1. 領地へのたびだち 1
社交シーズンも終わると、人々は都から領地へ帰ることになる。
ハートフォード公爵家も、その例に洩れなかった。
例外は、都で警察長官としての仕事がある長兄ライオネルと、次男のフェリクスだ。
「ふぃるにいさま、いかないの?」
すっかり旅立ちの準備を終えたエルは、上目遣いにフェリクスをじっと見る。
両手でぎゅっと、自分とほとんど同じ大きさのカートン卿を抱きしめていた。
大きくて丸い青の目が、うるうると潤んでいる。
「うっ……」
さすがのフェリクスも、これには言葉を失った。
きっとエルは「なんで?」と悲しむだろう。そう思って、フェリクスもロレッタもセラフィーナも──そして、両親とライオネルですら、フェリクスが領地に同行しないと言い出せなかった。
それほどまでに、エルは大好きな「ふぃるにいさま」と一緒に領地へ帰るのを楽しみにしていたのだ。
フェリクスも、エルと一緒に領地へ行きたかった。
これまでならフェリクスにとっては苦行でしかなかった実家も、エルがいるなら楽しいものになるに違いない。
だが、今回ばかりはそうできない理由があった。
「あのな……エル。俺は帰れないんだよ。短い間だけど、学校に行かなきゃいけないんだ」
「おうちから、いけないの?」
フェリクスは溜息を辛うじて堪え、困ったように頭に手をやる。
そして、どう説明すれば良いものやらと、内心で首を捻った。
「寄宿舎に泊まらないといけないんだよ」
「おうちじゃないの?」
寄宿舎、とはエルにとって耳馴染みのない単語である。
きょとんと首を傾げると、エルは正直に尋ねた。
だって、もしその『寄宿舎』とやらが『おうち』のことなら、エルと一緒に暮らせるし、遊ぶことだってできるはずなのだ。
だが、フェリクスは「違う」と首を振った。
「俺と同い年くらいの奴らが集団生活──って分かるか? 一緒に暮らすんだよ。朝から晩まで、一日中ずーっとな。それで、昼間は勉強、夜はきっちり祈りを捧げて眠って、朝は早起きするんだ。それで、また祈りを捧げて、そこから勉強」
じんわりと滲んだ涙を目に溜めたまま、エルはむむっと唇をへの字にひん曲げる。
なんだか、あんまり楽しくないように聞こえた。フェリクスも、乗り気でないように見える。
「──おかし、たべれないの?」
「あー、お菓子は、さすがにないだろうなあ……」
寄宿舎──とフェリクスは説明したが、正確には寄宿学校である。
数年間そこで暮らす者が最近は増えていると聞くが、フェリクスはほとんどの学習を家庭教師から学んだ。そのため、寄宿学校に入る必要はないのだが、色々と大人の事情が──主には世間体やら人間関係やら社交界のあれやこれやらが──絡んで、一年ほど行くことに決まったのだ。
これまでのフェリクスなら初っ端から拒否するところだったが、エルと出会ってからのフェリクスは変わったのである。両親も、今のフェリクスならと思ったようだった。
「おうちかえったら、おかし、たべれるの。いっしょ、かえる?」
「うん、いや、まあ、そうだな」
ロレッタとはあれほど丁々発止にやり合うフェリクスだが、エルの前ではたじたじである。
何となく、遠巻きにしているロレッタとセラフィーナが呆れている気配がして、フェリクスは内心で焦った。
このままエルに押されっぱなしだと、ハートフォード公爵家次男としての沽券に関わる。
だから、フェリクスはエルの前でしゃがみ込み、真剣な表情で声を潜めた。
「エル。俺はどうしても寄宿学校に行かなきゃならないんだ。父上と男の約束をしたからな」
「──おとこの、やくそく」
エルはぴく、と反応した。
フェリクスは内心で、しめしめと味を占める。これならば上手く、嘆く弟を説得できそうだ。
もちろん、エルがどれだけ泣こうが、気にせずフェリクスは寄宿学校へ行けば良い。だが、そうしたらエルに嫌われるかもしれない。小さな子供は意外と物覚えが良いと聞く。頭の良いエルなら、間違いなくあった出来事を覚えている。だから、もしかしたら次に会ったとき、エルは怒ってフェリクスを無視するかもしれない。
以前、酒場で会った男が話してくれた、彼の子供が小さかった時の出来事を思い出し、フェリクスは必死だった。
エルに無視されたら、フェリクスはしばらく立ち直れないだろう。
「そうだ。男の約束だ。でも安心しろ、一年ずっと寄宿舎に居るわけじゃない」
「ちがうの?」
きょとんとエルは首を傾げた。
一年も離れ離れ──なんて今生の別れだと思っていたが、どうやらフェリクスはずっと離れて暮らすわけではないようだった。
フェリクスは変わらず真剣な表情で頷く。
「そうだ。夏には休みがあるからな。その時には一回、領地に戻るし、そしたらもうあと半年、学校に行けば良いだけだ」
「おうち、くるの?」
「当然だ」
力強くフェリクスは答えた。そのことに、エルは少しほっとする。
そして、これまでずっと黙ってフェリクスとエルの会話を聞いていたカートン卿が、すかさずそこで口を挟んだ。
『エル坊、フェリクスが家に来るまでに、美味しいお菓子を新しく料理人に作って貰って、フェリクスを驚かせてやれば良いんじゃないか?』
エルは目を輝かせる。
それは、とても心躍る誘いだった。
(すてきなの!)
学校から家に戻って来たフェリクスが、エルの考えた美味しいお菓子を食べてびっくりする。
そして、きっとエルを誉めてくれるのだ。
カートン卿の提案は、とても魅力的だった。
「わかった!」
突然元気になったエルを前にして、フェリクスは目を瞬かせる。
驚いたし理由もわからないが、エルが納得してくれたのなら、それで文句はない。
「える、ふぃるにいさまに、ぷれぜんと、よういしてあげる!」
「俺に?」
予想外の提案だ。フェリクスは目を丸くして、すぐに破顔一笑した。
「それ、いいな。最高だ!」
「ん。ふぃるにいさま、たのしみ?」
「当たり前だろ。俺も、お土産持って帰るからな」
まだ何も準備していないのに、エルは今まさに褒められたと言わんばかりの表情で得意げだ。
あまりの可愛らしさに、フェリクスは少し乱暴にエルの頭を撫でて、ぎゅっと抱きしめた。
幼な子特有の、柔らかくミルクっぽい香りがフェリクスの鼻腔を満たす。
フェリクスに抱き締められたエルは、楽しそうにきゃっきゃと笑った。
頃合いを見計らっていたデニスが、フェリクスの背後からそっと口を挟む。
「フェリクスお坊ちゃま、そろそろお時間です」
もうお坊ちゃまではない──そう言いかけたフェリクスだが、エルの前だとすぐに思い出して口を噤んだ。
代わりに、彼はぶっきら棒に答える。
「わかってる」
そして、エルと視線を合わせるためにしゃがみ込んでいたフェリクスは、少し名残惜しそうに立ち上がった。
「それじゃあな、エル。気をつけて、ちゃんと父上と母上の言うことを聞くんだぞ」
「あい。またね、ふぃるにいさま」
最初はエルの方が悲しそうだったのに、今や立場は逆転していた。
少しつまらなさそうな表情のフェリクスとは違い、エルはフェリクスのためにどんなプレゼントを用意しようかと、ワクワクしている。
そのことに気がつき、フェリクスは苦笑した。エルと別れるのは心残りだが、時間が迫っているのも間違いない。
領地までは距離がある。時間通りに出発しなければ、道半ばで日が暮れるだろう。
護衛はついているが、やはり夜道は危ない。
街の中心部は街灯が設置されるようになっているが、街の外れに近づくにつれ数は減り、街と街を繋ぐ道はほとんど真っ暗闇だ。
しかし、エルに不安はない。
都に来るときはアルマとグレンだけだったが、今度は両親も、ロレッタもセラフィーナも一緒だ。
そう──これから、物心ついてから初めて、エルは家族が暮らす領地のマナーハウスを訪れるのだった。




