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第1話「書面上の結婚」

淡雪が眩しい朝、私は綺麗な着物に包まれて料亭と呼ばれる店に向かった。

通された部屋は一人で待つには広すぎる、井草の香りが漂う和室。

本日、私は顔も知らぬ方に嫁ぐ約束がある。年は三十五を超えているとのこと。十六を迎えたばかりの私とは不釣り合いだけど、お断りすることは許されていない。

断ったところで、私に帰る場所など、もうどこにもないのだから。






――――――――――

「お待ちください!」


静寂に包まれていた和室の外から大きな声が聞こえ、私はビクッと肩を震わせた。

急ぎ足で誰かがこちらに向かってくる足音に、私は中央にあった机に視線を落として、強く着物を掴む。

結婚相手が義妹である莉緒りおではないことに、腹を立てているのかもしれないと、俯いたまま動けない。


(罵声を浴びせられ、きっと叩かれる)


怖い。そう思ったら体が硬直して血の気が引く。



バンッ



美しい格子の扉がものすごい勢いで開かれ、その音で私は下を向いたまま固まった。


「俺のサインはしてある。隣に名前を書け」

「……」

「とっとと記入しろ、以上だ」


男は早口にそう告げ、一枚の紙とペンを投げ捨てる。ヒラヒラと落ちた紙は婚姻届。私は急いでペンを手に取ると、旦那様になる方の名前すら見ることなく、自分の名前を記入する。

そうすれば、ペンを置くより早く、男はその婚姻届を奪って部屋を出て行ってしまった。


(お顔も見れなかった……)


荒々しい声しか分からなかったと、私はまた着物を掴む。

叔父に聞かされたのは、隣町で商いをしている家の長男だということだけ。名前も顔も知らされていない。

ただ、この結婚が上手くいけば隣町でも商いができるようになると、叔父に「絶対に断るな、お前の帰る家はないと思え!」そう送り出されたのだから、これで良かったのだろうと、私はそっと唇を噛み締めた。

結婚してあの家を出ることが出来れば、環境が変わると心のどこかで期待していた。それが叶わなかっただけ。男は気性の荒い方なのか、それとも私が気に入らなかったのか、分からないけれど、歓迎されていないことだけは知ることができた。






両親が亡くなったのは数十年も前。私だけ生き残ってしまい、米屋を営んでいた両親の商いを奪うような形で叔母夫婦が私、柚月葉ゆづはを引き取った。

そして、それと同時に使用人も全て新しい人へと代えられてしまい、柚月葉を知る者など誰もいなくなり、周りは皆知らぬ人ばかりとなった。

叔母夫婦には可愛い娘が一人いて、大切に大切に育てられており、両親を失った悲しみから、光を失ったように暗く、無口になった私を良くは思わず、雑用係として扱うようになっていた。

そんな両親を見て育った娘、莉緒りおもまた、私をゴミのように扱うようになった。

店に顔を出すことは禁止され、ゴミ拾いや掃除、残飯などを捨てに行かされるのが日常で、着物だって下働きの者より酷いもの。

時間を見つけては、川に行って自ら洗濯していたくらいだから。


「見て、またあんなところにいるわ……」

「嫌だわ、気味が悪いわ」

「怨霊に取りつかれているのよ、きっと」


なるべく人目につかぬように、鬱蒼とした場所で洗濯をするときは、大抵誰かに見つかる。

ひそひそと顔を歪める女たちが、薄気味悪いと遠くから見るのはいつものこと。

手入れの行き届いていない、少し赤みのある長い髪が乱れていれば、幽霊と見間違われても仕方ないと、私はいつも急いで洗濯を済ませると逃げるようにそこを後にする。


(やっぱり、夜にした方が……)


昼よりは目立たなくなるかもしれないと、少し怖いけど洗濯は夜にしようと決めた。

皆が入り終わったぬるいお湯に浸かり、掃除をして部屋に戻れば、入り口に本日の食べ残しが盆に乗せられていた。


「今日はお米がたくさんね」


乱雑に盛り付けられた夕ご飯は、犬のご飯みたいだったけど、昨日よりご飯が多くて、少しだけ嬉しくなって、急いで部屋に持ち込む。

お母さんが炊いてくれたご飯が何よりも好きだった。幼いころから食べていた白いご飯が大好き。ふっくらとした米粒の食感と、少し香ばしい甘さに幸せを感じた。



『ゆづ、手を出して』

『なぁに、お母さん?』

『焼きおむすび』

『や、き、おむすび?』

『おむすびに醤油を塗って焼くと、とっても美味しいのよ』

遠方のお客人から教えてもらったのだと、お母さんは私に小さな茶色のおむすびを手に乗せてくれた。



あの時食べた焼きおむすびの味は、一生忘れないほど美味しかったと、ふと思い出して


「また、食べたいな」


と、呟いていた。

調理場を借りられれば自分で作りたいけど、火も醤油も貸してもらえるわけもなく、まして米を炊くなど許されるわけもなく、私はおかずと汁物などが合わさった、冷えた夕ご飯を食すと、明かりの少ない通路を静かに歩き、調理場で食器を洗うと、また静かに部屋に戻った。

2畳ほどの部屋の広さにも、かび臭い匂いにも、湿った布団にも、埃っぽい空気にも慣れてしまった。窓がないので湿気はどうしても発生してしまう、これは仕方ないこと。

子供の頃にお父さんに買ってもらった子供用の小さな櫛で、髪を梳き、少しだけ整えてから布団に入る。

床と変わらない厚さの敷布団は今日も痛いけど、ないよりはいい。


「おやすみなさい」


誰に言うわけでもないけど、そっと口にしてから目を閉じる。これは習慣。

この生活に不満も、文句も、恨みさえもう消えていた。雨や風がしのげて、ご飯も食べられる、布団もある、捨てられなかっただけ良かったと、なぜかそう思っていた。

一生ここでこの生活が続くと思っていたけど、それが、ある日突然、私に結婚の話が舞い込んできた。



お読みいただきまして、誠にありがとうございます。

毎日更新予定ですので、よろしければ引き続きお付き合いをお願いいたします。

※AIなどは一切利用していないため、誤字脱字、誤変換など、見つけた方はぜひご報告くださいませ。

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