5. 医師のテオフィル先生 1
エルたちが室内ピクニックで盛り上がっていると、扉がノッカーで叩かれる音がした。
思わず、エルとロレッタ、セラフィーナは顔を見合わせる。
ロレッタは少し慌てた様子で、自分の侍女を振り返った。
「今日は、お客さまがいらっしゃる予定だったかしら?」
「いいえ、お嬢さま。その予定はございません」
落ち着いた態度の侍女が、静かに答える。
だが、実際に扉は叩かれたのだ。
基本的に、未成年の子供は訪問者と直接顔を合わせることはない。
時々親に呼ばれて対面することはあるが、親の許可なしに勝手に客と会うことはできないのだ。
年長のロレッタは、そのことを良く知っていた。
セラフィーナはまだ理解が浅いが、薄らと知っている。その上、ロレッタが少し慌てた様子なのだから、当然セラフィーナもそわそわとする。
そこに、執事のデニスがやって来た。
ロレッタたちを見て片眉を上げる。だが、デニスは軽く挨拶をしただけだった。
客人なら、早く部屋に戻るよう言われるはずだ。
つまり、完全なる客ではなく、身内に分類される相手が来たということだ。
様子を窺う姉弟たちの前で、執事は扉を開ける。
「お待ちしておりました、テオフィル医師」
どうやらお医者さんらしい。
エルはちょっと緊張して、アルマのスカートの影に隠れた。カートン卿をぎゅっと抱き締め、スカートの横からひょこっと顔を覗かせる。
そんなエルを見て、ロレッタは両手で鼻と口を押え悶絶していた。
「やあ、こんにちは。ご夫妻はご在宅ですかな? お戻りになられるとは聞いていたのですが、急患やら何やらありましてね。すぐに来られず申し訳ありません」
「先生は名医でいらっしゃいますから、致し方ありません。むしろこちらにお出でいただき感謝いたします」
デニスは如才なくテオフィルと名乗った初老の男に礼を尽くす。
慌ててロレッタは取り澄まし、セラフィーナは緊張を隠せない様子で、ロレッタの傍に寄った。
だが、エルは何よりも気になるものがあった。
「おひげ……」
そう、おひげである。
医師テオフィルは、立派な髭の持ち主だった。口ひげはもちろん、もみあげから頬を通って、顎までふさふさだ。
エルの目は釘付けだった。
これまで、エルの周りでは見たことのない、立派な──それこそ、冬の季節に北の国からプレゼントを持って来てくれそうな、そんなおひげである。もちろん、あちらは白くてこちらは黒と白が入り混じっているが。
『エル坊、そんなにおひげが気になるのか?』
(ふさふさしてるの。やーらかい?)
『おひげは、大体硬いな』
(おひげ、かたい……)
なるほど、とエルは頷いた。
硬いと言っても、正直想像はつかない。だって、柔らかそうだから。
屋敷にある動物の毛皮は、どれもふわふわなのだ──毛布しかり、絨毯しかり、コートしかり。
それなのに、テオフィル医師のおひげは硬いという。
どんな硬さだろう。
エルは気になって仕方がなかった。
「お嬢さま方、お久しぶりです。お元気そうでなによりですな」
「テオフィル医師、ごきげんよう」
テオフィルは黒いつば付きのフェルト帽を脱いで胸元に当てると、ロレッタとセラフィーナに軽く会釈する。
ロレッタは余所行き顔で挨拶をするが、セラフィーナは姉に合わせて軽く膝を折っただけで、目は床に落としていた。
失礼だと怒られても仕方のない態度だったが、テオフィルは小さく含み笑いをして気にしない。そして、灰色の目はアルマに隠れる小さなエルを捉えた。
「そちらは?」
エルが内心でそわそわしているとは知らずに、医師テオフィルはエルに一歩近づく。
テオフィルを客間に案内する役目を負っているデニスは、淡々と答えた。
「末のオスニエル様でいらっしゃいます」
「ああ、この子がそうか。『神の子』だね」
「さようでございます」
どうやら、テオフィルは既にエルのことを知っていたようだ。納得したと頷く。
そして、意味深な表情でアルマにも視線を移した。
「ということは、あなたがアルマだね」
「はい、先生」
この国では、貴族が一番偉い。
だが、お医者さまは貴族に負けず劣らず偉いのだ。
ちゃんとエルは、そう学んでいた。
だからだろう、アルマはよそ行きの顔で慎ましやかに対応している。
エルは、ちょっと面白くなって、じっと上目遣いにアルマを見つめた。
「ふうむ。ウィルキンソン伯爵から紹介されたという、看護師だね?」
「左様でございますわ、先生」
ロレッタとセラフィーナが驚く。二人とも、アルマが看護師だとは知らなかったらしい。
エルはちょっとばかり、得意げになった。ほんのわずかに胸を張る。
『エル坊、嬉しそうだな』
(うん。あるま、すごいの)
『まあ、確かにアルマは凄いが』
カートン卿は少し複雑そうだ。だが、エルは気にしていなかった。いつも通りである。
一方、医師テオフィルは納得した様子で「なるほど、なるほど」と言った。
「私が紹介した看護師を、公爵閣下が断ったのが気になっていたのだよ。優秀な娘だったからね、必ずや公子の助けになるだろうと思っていたのだ」
エルはきょとんと小首を傾げる。
なんとなく、テオフィルとアルマはエルのことを話しているような気がする。
だが、早口だし言葉が省略されているし、エルは今ひとつ二人の会話がわからなかった。
分からなければ、訊けば良い。だが、大人が話している最中は口を挟んではいけないのだ。
だから、エルはいつも通り、カートン卿に尋ねた。
(えるのおはなし、してる?)
『そうだろうな。エル坊がまだちっちゃな頃に、家族と別れて屋敷に行っただろ? その時に、病気をちゃんと診れる人を一緒に行かせようとしたんだろう』
(かんごしさん?)
『ああ、そうだ。アルマはウィルキンソン伯爵──隣の領地の伯爵が紹介してくれたらしいな。他にも、あのテオフィルって医者が、エル坊のお世話をするように別の看護師を紹介してくれたんだが、エル坊のお父さんとお母さんはアルマを選んだ、ということだろう』
カートン卿が噛み砕いてくれて、エルはようやく納得する。
エルはアルマが大好きだ。
(える、あるまがよかった)
『そうだな。お前のお父さんだかお母さんだかは、見る目があったってことだ』
(とーさまとかーさま、すき)
すでに両親のことは大好きだが、二人がアルマを選んだと知って一層好きになる。
エルは嬉しくなって、むふむふとアルマのスカートに顔を埋めた。
「エルお坊っちゃま?」
アルマが目を瞬かせてエルを見下ろす。
テオフィルもそんなエルに気がついて、一瞬目を見張った。そして、唇に笑みを浮かべる。
すると、もさもさの髭がふわっと動いた。
「公子にも、随分と気に入られているようだ」
「うん! えるね、あるま、だいすきなの!」
どうだ、と言わんばかりにエルは自慢する。
まさかエルが発言するとは思っておらず、テオフィルは一瞬言葉を失った。
アルマの感動はひとしおだ。
そしてロレッタは、「私も大好きって言われたい……!」と内心で叫んでいた。少女の気分はスーパースターを前にした一ファンである。
テオフィルはすぐに我に返った。
目を細めて、微笑んで見せる。
「それは宜しいことですな、公子」
そこで、会話に一区切りついたと判断したデニスが口を挟んだ。
「先生、そろそろ宜しいでしょうか。旦那さまがお待ちでございます」
「ああ、そうだったな。それでは失礼、お嬢さま方、お坊っちゃま」
茶目っ気たっぷりに、テオフィルは帽子をあげて挨拶をする。
ロレッタは楽しげに破顔一笑し、エルはアルマの後ろから覗く形で、一生懸命手を振った。
デニスと共に、テオフィルは屋敷の奥へと向かう。父ヒューバート、母ソフィアと会うのだろう。
息を吐き出して、ロレッタがいう。
「テオフィル先生、お変わりないわね。私も会うのはかなり久々なのだけれど」
「──ローリー姉さまは、お元気ですものぉ。風邪だって引かないんだから、先生にお世話になることなんてないわぁ」
ずっと黙りこくって気配を消していたセラフィーナが、ようやく口を開く。
ロレッタは片眉をあげて、セラフィーナを振り返る。そして、小さく笑った。
「セフィは、結構お世話になったわよね。エルくんほどじゃないけど、小さい頃から体を崩しがちだったから」
セラフィーナは答えない。
そして、エルは目を瞬かせた。セラフィーナの体が弱かったとは、初耳だ。
「せふぃねえさま、えるといっしょ?」
テオフィルがいなくなったから、少し気安くなって、エルはひょこひょことアルマのスカートの影から出ていく。
小さなエルを見下ろして、セラフィーナは困ったように眉根を寄せた。
「エルくんとは、少し違うわねぇ。でもぉ、冬になると、よく寝込んでたのぉ」
「ふゆ、さむいし、かんそー、するの」
「よく知ってるわねぇ、さすがだわぁ」
寒くて乾燥するのだから、どうしても冬場は体調を崩しやすくなる。
ハートフォード公爵邸は立派だが古いので、室温や湿度は外気の影響を受けやすい。
セラフィーナも、敏感にその変化を感じる質なのだろう。
「だから、おいしゃさま、よくきてた?」
エルは視線を屋敷の奥に向ける。テオフィルのことを言っているのだと、セラフィーナはもちろん、その場にいる誰もが理解した。
だが、セラフィーナはすぐには答えない。
言葉を探しあぐねていると言った具合に、迷いながら彼女は口を開いた。
「そぉねぇ、よく来ていたわぁ」
セラフィーナはおっとりしているだけで、心根の優しい少女だ。
それなのに、その口調はどこかひんやりとしていて、エルはきょとんと首を傾げた。




