3. エルくん、町におでかけする 4
エルが一番好きだったのは、マドレーヌだった。
ふんわりとした優しい味が、口の中でほろりと溶ける。とても幸せな瞬間だった。
ロレッタやセラフィーナがこれまでこのカフェに来たときは、カフェで食べるだけで終わっていたらしい。だが、今回はエルのおねだりに応えて、いくつか焼き菓子を買って帰ることになった。
お店では食べなかったクッキーも、お土産の袋の中には入っている。
一般的なクッキーは花や四角、丸が多いが、このカフェでは動物のクッキーが売られていた。
エルだけでなく、ロレッタやセラフィーナさえも一目惚れし、思った以上に購入することになったのだ。
「エルくんは、どの動物さんにするのぉ?」
カフェの玄関を出る直前、踊り場のところで、エルの隣を歩くセラフィーナが尋ねた。
「える、うさぎさん」
まんまるとしたウサギのクッキーが、エル一番のお気に入りだ。
本当はクマのクッキーにしようかと思ったのだが、カートン卿が複雑そうな顔をしていたので止めたのだ。
クマには少し未練がありつつも、ウサギも大好きなので問題ない。
「せふぃねえさまは?」
「そうねえ、私は小鳥ちゃんのクッキーが良いわぁ」
「ちょこれと?」
「そうよ、チョコレート味だったわねぇ」
エルの選んだウサギのクッキーはシンプルなプレーン味だが、セラフィーナが買ったクッキーはチョコレートチップが入っていた。
少しばかりエルも気になりはしたのだが、エルの舌には、チョコレートはまだ少し苦すぎるのだ。
(える、おおきくなったら、ちょこれとたべるの)
『大きくなったらな』
心の中に仕舞い込んだ呟きを、カートン卿はあっさりと拾ってくれる。
エルは少し嬉しくなって、にこりと微笑んだ。
そして、今度はセラフィーナとは反対側に立っているロレッタを見上げる。
「ろーりーねえさまは?」
「私はネコのクッキーよ。エルくんにも一口、あげるわね。オレンジピールが入ってるんですって」
「おれんじ。すっぱい?」
もちろん、エルもオレンジは食べたことがあった。だが、その時は酸っぱかった記憶が強い。酸っぱさの後ろにはほんのり苦味もあって、エルはちょっと苦手だった。
チョコレートは大人になったら食べられるかもしれないが、オレンジはあまり自信がない。
好き嫌いなく食べないと元気な大人にはなれないと、アルマやグレンだけでなく、カートン卿も良くエルに話す。それでも、オレンジは食べなくても良いかなあ、とエルは思うのだ。
そんなエルの内心には気付くことなく、ロレッタは首を傾げた。
「クッキーだから、甘いんじゃないかしら?」
「あまいの? おれんじ、あまい?」
「甘いと思うわよ」
オレンジと「甘い」という単語が結びつかなくて、エルは目を瞬かせる。
だが、ロレッタは冗談を言っている様子ではない。
「える、たべたい」
食べたいというよりは、食べてみたい、だ。
本当に甘いのか、とてもとても興味があった。
だが、そこでセラフィーナが恐る恐る口を挟む。
「ローリーお姉さま。オレンジピールはオレンジの皮を砂糖水で煮詰めているのでしょう? 私は、少し苦いと思うわぁ……」
「にがい?」
エルは目を真ん丸にした。
ここに来て、ロレッタとセラフィーナの意見が食い違っている。
果たしてどちらを信じたものか。
苦いのなら、まだエルは食べられない。苦いのは大人の味だ。
エルはもうだいぶ大きくなったと自負しているが、苦いご飯が美味しいと思うほどの大人には、なりきれていない。
(かーとんきょー、おれんじ、にがい?)
『オレンジピールは、まだエル坊には早いかもしれないな』
(にがい……!)
衝撃である。エルは愕然とした。
カートン卿の言う『エル坊にはまだ早い』とは、この場合「苦くて食べられない」という意味だ。
初めての味に挑戦できるかと思ったが、あいにくとまだ気が早かったようである。
悄然とするエルを、カートン卿は慰めた。
『まあまあ。今焦って食べなくても、そのうち好きなだけ食べられるようになれるんだから』
(いま、たべたかった……)
『別に、今食べても良いんだぞ』
(おいしくないの、や……)
『うーん。あちらを立てればこちらが立たず、だなあ』
どことなくカートン卿が微笑ましげにエルを眺めている気がするが、それはエルの気のせいである。
しっかりとエルに抱きかかえられたカートン卿は、真っ直ぐに前を向いているのだから。
エルの百面相を、ロレッタやセラフィーナ、そしてアルマを筆頭とした侍女たちは優しく見守っていた。
そして、一行はカフェを出る。
「つぎ、どこいくの?」
片手をセラフィーナと繋いだまま、エルはロレッタを見上げた。
すでに彼女の頭の中には計画ができあがっているらしく、迷わずに答える。
「次は雑貨屋さんに行くの。エルくんのお部屋に絵本は用意しているけれど、飾りが足りないでしょう? だから、エルくんの好きな雑貨を探しに行きましょう!」
「ざっか?」
雑貨とは果たして何なのか。
エルは、はて、と首を傾げた。雑貨、という単語から思いつくものはあまりない。
首を傾げた瞬間に、エルのふわふわ頬っぺたがもふりとカートン卿の頭に埋もれる。
ロレッタは一瞬両手で顔を覆って震えたが、どうにか立ち直った。
エルと会ったばかりの頃であれば、ロレッタはしばらく悶えたまま、一言も話せなかったに違いない。成長である。
「雑貨っていうのはね、そんなに高くない日用品のことよ。ペンとか封筒とか、玩具だけど指輪印章もあるわ。絵具、筆、キャンパス、押し花が可愛い小さな額縁、小皿──確か、玩具もあったかしら」
セラフィーナも、エルが興味を持ちそうなものはないかと考え、ようやく一つの単語を口にした。
「……古地図もあったわぁ」
エルは「ふうん」と短く相槌を打つ。
聞き覚えのない単語もあったが、とりあえずその雑貨屋とやらに行けば分かるに違いない。
正直面白いと思えるかは分からなかったが、少なくとも、セラフィーナが口にした古地図は気になった。
「たのしみなの」
エルは素直に、思うままを口にした。
ロレッタとセラフィーナは、少しばかりほっとしたように頬を緩める。
「ローリーお姉さま、雑貨屋さんはどちらだったかしらぁ」
「こっちよ。セフィ―が最後に行ったのは、結構前だったわよね」
歩き出しながら、ロレッタはそんなことを言う。
そして、ふと思い出したように、不思議そうな表情でセラフィーナを見た。
「あれだけ好きだったのに、嫌がるんだから何事かと思ったわ。気持ちは変わったの?」
セラフィーナは曖昧に微笑む。だが、普段の微笑とはほんのわずかな違いでしかなく、誰も違和感を覚えなかった。
エルはもちろん、背が小さすぎてセラフィーナの顔が見えないのである。それに、歩き出したロレッタについて行こうと、短い脚を必死で動かすしかない。
「そうねぇ。なんで嫌だったのかしらぁ」
「小さいときは、理由は良く分からないけれど、何だか嫌っていう時もあるものよね」
セラフィーナの返事は要領を得なかったが、ロレッタは特に気に留めない。
その時、ふと、遥か上の後方で小さな物音が聞こえた気がした。
「う?」
エルはきょとんとして目を瞬かせ、足を止める。
同時に、セラフィーナも足を止めた。
何とはなしにエルはセラフィーナを見上げ、セラフィーナは振り返った。
セラフィーナの瞳が、カフェの二階窓に向けられる。
店に入る前、エルが違和感を覚えた窓だった。
そして、セラフィーナは目を見開いた。
セルはきょとんとして、セラフィーナの視線を追う。だが、その時は既に、何も変わったところはなかった。
カフェの二階にある窓はカーテンがしっかりと閉められたままだし、もちろんカフェの扉はまだ誰も開けていない。
「せふぃねえさま?」
どうしたの、とエルはセラフィーナの手を引っ張る。
セラフィーナははっとすると、普段通りに笑ってエルを見降ろした。
「なんでもないわよぉ。雑貨屋さん、行きましょうかぁ」
「……うん?」
良い子のお返事をしたが、エルはなんとなく、引っ掛かりを覚えていた。
なんとなくだが、セラフィーナの少し八の字気味の眉が、普段よりも垂れ下がっている気がする。
もしかして、と、エルは思った。
そんなエルの心の内は聞こえていないはずなのに、カートン卿はさすがだった。
敏感に、エルの反応に勘付く。
『エル坊、どうした?』
なんとなく嫌な予感がしているだろうに、カートン卿は何気なく尋ねた。
『お腹でも空いたのか? それともおねんねか?』
その名も「何かは分からないがエルの気を引いたものから別のことに注意を逸らそう」作戦である。
だが、たいていカートン卿が焦った時は上手く行かない。
案の定、エルははっきりと首を振った。
(ん-ん。ちがうの。せふぃねえさまなの)
ああ、とカートン卿は思った。
自分の手が動けば頭を抱えていたに違いない。
『エル坊? なんとなーく、エル坊が思ったことは分かるがな、それは気のせいだと思うぞ』
(きのせー、ちがうの。せふぃねえさま、こまったおかお、してたよ)
『いや、だからそれはだな』
頼むから、そんなことは考えないでくれ。
カートン卿の切実な願いは、届かない。
エルは爛々と目を輝かせて、はっきりとカートン卿に告げた。
(りゆー、わかんないけど、せふぃねえさま、おこまりなの!)
つまり。
困っている人は助ける。
それが、エルが修道士ジェイと交わした約束であり、約束とも関係なしにエルがやりたい! と思ったことでもあり、つまりは──今ここで、セラフィーナは、エルが「困っているから助けてあげる」人になったということである。
『エル坊がどうにかしなくても、大丈夫だから! お前のセフィ姉さまは大人だから、ちゃんと一人でできるから、な!?』
カートン卿は必死で説得を試みる。
セラフィーナは十歳でまだ子供だが、エルから見れば十分大人だ。
だから、困っていないというよりも──セラフィーナが困っているというのはエルにとって事実になってしまったので──自分で解決できる、という方向に持って行きたかったのだが、それは失策だった。
(でも、おとなでも、えるがたすけるんだよ)
隣国アーテム王国から来た王女さまの、迷子のハリネズミを見つけたエルである。
相手が殿上人であろうと、年上であろうと何であろうと、自信はうなぎ登りだった。
『いや、だから──!』
カートン卿は、必死で言葉を探す。
だが、先ほどとは打って変わって騎士きどりでセラフィーナの手を繋いだエルは、表情をキリッとさせ、カートン卿の言葉をしれっと聞き流すのだった。





