7. 夜の荒野 3
どれほど荒野を馬で駆けただろうか。
随分と時間が経ったような気もするし、月がそれほど動いていないところを見ると、大した時間ではないようにも思う。
だが、屋敷を飛び出した時の確信に満ちた時とは違って、セラフィーナの肩からは力が抜けていた。
抱えられるように座っているエルからは見えないが、その表情は強張り、眉は情けなく垂れ下がっている。
馬に乗ってからしばらくは自信満々だったのに、セラフィーナはあっという間に、不安に苛まれていた。
一人だったら泣き出していたかもしれない。ただ、子供らしいエルの体温を感じるから、冷静でいなければと自分を奮い立たせているのだ。
一方で、エルはご機嫌だった。
怖いという感情とは無縁なのか、背中にはセラフィーナの温かさ、前にはしっかりとカートン卿を抱え、馬に揺られる。
わくわくとした気持ちが強くて、元々なかった眠気は一層、どこかへ飛んで行ってしまった。
広い原っぱを越えて、二人を乗せた馬のシンディは荒野に差し掛かった。
ブレニアム・ハウスや街中で見た月よりも、さらに大きく見える月が目の前の夜空に顔を出している。
「せふぃねえさま、おつきさま、おっきいねえ」
これほどまでに大きな月は見たことがないと、エルは歓声を上げた。
セラフィーナは目を瞬かせる。顔を上げると、確かに普段よりも月が大きく見えた。
「本当ねぇ」
不思議だわぁ、とセラフィーナは呟く。
カートン卿は幼児特有の体温でほかほかになりながら、内心で首を傾げていたが、賢明にも口は挟まなかった。
周囲に建物や木がなければ、邪魔されるものがなくて月も少しは大きく見えるのかもしれない。
『それにしても、セラフィーナはどこに行くのか、ちゃんと分かってるのか?』
ふと頭を過った疑問を、カートン卿は呟いた。
エルはすぐに気が付いて、きょとんと首を傾げた。
(しんでぃ、ずっとはしってるよ?)
馬が走っているのだから、道が分からないはずがない。
エルがそう言っていると余すことなく理解しながらも、カートン卿は渋い口調だ。
『そりゃあ、行き先がわからなくても、馬は走らせられるさ』
(う?)
どういう意味だろう、とエルは考える。
エルはこれまで、道に迷ったことがない。
迷子にならないようにアルマやグレンがずっと気を付けていたし、タウン・ハウスではずっとフェリクスが一緒だった。一人で動く時も、エルが道を間違えそうになる度にカートン卿が口を出して来たのだ。
当然、自分がどこに居るか見失って泣く、などという経験はなかった。
『一回くらい、経験させとくべきだったかな』
一度くらい心細い思いをした方が、迷子になるかもしれないと慎重になっただろう。だが、結局はカートン卿もエルには甘いのだ。
小さな体で熱にうなされている姿を見ていれば、誰だって庇護欲が湧くだろう。
だが、カートン卿のそんな気持ちなど終ぞ知らないエルは、わずかに唇を尖らせた。
エルにとって、馬は人間が指示を出すものではなく、馬自身が考えて動くものだ。少なくとも、以前にエルが乗った時はそうだった。エルのポニーは、エルが何を言わなくてもゆっくり歩いてくれたし、エルが少しでも体勢を崩したら止まったし、エルが行きたいと言った方向に進んでくれたし、カートン卿が危ないと反対するところには、エルがどれだけお願いしても近付かなかった。
(しんでぃ、どこいくの?)
だから、エルはセラフィーナの愛馬に尋ねた。
月明かりだけで軽快に荒野を駆けるシンディは、自慢の鬣と尻尾を靡かせながら、得意げに嘶いた。
その言葉を聞いて、エルはわずかに胸を張った。
エルの言った通りでしょ、と言わんばかりにカートン卿に話しかける。
(あらばや、だって! おうちかな?)
『あばら屋、な』
エルの初めて聞く単語である。それでも、何となく言葉の雰囲気から想像した。そして、おおまかには合っている。さすが絵本をたくさん読んでいるだけあるな、と妙なところで感心しながら、カートン卿は少しばかり発音を訂正した。
そうしながらも、カートン卿は内心で首を傾げる。
『荒野のあばら屋、か。セラフィーナはそんなところに、一体何の用があるんだ?』
全く想像が付かない。
ハートフォード公爵家の人々は武に秀でていると有名で、それは女性であろうと変わらない。もっとも、男性のように戦いに出たりするわけではないが、体力は一般的な貴族に比べても多い方だろう。
だからといって、全くの向こう見ずというわけでもなかった。
特にセラフィーナは、公爵家の中では気が弱い性質だ。荒野にぽつねんと建つ荒れ果てた家など、普通なら近付こうとも思わないだろう。
『そもそも、そんな場所をどうやって知ったんだろうか』
疑問は深まるばかりだ。
だが、エルはカートン卿が抱く疑問が良く分からない。
エルは、セラフィーナがどうしても行きたい場所があるということだけで十分納得していた。
そしてしばらくした時、シンディが歩調を緩める。
「シンディ? どうしたのぉ?」
セラフィーナが戸惑ったように尋ねる。エルの後ろから手を伸ばして、ぽんぽんと首を叩いた。
「しんでぃ?」
エルも気高い馬の名を呼ぶ。そして、エルは視線を前にやった。
「せふぃねえさま」
「エルくん?」
優しく弟の名前を呼んで、セラフィーナはエルの顔を覗き込む。
だが、エルはセラフィーナの方を見ることなく、その真ん丸な目は真っ直ぐに前を見つめていた。
セラフィーナが不思議そうに、エルの視線の先を追う。次の瞬間、セラフィーナの体が緊張に硬くなった。
「──っ!」
セラフィーナは息を飲む。
二人、そしてシンディとカートン卿の視線の先には、真っ黒な狼が居た。
金色に光る双眸をこちらに向けている。
遠くでは、狼の遠吠えのような音が響いていた。
一気に荒野の不気味さが身に迫る。
冷たく吹きすさぶ風、草と泥の臭い。
セラフィーナが叫ばなかったのは、偏にエルを驚かせたくなかったからだ。自分はエルの姉で、まだ小さな弟を護らなければという決意もある。
エルのお願いに絆されたとはいえ、普通なら寝ていなければならない時間に、弟を連れ出したのだ。無事に連れて帰るまでが、セラフィーナの姉としての義務だ。
それでも、明確な恐怖がセラフィーナのまだ華奢な体を襲った。
顔がさっと蒼褪める。
逃げなければ、逃げられるだろうか、シンディは走り切れるだろうか──そんなことを想いながら、セラフィーナは手綱をきつく握った。馬首を返して一気に駆け出そうと、足に力を込める。
だが、その時、エルが素っ頓狂な声を上げた。
「おおかみしゃん!」
その声は純粋無垢で、その分荒野に広く響いた。
少なくとも、セラフィーナはそう思った。
狼を刺激してはいけないと、咄嗟にエルの口を押えようとする。
しかし、エルは構わなかった。
ピクニックをしたいと言っていたエルたちに、両親は駄目だと言っていた。狼が逃げ出したからだ──とは言われていないのだが、エルは信じていた。
もしかしたら、目の前にいる狼が迷子なのではないか。
それは、まさに天啓だった。
「おおかみさん、まいごさん?」
「──え?」
思わずセラフィーナの声が漏れる。
同時に、狼がはっきり「わう」と答えた。
狼は尻尾を振りながら、ゆっくりと近づいて来る。
シンディは怯えるどころか、鼻を鳴らして顔を狼に近づけた。その鼻面を、狼はペロリと舐める。
「ちがうの」
なぁんだ、と、エルは心なしかがっかりした。
目の前の狼が迷子なら、お家に送り届ければ万事解決だったのだ。
エルたちは念願のピクニックに行けるし、迷子で心細かった狼はお家で温かいご飯を食べれて、飼い主は無事に戻って来た狼に安心する。
以前に修道士のジェイとした約束を、ここでも果たせたのにと、残念で仕方がない。
そんなエルの様子を感じ取り、カートン卿は宥めるように言った。
『可哀想な子がいなくて良かったじゃないか』
エルは、はっとする。
確かに困ってる人がいないのなら、それが一番だ。それに、もしかしたら他にも迷子がいるかもしれない。
途端に元気になって、エルは満面の笑みを浮かべた。
(うん! このこ、まいごのおおかみさん、しってるかな?)
狼同士なら、何か分かるかもしれない。
目の前の狼が迷子でないのなら、他に迷ってる子がいるに違いない。
『そんなに何匹も迷子の狼がいてたまるか』
もちろん、そんなカートン卿のぼやきは、もはやエルには聞こえない。
意気揚々とエルは狼に、迷子を知らないかと尋ねようとした。
だが、エルが口を開くより先に、何かに気がついた様子のセラフィーナが身を乗り出した。
「むぅ」
エルがわずかに潰れて、奇妙な音がエルの口から漏れた。
「あ、エルくん、ごめんねぇ」
すぐに気がついたセラフィーナが謝る。よしよしとお詫びの代わりにエルの頭を撫でて、セラフィーナは恐る恐る、シンディと戯れる狼に尋ねた。
「あのぉ……、もしかして、ワイアット?」
すると、狼は顔を上げる。どことなく悪戯っぽい表情で、狼犬のワイアットは誇らしげに答えた。
「わう!」
その反応に、セラフィーナは確信する。
心に燻っていた不安が全て吹っ飛んで、セラフィーナは歓声をあげた。
「ワイアット! ワイアットなのね!」
ワイアットと呼ばれた狼──否、狼犬は、その場でぐるりと一周回る。
そしてもう一度吠えると、自分に付いて来いと言わんばかりに、踵を返して歩き出した。
10月20日にオーバーラップノベルスf様より第1巻が発売されました!
タイトルを一部変更しております。
「公爵家のちびっ子愛され令息は、しゃべるクマさんと無自覚に世界の破滅を打ち砕く」
まだお手に取っていない方も、ぜひお手に取って頂けると嬉しいです。
あと特設サイトが可愛いのでぜひ! ご覧ください!
https://over-lap.co.jp/narou/824018946/





