2. ブレニアム・ハウス 3
少し時は遡る。
アルマと一緒に、ご機嫌になってエルは廊下を歩いていた。
「エルお坊ちゃま、この先はロレッタお嬢さまのお部屋ですよ」
「ろーりーねえさまの、おへや?」
エルは目をぱちくりとさせる。
廊下の飾りや雰囲気は他の場所と似ていたが、ロレッタがこの先に居ると思うと、なんとなく全てが素敵に見えた。
「ろーりーねえさま、ごあいさつするの!」
喜んで、エルはアルマを見上げた。なんとなく浮足立つ。
アルマはにっこりと笑って頷いた。
「そういたしましょう。きっと、ロレッタお嬢さまもお喜びになられますよ」
励まされて、エルは一層得意げな表情になる。
そして、カートン卿を抱え直して、エルは少し小走りでロレッタの部屋に向かった。
普通の部屋は、扉の把手が高くてエルの手は届かない。
だが、ロレッタの部屋は他の場所より把手が低く、エルは難なく扉を開けることができた。
「エルお坊ちゃま、黙ってお部屋に入ってはいけません! ちゃんと扉を叩かないと」
慌ててアルマが言うが、時すでに遅しである。
『エル坊、やんちゃが過ぎるぞ』
カートン卿も苦言を呈するが、エルは二人の小言よりも、自分の耳に飛び込んで来たロレッタとセラフィーナの会話が気になってしまった。
「動物園から逃げて来たんだわぁ」
「そうよね。それしか考えられないわ」
おっとりとしたセラフィーナが真剣に言えば、ロレッタも真面目腐って同意する。
動物園。
エルも、動物園のことは知っていた。
実際に行ったことはないが、絵本の中では動物園があった。グレンもエルと同じく行ったことはないそうだが、アルマは一度だけ、訪れたことがあるそうだ。
「にげてきたの?」
部屋に飛び込んだエルは、真っ先に、一番気になったことを尋ねた。
なんとなくカートン卿が頭を抱えている気配がするが、理由は分からない。
『エル坊、それよりも別の話をした方が良いんじゃないか? ほら、今日の晩ご飯の、デザートの話とか』
頑張ってカートン卿がエルの気を逸らそうとするが、エルは綺麗にカートン卿の誘惑を無視した。
普段はカートン卿もエルの興味関心をしっかりと把握して、すぐに意識を他に移すことができる。だが、今回ばかりは想定外すぎて良いネタを思いつかなかったのだ。
今のエルは、大好きなスイーツよりも、動物園からなにかが逃げて来た、という姉二人の会話の方が気になっていた。
当然カートン卿の突っ込みが聞こえるわけもなく、ロレッタは相好を崩した。
「エルくん……! 来てくれて嬉しいわ、よかったらこっちに来て一緒にお話ししましょう?」
にやにやとした顔も、ロレッタの整った顔だからこそ様になる。
カートン卿はエルの関心を他に惹きつけることも忘れて、ぼんやりと呟いた。
『このお嬢ちゃんじゃなかったら、その顔はちょっとヤバいぞ……』
(やばいって、なあに?)
エルはきょとんとしながらも、ロレッタとセラフィーナに促されるがまま、ソファーに腰掛けた。
一人では座れないから、アルマが抱っこして座らせてくれる。そのまま、アルマは少し離れた場所に控えた。
「ろーりーねえさま。どーぶつえん、にげてきたの?」
もう一度、エルは尋ねる。ロレッタは戻りそうにない頬を手で揉んで平常心を保ちながら頷いた。
「逃げて来たのは、動物園じゃなくて狼さんよ。エルくんとピクニックに行きたくて、セフィがお母さまに相談してくれたんだけど、狼が出たからダメだって仰ったの」
「おおかみさん?」
エルはびっくりした。
思わず、カートン卿に訊く。
(おおかみさん、あえるの?)
『会ったら、エル坊なんて一口で、ばぐっ! って食べられちゃうぞ』
(たべられるの、いや)
想像してしまって、エルの眉間に皺が寄った。むうっと唇が尖る。
ロレッタが身悶えながらエルの頭を撫でてくれた。
大人しく受け入れながらも、エルは不思議に思った。
(えほんのおおかみさん、やさしかった)
エルお気に入りの絵本に出て来た狼はハイイロオオカミの老婆で、ピンク色の柔らかそうなワンピースを着て、お揃いの柄のボンネットを被っていた。窓際で安楽椅子に座って、もふもふの毛糸を編んでいるのだ。
頼り甲斐のある、村の知恵袋で、誰もが相談に来る。
ハイイロオオカミは、村の人たちを助けて幸せにしていた。
エルが教会でジェイと名乗る修道士と約束した通りのことだ。
ふむ、とエルは考えた。
これまでも、エルは色々な人を助けて来た。
アルマはエルが居るだけで幸せになれると言うし、その次は隣の国の王女さまを助けたのだ!
だが、屋敷に来てからは冒険しているばかりで、困っている人を助けられていない。
そもそも、困っている人がいないようで、エルが質問しても皆にこにこしたまま、今が幸せだと答える。
このままでは、ジェイとの約束を果たせない。エルにとっては、大変なことだ。
「ろーりーねえさま。おおかみさん、ものしり?」
「エルくん、難しい言葉を知ってるのね?」
ロレッタとセラフィーナは目を丸くした。そして、二人は顔を見合わせる。
もちろん、エルは色々なことを知っているのだ。絵本をたくさん読んでいるし、話し相手は大人のアルマやグレンだった。カートン卿とも、たくさんお話をしているし、様々なことを教えて貰っている。
ちょっと得意な気分になって、エルは心なしか胸を張った。
「どうかしら。狼って、頭良いの?」
ロレッタが問えば、セラフィーナは自信なさそうに首を傾げる。
「たぶん……?」
自然と、三人の視線がこの場で最年長のアルマに集まった。
部屋の隅に控えていたアルマは、まさか自分に振られるとは思っておらず、一瞬目を瞠る。
しかし、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「確かに、狼はとても頭が良いと聞いたことがあります」
「そうなの。じゃあ、きっと獲物を狩るのも得意なのね。それならお腹を空かせたりもしなさそうだわ」
ほっとロレッタが胸をなでおろす。
エルは首を傾げた。
「おおかみさん、おなか、ぺこぺこなるの?」
「そうよ。だって、動物園は人間がご飯を用意してくれる所でしょう。そこで育ったなら、自分で餌を取ることもできないんじゃないかしら」
弟の素朴な疑問が可愛らしいと、ロレッタは頬を緩めて答える。
その反応を見て、カートン卿がぼそりと呟いた。
『だいぶ発狂具合がマシになったな……慣れたのか?』
(はっきょう? ってなあに?)
エルは腕の中に居るカートン卿を見下ろす。カートン卿が答える前に、セラフィーナが口を開いた。
「ご飯には困らないかもしれないけど、ローリーお姉さま。夜は寒いのよ。凍えているかもしれないわ」
「狼には毛皮があるでしょう? だから大丈夫よ」
「けがわ、ぬくいの?」
ロレッタやセラフィーナの大人な会話に入りたくて、エルは少し背伸びをした。
ソファーの上で、エルの体がむにょんと、ほんの少しだけ伸びる。ソファーの座面が柔らかくて、エルの上体が揺れた。セラフィーナが慌ててエルの体を支える。
「温かいわよ。だって、エルくんも、冬になったら毛皮のコートを着るでしょう?」
答えたのはセラフィーナだった。エルは、確かにと納得する。
毛皮のコートはふわふわで暖かかくて気持ちが良いが、時々暑すぎるくらいだ。
狼は全身が毛皮なのだから、エルたちが寒いと思う場所でも、全く平気なのだろう。
それでも、一人で暗い場所に居ると心細いのではないだろうか。
エルだって、体調が悪くて一人ベッドに居る時は、心細くて泣きそうだった。
カートン卿が居てくれるから、どうにか心が慰められたのだ。
「おおかみさん、ひとりさみしい?」
咄嗟に、エルはそんなことを口にしていた。
ロレッタとアルマが目を瞠る。セラフィーナも一瞬驚いた様子だったが、兄姉弟妹の中でも心根の優しいセラフィーナは、すぐにエルが何を気にしているか理解したようだった。
「そうかもしれないけれど、一匹狼という言葉があるくらいですもの。一人の方が嬉しいのかもしれないわ」
「ひとりがいいの?」
エルはびっくりした。まじまじとセラフィーナを見つめる。
にわかには信じがたい。
だが、セラフィーナは本心からそう言っているようだった。
なるほど、とエルは一つ学ぶ。
エルにとって一人は寂しいことだが、世界にはそうでない人も──この場合は狼だが──いるようだ。
『そうだぞ、エル坊。世の中は広いんだ。一人の方が好きだっていう奴もいる。そういう奴は、一人で可哀そうだと言われても、嫌な気持ちになるかもしれないな』
(わかった)
独りぼっちだから困っているのだろうと思うのは、きっと良くないことらしい。
エルは真剣に、カートン卿の話に頷いた。
困っているかもしれないと思った時は、ちゃんと相手に訊いた方が良い。
しっかりと、エルは小さな頭にその言葉を刻み込んだ。
「セフィの言う通りね。きっとそうだわ。狼が捕まる──無事に動物園に帰ってから、ピクニックをしましょう。それまではお屋敷で遊んだり、町に出たりすれば良いわ」
ロレッタがお姉さん風を吹かせて、そんなことを言う。
セラフィーナは大人しく頷いた。異論はないようだ。
そして、エルもロレッタの案は気に入った。
ピクニックも捨てがたいが、町に出る! これこそ、楽しそうではないか。
(ぴくにっく、はらっぱだから、こまってるひと、いないの。でも、まちはひとが、いっぱいなの)
ふふんと、エルはカートン卿に話しかける。
カートン卿は一瞬、言葉に詰まった。
『まあ──そうか。まあ、確かにそうだが。エル坊、人に話しかける時は、ちゃんとアルマに、声をかけて良いか訊くんだぞ。変な人かもしれないからな』
(うん、だいじょぶだよ)
エルは自信満々に請け負う。
だが、カートン卿は疑わしい視線を──実際は体が動かないから気分だけだが──エルに向けた。
地方の屋敷に居た時は分からなかったが、都に出てカートン卿は痛感した。
エルを大人しくさせるのは、至難の業だ。
『──アルマたちの働きに期待するしかないか』
(あるま? なんで?)
どうして突然、アルマの話が出て来るのか。
エルが目を瞬かせても、カートン卿は『なんでもない』と答えない。
その間に、ロレッタとセラフィーナの話題は、夕食後のデザートの話に移っていった。
☆☆☆☆☆
ハートフォード公爵領の隣にある、ウィルキンソン伯爵領。
その外れにある修道院で、修道士のジェイことジョエルは難しい表情を浮かべていた。
「ジョエル修道士、どうかされましたか」
修道院長に声を掛けられて、ジェイは我に返る。
「修道院長。いえ──大したことではないのですが」
ジェイは咄嗟に言いつくろうことができず、曖昧に言葉を濁す。
修道院長は、すぐにジョエルの手元にある紙に気が付いた。
「ああ、今朝到着した手紙ですね。貴方のご家族からのものでしたか」
「そうです」
「何か良くない知らせでも?」
心優しい修道院長は、気遣わしげに問う。ジョエルは首を振った。
「いえ、大丈夫です。最近領地であったことや、家族のことを知らせてくれているのです。幸いにも、体調を崩した者はいないということでした」
「それは僥倖でした」
ふくふくとした柔和な頬を緩めて、修道院長は鷹揚な仕草で頷く。
そして、ジョエルに背を向けるため一歩踏み出した。
「もうそろそろ、午後の礼拝の時間ですよ。準備をして来てくださいね」
「はい、修道院長」
ジョエルは素直に頷く。
そして、手にしていた紙を丁寧に折り畳んで、修道服のポケットに仕舞った。
「ヒューゴ・デッカーが脱獄──か。時期が早い」
子供の略取誘拐容疑で逮捕された犯罪者、ヒューゴ・デッカー。
彼が脱獄し逃げた先は、ハートフォード公爵領とウィルキンソン伯爵領の間に広がる荒野だ。
確かに、それは何度も繰り返された事件だった。
だが、今回は明らかに、時期が早かった。
ハートフォード公爵家の末っ子オスニエルが理由なのか、それともそれ以外に原因があるのか。
「カロライナ夫人に、連絡を取らなくては」
ジョエルの呟きを聞く者は、誰もいなかった。




