7. 夜の荒野 2
真ん丸な月が、明るく庭を照らし出している。
セラフィーナの部屋を抜け出たエルとカートン卿は、セラフィーナに連れられるがまま、真っ暗な庭の端っこを、こっそりと歩いていた。
どこに向かっているのだろうと、エルはわくわくする。
暗闇は怖いものだけれど、カートン卿もいるし、なによりセラフィーナと手を繋いでいるのだ。
全く恐ろしい気持ちはなかった。
セラフィーナは、家族や使用人に見つかることを恐れているようで、少し緊張している。
そうして向かった先は、馬小屋だった。マナーハウスの馬小屋は広くて、家族全員が乗っても有り余るほどの馬が飼われている。「武」の公爵家ならではだが、セラフィーナにとっては当たり前の光景だ。
慣れた手つきで、セラフィーナは馬小屋の扉を開ける。
「おうまさん、のるの?」
エルはきょとんとセラフィーナに尋ねた。
一瞬セラフィーナは手を止めて、小さく笑う。
「そうよぉ。私のお馬さん、可愛いのぉ」
少し得意そうに言う。万事に控えめなセラフィーナにしては珍しい。
セラフィーナは、一番小柄な馬に近付いた。白い毛に覆われているが、ところどころに茶色い斑が散らばっている。可愛らしく優しそうな面差しは、セラフィーナにそっくりだった。
すぐにセラフィーナに気が付き、馬は小さく鼻を鳴らしてセラフィーナに顔を摺り寄せた。
セラフィーナは軽く顔を撫でてやる。
エルは目を瞬かせた。
「おなまえは?」
「シンディよぉ」
女の子だ。
エルは丁寧に、シンディに向かって頭を下げた。
「えるでしゅ」
応えるように、シンディも頭を下げてくれる。
「この子に乗って行くのぉ」
エルを同行させると心に決めたセラフィーナは、もう迷う様子がない。
慣れた手つきで銜を噛ませ、鞍を乗せる。
「えるも?」
わくわくとして、エルは尋ねた。
エルも、何度かポニーに乗ったことがある。厳密には、自分で乗ったというよりも、馬に乗せて貰ったという方が正しい。まだ体の小さなエルは、一人で馬に乗るのは早いと言われていたのだ。
それでも、グレンと一緒に馬に乗るのは好きだった。
いつか自分一人で乗れるようになるのだと、胸に誓ったものである。
セラフィーナは穏やかな笑みを浮かべた。
「そうよぉ。シンディは強いから、私とエルくんくらいなら、乗せても平気なのぉ」
ねぇ、とセラフィーナはシンディに同意を求める。
シンディは自信満々と言った体で鼻を鳴らし答えた。
セラフィーナは小屋の端にある小さな台を持って来て、その上に立つ。
カートン卿を鞍に乗せ、次はエルを抱えあげた。
少し不安定だが、エルも協力してどうにか鞍に乗る。
そして、セラフィーナは普段の様子からは想像もつかないほど身軽に、鞍に飛び乗った。
『──さすが、「武」の公爵家の娘だな』
(せふぃねえさま、すごいの)
『ああ。さすがにエル坊までちゃんと乗せられるとは思わなかった……そこで断念してくれるかと思ったんだが』
カートン卿は感心して良いやら頭を抱えたいやらで、複雑そうな声音だ。
だが、その真意をエルは掴み切れない。
首を傾げるエルの背後から手綱を握って、セラフィーナは囁いた。
「行くわよぉ」
「あい!」
行くわよ、と言われても、エルはセラフィーナがどこに行くのか知らない。
それでも、確固たる信頼がある。
二人は馬小屋を出る。
満点の星が輝く世界は幻想的だ。
美しい月光に照らし出される道を、セラフィーナとエルを乗せた馬が走り出す。
スカートをたなびかせ、何かを決意したような横顔を晒し、セラフィーナは正面を──どこまでも広がる荒野を見据える。
そして、まだ見ぬ場所への冒険心に突き動かされて、エルは目を爛々と輝かせていた。
☆☆☆☆☆☆
セラフィーナとエルが馬小屋を飛び出た頃。
ハートフォード公爵家のブレニアム・ハウスにほど近い町カステルム・ベラトルムにある小さな宿の一室は、まだ火が落とされていなかった。
寝静まった町を、閉じたカーテンの隙間から眺める男──ハートフォード公爵家の専属医師テオフィルだ。
彼は小さく息を吐いて振り返ると、暖炉近くの安楽椅子に腰掛けた男に目をやった。
「例の物は?」
「用意しておきましたよ」
不敵に皮肉な笑みを浮かべる客人は、テオフィルとは正反対に小汚い恰好をしていた。浮浪者と間違えられても文句は言えない風体だ。近づいただけで、臭いが移りそうなほどである。
テオフィルは遠慮なしに顔を顰め、小さく舌打ちを漏らした。
「早く寄越せ」
「それよりも、先に俺に渡すもんがあるでしょうや」
下卑た笑い声を立て、男は親指と人差し指をこすり合わせる。
はっきりと口にはしないが、金を寄越せということだ。
テオフィルは苛立ったように眉間に皺を寄せるが、無言でポケットから金貨を数枚取り出した。
「今手元にあるのはこれだけだ。置いて行け」
「しけてやがんなァ」
男は金貨を受け取り、口角を上げたまま文句を言う。テオフィルは掌を上にして突き出した。
「文句があるなら返せ。金は耳を揃えて後日渡してやる」
「いやいや、くれるって言うなら貰いやすぜ。俺には、施しは受けたくねえなんて殊勝な矜持も何もありやせんからね」
言いながら、男は金貨を上着のポケットに入れる。そして、代わりに封筒を取り出した。その封筒をテオフィルに差し出す。
テオフィルは封筒を乱暴に奪って中を確認した。望み通りのものが入っていると見て、ようやく眉間の皺を解く。
「さすがキムだな。そこらの粗悪な品とは違う」
満足げな声だ。
封筒に入っていたのは、アーテム王国で発行される居住証明書と道徳証明書、そして推薦書だった。
「そうでしょうや」
テオフィルに封筒を持って来た男は詰まらなさそうに鼻を鳴らす。
アーテム王国内の住所を記した居住証明書、犯罪歴がないことを公的に示す道徳証明書があれば、アーテム王国に入国した後もテオフィルは健全な一般市民として活動できる。
そして、極め付きが推薦書だ。
その推薦書には、テオフィルを私立学校の校長として推薦することが書かれていた。もちろん、署名はアーテム王国の貴族だ。
笑みを納めて、テオフィルは推薦書の紙面を軽く指で叩いた。
「この貴族には、ちゃんと手を回しているんだろうな?」
「お疑いですかい?」
男は片眉を上げる。嘲弄するような表情だが、テオフィルは動じない。
むしろ、逆に男を馬鹿にするように口角を上げた。
「疑うのはむしろお前たちの十八番だろう?」
「はっ」
思わずといったように、男は肩を揺らした。そして、にやにやとした表情で言った。
「キムの旦那に抜かりはありやせんや。俺たちの雇い主の信奉者の一人、ってことでさあ」
「なるほど」
完全に信じたわけではないが、疑う必要もない。
テオフィルはそう判断し、目を眇めて三枚の紙を封筒に収めると懐に仕舞った。
そして、冷たく言い放つ。
「これで俺とお前は無関係だ。人目に付かないように立ち去れ」
「へえへえ」
肩を竦めて、男は立ち上がる。そして帽子を目深に被ると、扉を開けて振り向かずに出て行く。
その気配が遠のいてから、ようやくテオフィルは息を吐いた。
難しい表情で、先ほどまで男が座っていた安楽椅子に腰掛けようとする。そこで一瞬止まり、苛立たしげに舌打ちをすると、一旦シャワー室に向かった。
まだ使っていないタオルを手に取り、部屋に戻ると安楽椅子の座面を乱暴に拭く。足元にタオルを落とし、テオフィルは今度こそ椅子に座った。
「──予定より早くなってしまったが」
神経質に、指先で肘掛を叩く。
「だが、ある意味潮時だったのだろうな」
彼は視線を部屋の隅にやる。そこには、普段から彼が持ち歩いている商売道具があった。
がっしりとした深底の牛革鞄で、がま口になっている。医療道具を持ち歩くための頑丈な鞄であり、中は薬瓶などを安全に保管できるようポケットが大量に作られていた。
医者のテオフィルが持ち運んでも、誰も怪しまない。
だが、その鞄は普通ではなかった。
深い造りであることを利用して、二重底にしている。その中には、他人に見られては困るものが隠されていた。
「元々、途中から計画は上手く行かなくなっていたんだ。俺が報告した時に、計画変更しておくべきだった」
誰にも言えない愚痴を、テオフィルは小さく漏らす。
あたかも、計画変更を承認しなかった誰かが悪いとでも言いたげだ。
だが、たとえ本心でも決して他人に聞かれてはならないことだった。
「ヒューゴ・デッカーが、殺されてくれたら良いのだが──」
だが、未だヒューゴ・デッカーは見つかっていない。
子供を誘拐した罪で投獄された男。
その男が脱獄したという話は、早々にテオフィルの耳に入った。
ハートフォード公爵領とウィルキンソン伯爵領の警察が捜査網を広げている上に、ハートフォード公爵家の私兵も力を貸しているという。
それにも拘わらず、逃亡犯は捕まっていない。
ヒューゴ・デッカーが脱獄するなど、テオフィルは全く想像していなかった。
そんなことができる男ではないと思っていた。その彼が監獄から逃走し、追っ手からも逃れている。
見つかった彼がその場で殺害されることが、テオフィルにとっては最善だ。
だが、万が一ということもある。
もし、ヒューゴ・デッカーが生きたまま捕らえられたら。
潔癖で子煩悩なハートフォード公爵家当主ヒューバートが誘拐犯の戯言に耳を貸すとも思えないが、もし何かの切っ掛けで、ヒューゴ・デッカーの話に信憑性があると考えてしまえば。
テオフィルの破滅も目前だ。
高名な医者であるテオフィルは、普段から国中を移動して患者を診察している。
しばらく姿を晦ましても、怪しまれることはない。
もし何らかの疑いをヒューバートが抱いても、その頃には公爵家の手が届かない場所に逃れている。
だから、そうなる前にテオフィルは逃亡するつもりだった。





