5. 医師のテオフィル先生 2
アルマと一緒に自分の部屋へ戻ったエルは、なんとなくスッキリしなかった。
釈然としない、というやつである。
「エルお坊っちゃま、疲れましたか?」
「んーん、だいじょぶなの」
エルは答えるが、心ここに在らずだ。当然のように、アルマはエルが疲れたと判断した。
馬車の中でも眠っていたのだが、きっと睡眠時間が足りなかったのだろう。
それなら、夕食まではきちんと休むべきである。
そうでなければ、夕食の途中でエルは眠ってしまうに違いないのだから。
優秀なアルマは、手際よくベッドの準備をした。
「晩ご飯まで時間がありますから、少しおねんねしましょうね」
「える、ねむくないよ」
「眠れなくても良いですから、ベッドに横になっておきましょう」
エルは唇を尖らせる。だが、ふわふわに整えられたベッドの誘惑には抗えなかった。
ぽすんと体をシーツの海に沈めると、気持ちよくなってしまう。
ふわふわと訪れる眠りに身を委ねて、エルはカートン卿を引き寄せた。
ぎゅっと抱き締めて、ぽふんとカートン卿のふわふわな毛並みに顔を埋める。
『おやすみ、エル坊』
「んー……」
もう、言葉にはならない。
エルはあっという間に、夢の中に旅立つ。
夢の中では、大きな狼さんとうさぎさん、そしてテオフィル先生にそっくりなおひげを生やしたおじいちゃんと、毛皮をふさふささせ、きゃっきゃと楽しくはしゃいでいた。
おじいちゃんのお髭も、ふわふわしてて気持ちよかった。
──ほら、えるのいったとおりだよ、カートンきょーにもおしえてあげなきゃ。
エルはそんなことを思いながら、くふふと微笑むのだった。
☆☆☆☆☆
エルと別れ、セラフィーナとロレッタは廊下を歩いていた。
まだ少し、セラフィーナの表情は硬い。
いつもはセラフィーナに甘いロレッタだが、この時のロレッタは苦笑していた。
「セフィは未だに、テオフィル先生が苦手なのね」
「──別に、苦手というわけじゃあないのよぉ……」
セラフィーナは否定する。だが、本心というわけではない。
皆が感謝しているテオフィルに負の感情を抱いてはいけないという気持ちで、弱々しく首を振った。
それが分かるから、ロレッタは苦笑を深めるしかない。
「まあ、良いのよ。人間には誰だって、好き嫌いがあるわ。馬が合わないってことだってあるしね。私とフェリクスだって、そうだわ」
「──うん」
セラフィーナは素直に頷く。
それでも、ロレッタの発言には違和感があった。
ロレッタは、自分とフェリクスが犬猿の仲だと言っているが、セラフィーナから見れば本当に仲が悪いわけではない。
お互いに意固地になって、歩み寄れないだけだ。本心からは、互いを大切に思っていることが分かる。
互いの前では見せないだけで、ロレッタはフェリクスが危機に陥ったらどうにかして助けようとするだろうし、フェリクスだって同じである。
ただ、セラフィーナはどうしても、小さいころからテオフィル医師が苦手だった。
理由を聞かれても、うまく答えられない。
──なんとなく、嫌な感じがする。
それだけだ。
ちょっと自分たちを見る目が冷たい気がするとか、辛い時や悲しい時にすげなくあしらわれたとか、はっきりと言葉にできることがあればまだ良かったのかもしれない。
残念なことに、セラフィーナはテオフィルが苦手な理由を上手く説明できなかった。
大人には丁寧だが子供には冷ややかな医者も多い中で、テオフィルは子供たちにも歩み寄る、珍しいほど良い医師だと評判だ。
そういう話を、ロレッタやセラフィーナは両親から聞いている。
きっと自分がテオフィルに苦手意識があるのは、自分が家族の誰よりも気弱だからに違いない。
セラフィーナは、そう思っていた。
「──ほらぁ、私、ローリーお姉さまよりも、家族以外の人、苦手だからぁ」
きっとそのせいなのよと、セラフィーナは呟く。ロレッタも、曖昧に肩を竦めた。
「そうかもしれないわね。でも、そう言ってばかりだったら、立派な貴婦人にはなれないわ。社交界では、苦手な人ともうまく付き合わないといけないって、お母さまも仰っていたもの」
「そうねぇ」
分かってはいるんだけど、とセラフィーナは俯く。
視界に自分の履いている靴の爪先が映った。
セラフィーナの大好きな、水色。
その色は、過去の記憶を呼び覚ます。
「それじゃあね、セフィ。また夕飯で」
いつの間にか、ロレッタの部屋まで辿り着いていたらしい。
セラフィーナは、はっと顔を上げた。
「え、ええ、ローリーお姉さま、また後で」
控えめに手を振って、セラフィーナはロレッタの隣にある自室へと入る。
途端に、どっと疲れが体を襲った。
屋敷に帰って馬車を降りた時はそこまで疲れも感じなかったのに、突然だ。
「……先生のせいよ」
セラフィーナは小さな声で文句を言った。そして、慌てて口を押える。
誰かに聞かれてはいないかと、おどおどと周囲を見回した。
幸いにも、人の気配はない。
ほっとして、セラフィーナはソファーに座った。
水色の、可愛いウサギが刺繍されたクッションを抱え込む。
クッションに顔を埋めて、セラフィーナはきつく目を瞑った。
「エルくんが居なくなったのも、にいさまが居なくなったのも、全部──全部、先生のせいなんだから」
その声は、今にも泣き出しそうに震えていた。
☆☆☆☆☆
カートン卿とエルが寝ている寝室。
そこに、小さな影が忍び込んでいた。
ちっちゃなエルの手よりもさらにちっちゃなネズミだった。
『ああ、ちょうど良いところに来た』
エルが寝た当初は抱きしめられていたカートン卿だが、今はエルの寝相によりベッドの端に放り出されている。
顔はベッドの外側に向かっていたが、角度からしてカートン卿の目にネズミは映らない。
それでも、カートン卿に不便はなかった。
『そこのネズミ──ああ、カヤネズミか。なぜ穀物畑にいないのか理解に苦しむが──なるほど、小麦か? 確かに、公爵一家が帰って来る時は料理人が張り切るからな。普段よりも質の良い小麦がたくさんある、と。それならば納得だ』
小さな小さなカヤネズミは、ブレニアム・ハウスを餌場の一つにしているらしい。
公爵一家が戻って来ると餌の量が増え、さらに質も良くなるのだから、当然おこぼれに預かりたくなる。
カートン卿は尊大に言ったが、体はベッドの上に転がっている。
威厳もなにもあったものではない。
だが、彼は全く気にしていなかった。
爆睡しているエルに乗っかられて、無惨なまでに体がひしゃげていることもあるのだ。それと比べると、今日はずいぶんとまともな姿勢である。
『それで、セラフィーナの部屋には行ったか? セラフィーナ、そうだ。この家の次女だ。一番小さな女の子、といえば分かるか? いや違う、一番小さな子供はここにいるエル坊だ。そうじゃなくて、エル坊よりも一つ大きな女の子──そうじゃない、気が強そうな方じゃなくて、気弱そうな方だ、そうだ』
カヤネズミは、きぃきぃ、と鳴き声を立てた。
普通の人間には分からないだろうが、これでもちゃんとカートン卿と意思疎通ができている。
カートン卿はカヤネズミの言葉に耳を傾けた。
『泣いていた──なるほど。先生のせい、か。不思議なこともあるものだな。お前はテオフィルという名前の医者を知っているか? 消毒液臭い、そう、お前たちが嫌いな臭いをいつもプンプンとさせている男だ。ああ、そうか。会ったことがない。まあ、そうだろうな』
最初から期待はしていなかったと、カートン卿は天を仰ぐ。
自分では身動きが取れないから、気分だけだ。
でも、カートン卿はいつも、その気分が大事なのだと思っている。
『もう行って良いぞ。じゃあな』
そう言えば、カヤネズミはやはりきぃきぃと別れの挨拶を告げながら、壁の床に空いた小さな隙間から姿を晦ました。
『まあ、なあ。カヤネズミは、大体半年か一年しか生きないからなあ。過去に何があったのか知るのは──猫か、犬か、人間か』
それとも、狼か。
一瞬脳裏に沸き上がった単語を、カートン卿は苦笑と共に否定した。
狼は、このスペロ王国には居ないのだ。
海外の、雪に閉ざされた北の国ではまだ生存しているようだが、この近辺をうろつく狼はいない。
たとえ狼が動物園から逃げ出したのだとしても、遠くで飼われていた狼が過去の出来事を知る由もない。
はあ、と、カートン卿は内心で大きな溜息を吐く。
なんとなく陰鬱な気分になったが、その時、カートン卿の背後で、エルがむにゃむにゃと地位さく寝言を漏らした。
「かーとんきょ、の、おひげぇ……」
『エル坊? 俺にお髭はないぞ。一体全体、どんな夢を見てるんだ?』
カートン卿に、髭はない。
だって、くまのぬいぐるみだから。
エルが見ているだろう夢がどんな状況になっているのか全く想像もつかず、カートン卿は小さく首を捻っていた。
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