吏に謝罪する。
「立ってください」
「私は義姉なのです。……義妹ではなくて、ごめんなさい」
迷惑をかけてしまった、神白家に汚点を作ってしまったと、私は謝ることしかできず、ひたすらに頭を下げ続けたが、実乃吏が抱きかかえるように体を起こした。
「謝らなくてよいのです。これは政略結婚なのですから、誰が来ようと京弥様は心を開いたりしません」
「申し訳、ありません……」
「あなたがりお様ではなくとも、京弥様と婚姻した事実は変わりませんので、どうぞ屋敷の中へ」
ここは冷えますと、実乃吏は優しく立ち上がらせてくれた。
「奥様ッ」
泥だらけになった着物で立ち上がれば、美坂が急いで土を払った。
「こんなに汚れてしまって、新しいお着物をご用意しましょう」
「では、私は湯の用意を」
「実乃吏様、お願いします」
美坂に手を引かれ、私は屋敷へと案内されたが、近くで見れば見るほどそれは立派で、正面から入るのが怖くなって足を止めてしまう。




