7. 夜の荒野 1
狼狽したセラフィーナは、あわあわと体ごとエルに向き直った。
「エルくん、そのぅ……夜だもの、危ないのよぉ。エルくんは、おねんねした方が、良いと思うわぁ」
ロレッタやフェリクスなら、エルに厳しく寝ろと言っただろう。
だが、セラフィーナはどこまでいってもセラフィーナだった。気弱な口調で、恐る恐る告げる。
もちろん、その程度のことで諦めるエルではない。そもそも、ロレッタやフェリクスに「寝ろ」と言われたところで、エルは断固として自分の主張を譲らなかっただろう。当然、セラフィーナが優しく諭したところで、頷くわけがなかった。
「でも、せふぃねえさま、おでかけする」
セラフィーナが寝ないのに、なぜエルが寝なければならないのか。
それに、一人で外出するのは危ないのだ。
でも、すでに家族が寝てしまっている以上、起こすのは駄目だ。
だから、エルは自分が付いていけば──大人のカートン卿も居るので──問題ないと思った。
エルは自信満々で、断られるなど微塵も思っていない。
真っ直ぐな目で見つめられて、セラフィーナは気まずげに視線を窓の外にやった。
夜にこっそりと屋敷を抜け出すなど、やってはいけないことだとセラフィーナは分かっている。
本当なら、エルに見つかった時点で適当に誤魔化して計画を取りやめるべきなのだ。
それでも、セラフィーナには、今日でなければならない理由があった。
窓の外をぼんやりと、諦めきれずに眺めていたセラフィーナの目が、丸くなる。
「あ……!」
同時に、耳に鐘の音が響いた。
教会が時刻を知らせているのだ。
途端に、セラフィーナは慌てた。
「エルくん、私、行かないといけないからぁ……」
エルを振り返って、だからここに居てね、お母さまたちには内緒でね、と続けようとする。
だが、セラフィーナは、瞠目した。
つい先ほどまでいたはずの場所に、エルは居なかった。
代わりに、すぐ足元からエルの声がする。
「せふぃねえさま、おでかけ、しゅる?」
慌てて、セラフィーナは自分の足元を見る。
そこには、カートン卿を抱えて、決意も新たに自分を見上げる弟が居た。
セラフィーナは頭を抱えたくなる。
奇しくも、それはフェリクスがエルと一緒に街へ冒険に繰り出した後、見つけたハリネズミを追いかけ暴走するエルを前に覚えた気持ちと全く一緒だった。
普段のセラフィーナなら、困ったように眉を八の字にして、諦めたに違いない。
武の公爵家と名高いハートフォード一族の中でも、セラフィーナは思慮深い性格だ。
だが、そんなセラフィーナも、結局はハートフォード公爵家の娘だった。
セラフィーナは、自分に差し伸べられたエルの、まだ小さくふくふくとした手を握る。
躊躇は一瞬で消えた。
「そのぅ……良い子に、しててね?」
おずおずと、しかしはっきりとした口調でセラフィーナが尋ねる。
エルは顔を輝かせた。
セラフィーナは、エルも一緒に連れて行ってくれるのだ。
夜の大冒険である。
「うん!」
声を潜めながら元気よくという器用さを発揮して、エルは頷いた。
『嘘だろう……!?』
カートン卿が、悲鳴を上げる。
彼にとってはまさかの事態だ。あのセラフィーナが、まさかエルを連れてでも出て行こうとするなど全く想像もしていなかった。
嘘だと言ってくれ、と言いたげだが、カートン卿が放った心からの悲鳴は、当然誰にも相手にされなかった。
☆☆☆☆☆
ハートフォード公爵領とウィルキンソン伯爵領の狭間には荒野がある。
街に近付けば草原に変わり、場所を移動すれば森も広がっているが、荒野はどこまでも不気味だ。
足元は悪く、風が吹きすさび、空恐ろしい音をさせている。
荒野には恐ろしい獣がうろついているという噂があるから、腕に覚えのある者であっても極力近付かないのだ。
猟師や旅人は荒野を越えることもあるが、それも必要に迫られた時だけだった。
そんな荒野の中央には、打ち捨てられた小さな家屋がある。
小さな二階建ての家だ。
以前は人が住んでいたが、ここ数年は誰も寄りついていない。
偏屈な爺さんがずっと居ついていたが、彼が亡くなってからというもの、放置されている。
風雨にさらされぼろぼろになった廃屋は、扉にも窓にも木板が打ち付けられていた。
遠目から見ても空恐ろしい雰囲気だ。
だが、その日、その廃屋には三つの影があった。
「そんな、駄目よ。私も行くわ」
そう言ったのは、質素な身なりの若い女だった。
髪を綺麗にまとめ上げ、顔を隠すようにスカーフを被っていた。
地味なワンピースの上に茶色のコートを羽織り、胸の前で布を掻き抱いている。働き者の手だ。
女は身を乗り出し、自分の前に立つ男に取り縋った。体全体で軽く押すようにすれば、男は反抗せずに、背後にあった椅子へと腰を下ろす。
男は、女の体を遠慮がちに、しかし優しく抱きしめた。
「駄目だ。行くのは俺だけだ。そもそも、お前がここに来るなんて──そんなこと、俺は望んじゃいなかった」
「いやよ。そんなこと言わないで。私、ずっとあなたを待っていたのに」
男は唇を噛み締めた。
無精ひげを生やし髪も長く伸びている。体はようやく濡れた布で拭ったくらいで、薄汚れていた。
それなのに、服だけは綺麗だ。古着だが、丁寧に洗濯され手入れされている。
贔屓目に見ても、怪しい風体だ。
かつては溌剌としていた表情すら見る影もなく、陰鬱を身に纏っているような雰囲気ですらある。
女を抱きしめる男の腕が震えた。本音を言えば、男も女と共に生きたかった。
かつては夢見ていたし、必ずそんな日が来ると信じていた。
だが、現実は厳しい。
男は未練を断ち切るように女の体を引き剥がした。
「俺は、お前には幸せになって欲しいんだ」
「あなたの居ない幸せなんて、そんなものはないわ。私、あの時のことをずっと後悔してた。もう二度と後悔はしたくないの」
その時、くうんと鳴く声が二人の足元から響いた。
咄嗟に二人は下を向く。
黒い毛皮に覆われた、金の目をした狼犬が二人を真摯な瞳で見上げている。
女はふっと笑った。
「ほら見て、ヒューゴ。ワイアットも私と同じ気持ちよ」
「ノーマ……」
ヒューゴと呼ばれた男は眉を下げる。
ほとほと困り果てた様子だった。
理性では、愛するノーマも愛犬のワイアットも、連れて行かない方が良いと分かっている。
自分と一緒にいても、良いことなど何一つない。
苦労を掛けることなど、目に見えている。
それでも、長年の苦役で疲弊した心は、ノーマとワイアットを求めていた。
ヒューゴの心が揺れ動いたと分かったのか、ノーマは改めてヒューゴに向き直る。
「お願い、ヒューゴ。私を連れて行って。一人よりも二人の方が良いに決まってるわ。貴方一人だと、きっとろくなご飯も食べないもの」
すると、ワイアットが一声、わんと鳴く。
ノーマは笑った。手を伸ばして、ワイアットの頭を軽く撫でる。
「そうね、ごめんなさい。あなたも一緒よ」
満足げにワイアットはノーマの手を舐め、ヒューゴに向けて尻尾を振ってみせる。
ヒューゴはそれでもなお反論しようと口を開いたが、言葉は出て来なかった。
肩から力を抜いて、壊れかけの背もたれに寄りかかる。
ぎしっと不穏な音が響いたが、椅子は壊れなかった。
「──分かったよ、ノーマ」
降参したと言わんばかりに、ヒューゴは両手を上げる。
彼の双眸は優しい光を湛えて、ノーマを見上げた。
「本当は、ずっとお前に会いたかった。どんな辛い時もお前が幸せで暮らしているはずだと信じて、耐えて来たんだ」
「ええ、ヒューゴ」
ノーマは気丈に笑う。目尻に涙が滲んでいたが、まだ泣く時ではないと分かっていた。
「私も、一時たりともあなたのことを忘れたことはなかったわ。これからはずっと、一緒よ」
決して離れはしないと、ノーマは心に誓う。
この国に居る限りは、二人は幸せになれない。
だから、と、ノーマは言った。
「アーテム王国に渡れば、もう貴方を追う者はいないわ。船のチケットを融通してくれる人が、ドヴェレンシスの近くにいると聞いたの」
「そうか」
ヒューゴは頷く。
その表情から穏やかさを消し、緊張した面持ちで彼は眉間に皺を寄せた。
「ドヴェレンシスか──遠いな」
「ええ。でも、道はある」
毅然としたノーマの様子に、ヒューゴは呆気にとられる。
しかし、彼はすぐに幸福そうに笑った。
「泣き虫ノーマが、今じゃあ立派な女性だ」
「あなたを待っている間に、強くなったの」
ノーマは悪戯っぽく笑う。
そんな恋人に耐え切れず、ヒューゴは手を伸ばし、今度こそノーマを強く抱きしめた。




