2. ブレニアム・ハウス 1
ハートフォード公爵家のカントリーハウスは、ブレニアム・ハウスと呼ばれているらしい。
家と呼ぶには、あまりにも豪奢で贅沢な宮殿さながらの造りだが、地元の人々にはブレニアム・ハウスで定着していた。
「ふわあ……」
エントランスに入ったエルは目を真ん丸にして、周囲を見渡した。
大理石を基調にしたエントランス・ホールはとても広く、いくらでもダンスを踊れてしまいそうだ。
天井は遥か高く、二階部分の壁にくり抜かれた台座には、古代の神話に出て来る人物を模した石膏が飾られている。
壁には著名な画家の大きな油絵が飾られ、地面には東方から輸入した大きな絨毯が敷かれていた。
「あるま、すごいねえ」
「──本当に、いつ見ても立派なお屋敷ですわ」
アルマもまた、感に堪えないと言った様子で同意する。
普段のアルマは落ち着いていて、エルを優しく窘めたりするのだが、今回ばかりはエルと共に屋敷の雰囲気に圧倒された様子だった。
それでも、エルは違和感を覚える。
可愛らしく小首を傾げ、エルはアルマを見上げた。
「あるま、きたこと、あるの?」
「ええ、旦那様に雇っていただいた時に、見習いとして数年ほど働いておりました。下働きでしたので、ご家族がお過ごしになる場所に伺ったことはありませんでしたよ」
「ふうん」
普段であれば、アルマもエルの年齢を考えて詳しく説明しない。だが、この時のアルマは珍しく、過去の記憶に一瞬飲まれかけていたようだった。
はっとして、アルマは優しい笑みを浮かべる。
そして、ことさら声を柔らかくして、彼女は言った。
「散策は後にして、今はお部屋に行きましょう」
「あい」
エルはアルマの手をきゅっと握った。周囲に気を取られながらも、エルはしっかりと足を進める。
豪奢な、しかし歴史ある内装はどこまでも続いていた。
長い廊下と幾つかの部屋を抜け、二人はエルの為に用意された部屋へ辿り着く。
そこは、アイボリーホワイトの壁と天井、床が可愛らしい部屋だった。
黄色と茶色、緑で彩られたカーテンが印象的だ。爽やかな春の印象である。
家具も品の良い色で統一されていた。
派手な色合いではないが、エルは一目で気に入った。
「しゅてきにゃの! ねえ、あるま、しゅてきねえ」
興奮してエルは言葉を噛む。
だが、アルマは難なくエルの言いたいことを察して、「本当に」と頷いた。
彼女の目は鋭く室内を見渡し、小さな主が不便や不快を感じるところはないかと確認する。そのようなところは一つとして見当たらず、アルマは内心で安堵した。
「エルお坊ちゃまがお好みのお部屋ですね。本当に良かったです」
念のため、前もってエルの好みは伝えておいた。
だが、貴族の家庭では親の意向が強く反映され、子供の好みは無視されるものだ。庶民の家でも大半は同じだが、親の権力という意味では貴族の方が強い。
もっとも、エルのことを大好きな公爵夫人ソフィアを思えば心配は少なかったが──使用人の中には、主人の気持ちを勝手に忖度して、主人の明確な命令とは違うことを仕出かす者も居る。
この屋敷に、そんな傲慢な考えを持つ者はいないようだと、アルマはひとり満足の笑みを浮かべた。
「えほん? えほん、ある?」
エルははたと思い付いた様子で、慌ててアルマに問いかけた。
アルマは優しく頷く。
「もちろん、ございますよ。エルお坊ちゃまがこれまでお読みになったことのないものも、ちゃんと用意してございます」
「あたらしいの!?」
一際、エルの顔が輝いた。
エルが長らく暮らしていた屋敷にもたくさんの絵本がある。
ただ、今回エルがブレニアム・ハウスに来ると決まった時、ソフィアが張り切ったのだ。
アルマやグレンたち側付きから、エルがことさら絵本が好きだとは聞いていたから、それならばと古今東西可能な限りの絵本を集めたのだという。
集めすぎてエルの部屋に入り切らず、余ったものは新たに用意したエル専用の図書室に納めたというのだから、かなりのものだ。
その上、その図書室にはまだ余裕がある。エルが成長すれば、年齢に従って新しい書物が増えるに違いない。
エルは、カートン卿と創作ダンスをるんるんと踊る。
全身を使ってエルが喜びを表現しているその時、扉が叩かれた。
「エルくん、いる?」
声は長女ロレッタのものだ。エルは、ぴくりと反応した。
「ろーりーねえさま?」
「居るわ!」
はしゃいだような声と共に、扉が開く。
部屋に入って来たのは、ロレッタとセラフィーナだった。
ロレッタの斜め後ろで、セラフィーナはおずおずと控えめな、しかし嬉しそうな表情を浮かべている。
「せふぃねえさま!」
エルはにこにこと、二人の姉を歓迎した。
ロレッタは顔を両手で覆って天を仰ぐ。
「──とっ……ても可愛いわ……」
感謝の言葉をもごもごと呟くが、エルには聞こえない。
セラフィーナとアルマはきっちり聞き取っていたが、二人ともいつものことだと気に留めなかった。
「エルくん、どう? お部屋は気に入った?」
一人で悶えているロレッタをそのままに、セラフィーナが一歩エルに近付く。
その場にしゃがんで尋ねたセラフィーナに、エルはきりっとした表情を使って生真面目に頷いた。
「あい。いっぱいえほんがあるの、良いことでしゅ」
絵本をたくさん読むと、大人になってから頭が良くなるのだという。
アルマやグレンの言葉を、エルはそう理解していた。
実際にエルは頭が良いから、読んだ絵本を全て理解し吸収している。時には心に浮かんだ疑問をアルマやグレン、カートン卿に質問するものだから、小さなエルの頭には絵本以上の知識が詰まっていた。
その才能は、神の病に罹り回復した子に捧げられる二つ名──「神の子」に相応しい。
「お気に入りの絵本が見つかると良いわね。他に、何かしたいことはある?」
優しくセラフィーナは質問する。
久々に──といっても朝食は一緒に摂ったから、一日も経っていないが──久々に会ったエルの可愛らしさに見悶えていたロレッタも、ようやく立ち直った。セラフィーナの横に何食わぬ顔で立ち、にやけそうな微笑ましそうな表情で、エルを見つめている。
ロレッタとセラフィーナ、アルマの視線を一身に浴びながら、エルはぎゅっとカートン卿を抱きしめ、小さく首を傾げた。
「したいこと?」
「そうよ。せっかくブレニアム・ハウスに来られたんだから、エルくんがしたいことは何でもしましょう、という話になったの」
エルの質問に答えたのはロレッタだ。
微笑む姉二人の視線を受けて、エルはむむっと唇を尖らせた。
一生懸命考える。
ピクニックは、エルが一番したいことだ。
でも、兄フェリクスがお勉強を終わって戻って来た時のためにスイーツも作りたいし、絵本も読みたい。
ロレッタとセラフィーナが一緒に居てくれるようだから、お出かけもしたい。
お散歩はもちろん、冒険だってしてみたいのだ。
エルにとっては、都でフェリクスと一緒にした冒険がとても良い思い出だった。
フェリクスは両親と兄ライオネルから叱られたのだが、エルは少しお小言を食らっただけで、本人はほとんど気にしていない。
生まれた時から使用人に囲まれて育ち、体が弱かった故に多少、甘やかされて育ったエルは、自由奔放だった。
生まれ持った性格も、少し豪胆なところがある。
ロレッタとセラフィーナに尋ねられて少し考えていたエルだったが、それほど長くは悩まなかった。
それほどまでに、エルの気持ちはそれに囚われていたのだ。
「ぴくにっく!」
「ピクニック?」
ロレッタとセラフィーナが、全く同じ表情できょとんと首を傾げた。
「える、ぴくにっく、いきたいの」
先に反応したのは、ロレッタだった。
「ピクニックね! ブレニアム・ハウスのお庭も素敵だし、少し離れたところには野原もあるから、そこに行っても良いわね」
楽しげに笑って、ロレッタは妹を振り返る。セラフィーナもまた、頬を綻ばせて頷いた。
「昔、私もお姉さまたちと一緒に、ピクニックに行ったわ」
「あの時は面白かったわねえ! 普段は大人しいセフィが、急に走ってどこかへ行っちゃうものだから、びっくりしたわ」
「ごめんなさい。あの時は、私も小さかったのよ」
ロレッタに揶揄われて、セラフィーナは恥ずかしそうに視線を外す。
エルは目を瞬かせ、セラフィーナを見上げた。
「せふぃねえさま? はしって、いっちゃったの?」
『ほう』
大人しいセラフィーナが走り出して、家族を置いてけぼりにする。
その過去が予想外だったのか、黙って聞いていたカートン卿も一瞬、声を出した。
エルはちらりとカートン卿を見る。だが、すぐにエルはロレッタに顔を向けた。
「そうよ。この子も、意外とおてんばなんだから」
声を潜めて、ロレッタが秘密を打ち明けるように言う。
セラフィーナは恥ずかしがって、軽くロレッタの背中を叩いた。
「もう! お姉さま、エルくんに変なことを吹き込むのはやめてちょうだい」
「分かったわよ、ごめんってば」
ロレッタは妹の遠慮ない態度が嬉しいのか、口先では謝りながら嬉しそうだ。
セラフィーナは視線をエルに戻して、優しく言った。
「野原はとても素敵なのよ。森があるのだけれど、その近くには小川もあるの。はしたないからしてはいけないのだけれど、靴を脱いで小川に足を浸すと、とても気持ち良いのよ」
「おがわ」
ふむ、とエルは考える。
小川は、エルの住んでいた屋敷の近くにもあった。ただ、エルは体が弱かったから、小川に近付いては駄目だとアルマやグレンが許してくれなかったのだ。
「おがわ、あそべる?」
自由奔放で豪胆で、多少ならばアルマやグレンの言いつけも無視することがある。
それでも、エルは基本的には良い子だった。
アルマやグレンが小川で遊ぶなと言ったのは、エルが熱を出して寝込んだら心配だからだ。
それを良く理解しているエルは、アルマを見上げて問うた。
最近のエルはとても元気一杯で、寝込むこともほとんどない。
だから、もうそろそろ遊んでも良いのではないかと思ったのだ。
エルの視線を辿って、ロレッタとセラフィーナもアルマを見上げる。
それまでずっと三人の会話を聞いていたアルマは、「そうですねえ」と慎重に答えた。
「お医者様に確認してみませんと、分かりませんね。温かい日であれば大丈夫だと思いますが」
「うん! おいしゃさまに、きくの」
可能性が見えたことに、エルは頬をピンクに染めてぴょこんと飛び跳ねる。ただし、その小さな両足は床から浮いていない。それでも、こういうことは気持ちが大切だ。
ロレッタとセラフィーナは顔を見合わせた。
「お医者様──ねえ、ローリーお姉さま。テオフィル先生がいらっしゃるのは、次はいつかしら?」
「そうねえ。デニスに訊いてみないと、分からないわね」
「──そう」
テオフィルというのが、ハートフォード公爵家の専属侍医だ。
ロレッタやセラフィーナが小さい時から世話になっている。
「う?」
エルは、はて、と首を傾げた。
それに気が付いたロレッタが、お姉さん風を吹かせて、エルに教えてくれる。
「テオフィル先生はね、お医者さまなの。海外で難しい勉強をされて、この国に来たのよ。とても優秀な方なんだから」
「おいしゃさま……」
会話の流れから把握していたが、エルはその言葉を繰り返す。
「そうよ、お医者さまなのよ。テオフィル先生が来たら、エルくんも小川で遊んで良いか、訊いてみましょうね」
ロレッタがそういえば、アルマも頷く。
だが、エルは違和感を覚えていた。
『エル坊? どうした』
すぐに気が付いたカートン卿が、エルに尋ねる。
エルは、賢明にも口には出さない。だが、物心ついた時からずっと一緒に居るカートン卿には、エルは隠し事はしなかった。
(せふぃねえさま)
セラフィーナは、普段と変わらず微笑んでいる。
だが、エルは敏感に、その表情の変化に気が付いていた。
(せふぃねえさま、おいしゃさまのこと、きらいなのかな?)
テオフィル先生──その名前が出た時に、一瞬セラフィーナの表情が強張った。
それを目撃したのは、どうやらエルだけのようだった。




