1. 領地へのたびだち 2
都からハートフォード公爵領までは、一週間程度かかる。
父ヒューバードや母ソフィアは、途中でエルがぐずるのではないかと心配していたが、全くその気配はなかった。
エルが退屈しても、ロレッタやセラフィーナが必ずエルに構いたがる。
家族がエルの相手をできない時でも、アルマが側にいる。
もっとも、家族がそれほどエルを心配しても、エルにはカートン卿がいるのだ。
むしろ、領地までの道中は周囲の人々に構われすぎて、エルはカートン卿とお話しできなかった。それが、エルには少しばかり不満だ。
『エル坊、そうむくれるな。もう領地についたんだから、これからはお話しし放題だぞ』
(うん。でも、える、かーとんきょーと、いっぱいおはなし、したかったの……)
しょんぼりとして、エルは抱きしめたカートン卿の頭に顔を埋める。
今は、近くに家族は居ない。
少し急ぐ用事ができたからとかで、母ソフィアは父ヒューバートと共に、一足先に屋敷へ向かった。
エルやロレッタ、セラフィーナたちは、本来の予定通りゆっくりとした旅だ。
だから、今のエルの隣にはアルマが居る。
カートン卿はエルにもふもふとされながら、『まあまあ』とエルを宥めた。
『俺は、今日の夜、ベッドの中で、エル坊と旅の話をするのを楽しみにしていたんだがな?』
途端に現金なもので、エルの機嫌が直る。エルは目を輝かせて、ぴょこぴょこと跳ねた──気持ちだけだったが。
幼いエルの体は、馬車のふわふわの椅子の上で、ふわんと揺れた。
「エルお坊ちゃま、危ないですから、気を付けてくださいね」
「うん」
アルマに言われて、エルは素直に頷く。だが、どことなく上の空である。
心はもう、今夜のことでいっぱいだ。
エルは心の中で忙しなく、カートン卿に話しかけた。
(あのね、えるね、かーとんきょーにね、ききたかったの)
『ああ、もちろんだ。ちゃんと夜まで覚えておくんだぞ』
(うん! える、わすれないもの。きのうのね、おひるに、せふぃねえさまが)
既に興奮しているエルは、カートン卿の言葉に元気よく返事をしながら、全く聞いていない。
カートン卿はやれやれと内心で肩を竦めた。
もちろん、カートン卿はクマのぬいぐるみなので、竦められる肩はない。気分だけだ。
だが、その気分が大事なのだと、カートン卿は知っていた。
「あら、もう着きますよ」
必死にカートン卿に説明をしようとしていたエルだったが、アルマの声で現実に引き戻される。
エルがアルマの方に顔を向けると、忠実な乳母はにっこりと笑って窓の外を指差した。
「エルお坊ちゃま、ご覧になれますか?」
きょとんとして、エルは少し身を乗り出した。アルマがエルの体を支えてくれる。
カートン卿と一緒に眺めた外は、エルがこれまでに見て来たどの世界とも違った。
「わあ……!」
エルは頬を薔薇色に染めて、歓声を上げる。
そこは、一面の大草原だった。
長らくエルが暮らしていた屋敷も近くに原っぱはあったが、今見ている景色ほどは広くない。
大草原の向こうには、深淵な森が広がっている。
鮮やかな緑色が少しずつ濃くなって、青空に広がる森へと繋がっていた。
ツツジやラベンダーの花が咲き誇り、目にも鮮やかだ。
曇りが多いスペロ王国の中で、ハートフォード公爵領は晴天が多い。
「きれい!」
もっと幼いころは体が弱くてなかなか外に出られなかったエルも、ここ数年は年相応に動き回れるようになった。
体も軽くなった今、エルはお散歩も大好きだし、走るのも好きだ。
だから、目の前に広がる景色を眺めれば、一層体がうずうずした。
「あるま、あそぶ?」
「そうですねえ。あまり遠くには行けないかもしれませんが、旦那様と奥様にお許しをもらって、ピクニックをしても宜しいかもしれませんね」
アルマはにこやかに答える。
エルは目をぱちくりとさせる。
「ぴくにっく?」
これまで、エルはピクニックなるものをしたことがない。
だが、当然その存在は知っている。
絵本の中で、ウサギの家族が楽しくピクニックをしているシーンがあった。
ハリネズミさんの絵本の次にはまった、今一番お気に入りの絵本だ。
これまで一度もピクニックを体験したことはないが、その絵本を見る限り、ピクニックはとても楽しそうだと思ったものだ。
広い原っぱに、可愛らしい花柄の布を敷く。
色とりどりの花が咲く原っぱの中でも、布はいっそう華やかに見える。
そこに、籐籠いっぱいのサンドウィッチやスコーン、焼き菓子を置いて、裸足になるのだ。
敷き布の上で寝転がって、みんなで楽しくお話をする。
時々ゲームをしたり、それに飽きたら近くを走り回ったり、花を摘んで冠を作ったり、飽きることはない。
地平線の向こうに沈む大きな太陽を眺めて、涼しい風にふるりと震えたら、温かな毛糸のカーディガンに包まれるのだ。
「える、ぴくにっく、やりたい!」
エルは、期待に胸を膨らませてアルマの顔を覗き込んだ。
興奮して爛々と輝くエルの顔を見て、アルマは相好を崩す。
「旦那様と奥様と、それからお姉様方もお誘いしましょうね。気候も宜しいですから、きっと気持ちが良いですよ」
「うん!」
絵本の中では、どこまでも続く地平線の向こうに沈んでいく太陽が、とても大きかった。
これまでもエルは夕日を見たことはあるが、絵本と比べるととても小さい。
絵本の太陽は、画面いっぱいに広がっていて、ウサギのレディが小さな砂粒のように見えるほどだった。
エルは飽きることなく、そのページに魅入ったものだ。今でも、エルの好きな場面である。
ピクニックの時にだけ見れる、一等大きな太陽だと、エルは信じていた。
『──エル坊、多分だが、ウサギのレディが見た太陽ほどは、大きく見えないと思うぞ』
(う?)
エルの喜びようから、薄々察したカートン卿が口を挟む。
だが、エルはきょとんと首を傾げた。
(おおきさ、ちがうの?)
『ああ、あの大きさの太陽は、砂漠だとか大海原だとか──といっても難しいか。開けた場所でなら見られるが、スペロ王国だと時期を選んでも難しいだろうな』
(おひさま、ひとつだよ?)
『いや、まあ、うん。そうだな。確かに、太陽は一つなんだが──』
どう説明したものかと、カートン卿は頭を抱える。
普通の子供なら、カートン卿の説明をよく理解しないまま納得したかもしれない。
だが、相手はエルだった。大人ほどではないが、同年代の子供と比べるととても聡明だ。
その証拠に、エルは随分と前にカートン卿が教えた、太陽と月は一つしかない、という説明をしっかりと覚えていた。
そして、物として太陽は一つなのだから、大きさも変わらないだろうと当然のように理解している。
エルの聡明さが、今は裏目に出ていた。
ここは太陽と地球の公転、自転の話からしなければならないだろうかと、カートン卿は内心で己の迂闊さを呪った。
その時、馬車の速度が落ちる。
エルとカートン卿の会話を知らないアルマが、「エルお坊ちゃま」と声をかけた。
カートン卿にとっては天の助けだ。
「あと少しで、お屋敷に到着しますからね。降りる準備をしましょう」
「あい」
きりっとした表情で、エルは答える。
抱えていたカートン卿を一旦小脇に置き、アルマの手を借りて上着を羽織った。
初夏とはいえ、風が吹くと少し肌寒い。
エルは全く寒いと思わないし、むしろ上着で暑くなるくらいなのだが、アルマは心配性だった。
未だに、アルマやグレンといった周囲の人たちは、弱々しく寝込んでいたエルの姿を忘れられないらしい。
大人しくエルはカーディガンに包まって、改めてカートン卿を膝に抱えた。
むぎゅう、と抱き着く。
都の屋敷で最後に洗われたカートン卿は花の香りに包まれていたが、旅路の途中であっという間に消えた。今は、エルに馴染んだ、エルと同じ匂いだ。
少し、ミルクのような香りもする。
大人しくしていると、馬車が走る道はやがて砂利道になった。
門を入って木々に囲まれた道を進み、大きく迂回して噴水と湖を回る。
そのまましばらく進んでゆっくりと止まった。
エルは興味津々で、窓の外を眺める。
アルマが扉を開けると、外は少し騒がしかった。
エルも見たことのない使用人たちが、慌ただしく馬車から荷物を降ろしている。
セラフィーナとロレッタが乗っている馬車は、エルよりも先に到着していたようだ。
「エルお坊ちゃま、足元に気を付けてくださいね」
そう言いながら、アルマがエルに手を貸してくれる。
馬車の階段は、エルにとってはずいぶんと高い。それでも、大きくなったエルは自分で降りたかった。
実際はエルの体はアルマに支えられ、ほとんど抱えられているような状態なのだが、エルは階段に足がついていることで満足だ。
階段を降り切って、エルは自慢げにアルマを見上げる。
「さすが、エルお坊ちゃまですね」
アルマはにこやかにエルを誉めた。
その姿を眺めていた使用人たちも微笑ましそうだが、エルは気が付いていない。
エルはきょろきょろと周囲を見回した。
そして、もう一度アルマを見上げる。
「える、おへやいく?」
「そうですね。一度、お部屋に行きましょう。お着換えをしたら、アルマがお茶をいただいて参りますよ」
なかなか良い案だと、エルは真面目腐った表情で頷いた。
アルマと手を繋いで、エルは歩き出す。
エルの目の前に聳える屋敷は、とても広大で、まるでお城のようだった。
都で見た、王妃様が居ると噂の宮殿と同じか、もしかしたらそれ以上の荘厳さだ。
もう大人だから、エルは思い切りはしゃいだりはしない。
それでも、エルの心はそわそわとしていて、足取りは心なしか、ぴょこぴょこと跳ねていた。
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その頃、エルの父ヒューバードは屋敷の執務室で難しい表情を浮かべていた。
目の前には、固い表情の巡査がいた。ハートフォード公爵家の領地を担当する警察だ。
彼はこの土地の農家に生まれた。このような豪勢な館に足を踏み入れるのは初めてだ。
普段はブレニアム・ハウスと呼んで親しんでいる屋敷だが、遠目に見るのと中に入るのでは随分と違う。
「これは問題だ。監獄の警備体制を強化する必要がある」
ヒューバードの発言に、巡査は内心びくりとした。犯罪者ならばいざ知らず、対峙しているのは天下のハートフォード公爵だ。巡査にしてみれば、国王と同じようなものである。
だが、これでも警察の意地がある。
腹に力を込めて、どうにか重々しく頷いてみせた。
「それはもちろん、おっしゃる通りですな。しかし、同時に逃亡した奴も捕えねばなりません。
怪我をしておりますから、そう遠くにはいけない筈ですが、奴は狡猾な男です。なにを仕出かして我々の目を欺くとも限らない。
そこで、公爵閣下のお力添えをいただきたいのです」
「当たり前だ」
それは警察の仕事だろうと、あっさり突き放されるに違いない。
巡査はてっきりそう思っていた。
だが、ヒューバードは即答する。
思わず巡査は目を剥いた。
「なんですと?」
「聞こえなかったか? 協力すると言ったんだ。うちの私兵を貸し出そう、優秀な奴らばかりだ」
何のことはなしにヒューバードは請け合い、手を伸ばした。
執務机の背後にある棚から新しい紙を手に取り、さらさらと文言を認める。
「これを、君のところの上司へ。これで文句は言われまい」
咄嗟に巡査は紙を受け取る。そこには、ハートフォード公爵家が逃亡した犯罪者の捜索に力を貸すこと、それは無償であることが書かれていた。
当然のように、公爵直筆の署名入りだ。
先ほどまでの決意はどこはやら、唖然とする巡査に、ヒューバードはにやりと笑いかけた。
「子供専門の誘拐犯など、断じて許せん。さっさと神の裁きにかけて然るべきだ」
静かな声音の裏には、隠しきれない怒りが滲んでいる。
その気迫に飲まれて、巡査は慇懃無礼な礼をした後、さっさと屋敷を後にした。
一人部屋に残ったヒューバードの元に、気遣わしげな顔をしたソファアがやって来た。
「あなた、どうでした?」
ヒューバードは頬を緩めると、腕を広げて妻を抱きしめる。そして、優しく囁いた。
「大丈夫だ、心配することはない。私たちの子供に魔の手が伸びる前に、悪を捕らえるよ」
「それなら良いのだけど……でも、セラフィーナが」
少し安堵した様子のソフィアは、それでも気掛かりだと次女の名を出す。
ソフィアを抱きしめるヒューバードの力が、ほんの少しばかり強まった。
「大丈夫だ。何一つとして、あの子の意識には触れさせない」
それは、父として子を守る親の、力強い決意だった。




