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第2話「置き去り」

叔父はめずらしく上機嫌で私の元へやってくると、嫁ぎ先が決まったと話し、話しは全て済んでいると言い、日時と店の地図が書かれた紙を握らせた。

遣いの者が迎えに来るから、黙ってついていけばいいと指示され、両親の大切な店を潰したくなかったら、戻ってくることは許さないと、帰る場所などもうないとも言われた。

ここを出れる? 少しだけ安堵する心があった。

もしかしたら、と、淡い気持ちが浮上し、この夜はよく眠れた気がした。




顔も名前も知らぬ旦那様に嫁ぐ日、いつもより少し上物の着物を着せられ、髪をまとめてもらった。


「やっと追い出せるのね」

「なつめ、聞こえたらどうするんだ」

「別に構わないでしょう。お義姉ねえ様って、辛気臭くて嫌だったのよ」

「莉緒も声を下げなさい」


別部屋から聞こえてくる声は大きく、明らかに聞こえるように話していた。


「アレを貰ってくれるなんて、物好きね」


叔母のなつめがクスクスと笑いながら話せば、叔父の架谷はさたに亮成あきなりが、深いため息を漏らす。


「先方は莉緒を申したが、それでは都合が悪いと私が説明したんだ」

「嫌よ、三十五も過ぎているなんておじさんじゃない」

「当たり前だ。莉緒には他に縁談が複数来ているんだ。あんなろくでもない男に渡してなるものか」


美人で有名だった莉緒には、もっといい縁談がたくさん来ていると、叔父は吟味中だと話す。つまり、私は捨て駒なんだと知る。

店のために売られる、それだけのこと。それでも環境が変わることに、少しだけ期待していた。

見送るものなどいない裏口から外へ出た私は、地図を手に待ち合わせ場所に歩く。日中に店の外に出ることなど、まして綺麗な着物で町を歩くことなどなかったから、何もかもが新鮮でほんの少しだけゆっくりと歩いて向かうことにした。

華やかだった。

見るものすべてが眩しいくらいに輝いていて、お父さんとお母さんがいた頃を思い出す。いつも手を繋いで町を歩いた。みんなが声を掛けてくれて、みんな優しかった。

でも、全部消えてしまった。あの日から私の心から光が消え、何も映さない闇だけが広がっていった。

指示された店で「結婚」の話をしたら、すぐに部屋に通され、そして気がつけば見知らぬ旦那様と紙面上で結婚が成立した。


「……どうしましょう」


ふと声が出た。

旦那様の名前も顔も分からないままでは、家に伺うことも出来ないと、私は案内された部屋から動けなくなった。






車の音が聞こえ、家主を迎えに出た給仕の者は、一人で戻ってきた男を驚いたように見る。


京弥きょうや様、相手の方は如何なさいました?」

「婚姻届けは役所に提出してきた。問題ない」

「そうではありません。まさか料亭に置き去りにしてきたのですか」


連れ帰ってくるものだと思っていたので、給仕の男はつい大声をあげてしまった。名家の娘を捨ててくるなんて、あるまじき行為だと険しい表情を浮かべれば、


「婚姻の席に娘だけ送り込むとは、どちらが無礼だ」


部屋には娘しかおらず、側近の一人もいなかったと、京弥と呼ばれた男は名家のお嬢様とは思えないと悪態までつく。

政略結婚だとしても、お付きくらいつけるべきではないのかと、腹立たしいと家屋に入っていく。


「京弥様っ」

「尋ねてきたら入れてやれ」


そう言い捨て、京弥はそのまま自室に戻ってしまう。


実乃吏みのり様、如何なさいました?」


外から揉める声が聞こえ、玄関先に顔を見せた中年の女が慌てたように給仕の男に声を掛ける。男の名は『碧海あおみ実乃吏みのり』、そして、女の名は『美坂みさか朱珠音すずね

神白かみしろ家で働いている者たちだ。

神白京弥、若干20歳にして中将という地位を得ており、家系は貿易商から呉服商まで幅広く商いをしている富豪。商いには向かないと、軍に入った京弥の腕は右に出る者がいないほど強かった。

問題があるとすれば、その性格であり、氷のようだと囁かれていた。


「京弥様が奥様を料亭に置いてきたと」

「なんとっ、それはいけません。すぐに迎えに行きましょう」


あれからすでに二時間もの時間が経過していると、美坂が言えば、碧海は「しばらく空けます」と言い残して、車に乗り込んだ。


「お気をつけて」


美坂に見送られ、碧海は急ぎ料亭までと運転手に告げ、車を走らせた。






外は雪の残る寒さ厳しい初春。

予約していた時間を過ぎ、私は店から外へと出たものの行き先など分からず、料亭の門から少し離れた隅に佇んでいた。

家に戻っても、結婚を破棄されたと思われきっと入れてもらえない。旦那様になった方は、隣町に住んで居ると聞いたので、伺うためには隣町まで歩かなければならない。その上、名前も顔も分からないままでは探しようも、尋ねることもできない。


「どのくらいかかるのでしょう」


冷たく凍える大地を見つめながら、隣町まで歩いたらと考えて、死んでしまうかもしれないと思った。この季節に着物一枚で山を越えるなど、凍死してしまうと想像できた。



【必ず迎えに行く】



この言葉がなければ、私はきっとこの世にはいなかった。

何度死のうと思ったか分からない。けれど、その優しい声に夢を見てしまっている。



【もうすぐ、もうすぐ会える。だから、待て】



声しか聞こえぬ誰かが、私を引き留める。そう私の唯一の救いの声。



ブブブォォォ――ォ



料亭の前に車が停車し、誰かが慌てて降りるのを見た。



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