白い静寂
目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を白く照らしている。
いつもなら、その光と同時に一日が始まる。
今日は少し違った。
違和感はある。
けれど、それが何なのか分からない。
ベッドから体を起こし、ぼんやりと枕元へ手を伸ばす。
スマートフォンの画面には、七時ちょうどを示す数字。
アラームを止めようとして、指が止まった。
もう止まっている。
いや。
止めた記憶がない。
寝坊したのか。
そう思いながら画面を見る。
アラームは確かに作動していた記録になっていた。
それなのに、一度も目を覚まさなかった。
妙だ。
首を傾げながら洗面所へ向かう。
蛇口をひねる。
透明な水が流れ、手のひらを濡らす。
冷たい。
それだけだった。
鏡の中の自分と目が合う。
寝不足というほどではない。
ただ、世界が少しだけ遠く感じる。
リビングへ入る。
テレビの電源を入れた。
画面には朝の情報番組。
キャスターが笑顔で何かを話している。
天気予報。
今日の占い。
画面右上には最高気温三十二度。
しかし。
何も聞こえない。
音量表示を見る。
二十五。
いつも通りだ。
リモコンで最大まで上げる。
画面の数字だけが増えていく。
部屋は静かなままだった。
(……壊れたか)
テレビの前まで歩き、耳を近づける。
何もない。
画面の中ではアナウンサーが口を動かし、出演者が笑っている。
それだけだ。
相沢悠斗はテレビのコンセントを抜き差しした。
改善しない。
スマートフォンを開く。
動画サイト。
再生ボタンを押す。
画面だけが動き始める。
音はない。
イヤホンを挿す。
変わらない。
耳がおかしいのか。
試しに耳を指で塞ぎ、離してみる。
感覚はある。
聞こえないだけだ。
急に不安になり、窓を開けた。
朝の光が流れ込む。
向かいの道路では車が走っている。
犬を散歩させる老人。
通学する学生。
いつもと変わらない景色。
それなのに。
世界はまるで一枚の映像だった。
風で木の枝が揺れている。
洗濯物が揺れる。
犬は口を開いている。
子どもが何か叫んでいる。
全部、無音だった。
胸の奥が冷たくなる。
耳鼻科。
いや、その前にニュースだ。
スマートフォンで通信社の記事を開く。
見出しを見た瞬間、息が止まった。
『世界各地で原因不明の無音現象』
記事には動画が添付されていた。
海外の街。
人々が口々に何かを訴えている。
警察官が交通整理をしている。
消防車が走っていく。
映像だけが流れる。
音はない。
コメント欄には混乱した文章が並んでいた。
『みんな聞こえない?』
『テレビが壊れたと思った』
『耳じゃない。世界がおかしい』
『飛行機が飛んでるのに何も聞こえない』
『病気じゃない』
『全員同じ』
悠斗は画面を閉じた。
喉が渇く。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。
キャップを回す。
水を飲む。
冷たい。
それだけが現実だった。
出勤すると、会社中が落ち着きを失っていた。
誰もが口を動かしている。
会議室では何人も身振り手振りで話し合っている。
怒っている人。
笑っている人。
泣いている人。
誰一人、自分の声を聞けない。
それでも人は話そうとする。
聞こえないと分かっていても。
「声を出す」という習慣だけは、簡単には消えなかった。
昼頃には社内チャットに通知が届く。
『本日は業務を中止し、帰宅してください。』
理由は書かれていない。
誰もが知っていたからだ。
夕方。
街は異様なほど穏やかだった。
信号は動く。
電車は走る。
人も歩く。
世界は動いている。
ただ一つだけ。
「音」という存在だけが、最初からなかったかのように消えていた。
帰宅した悠斗は、ソファに身を沈めた。
ニュースでは、専門家らしき人物が必死に何かを説明している。
口だけが動いている。
画面下には文字だけが流れる。
原因不明。
世界同時発生。
現在調査中。
そのときだった。
キッチンで、マグカップがテーブルの端から滑り落ちた。
悠斗は反射的に振り向く。
床へ落ちる、その瞬間。
世界が――
真っ白になった。
天井も。
壁も。
床も。
自分の手も。
境界が消えた。
ただ、白。
白だけがあった。
時間にすれば、一瞬。
次の瞬間には元の部屋へ戻っていた。
マグカップは床に転がっている。
割れてはいない。
悠斗はしばらく動けなかった。
今のは何だった。
目をこすり、もう一度部屋を見渡す。
いつものリビング。
何も変わっていない。
けれど。
足元だけが、ひどく冷たかった。
裸足になって確認する。
床は乾いている。
それなのに。
足の裏には、水たまりへ踏み込んだような感触だけが残っていた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
悠斗は目覚めると、真っ先に足の裏を見た。
乾いている。
指先で触れてみても、水気はない。
昨日の感触は夢だったのかもしれない。
そう思いたかった。
洗面所へ向かい、蛇口をひねる。
透明な水が手のひらを流れる。
冷たい。
それだけだ。
鏡に映る自分の顔は、思ったより疲れていた。
眠ったはずなのに、身体の奥に疲労が沈殿している。
テレビでは今日もニュースキャスターが口を動かしている。
画面下の字幕だけが、世界の異常を伝えていた。
『無音現象、二日目。原因はいまだ不明。』
『世界中で同時に発生。』
『政府は冷静な行動を呼びかけています。』
どこの国も、答えは持っていなかった。
会社は休業になった。
外へ出る。
公園には親子連れがいた。
子どもは口を大きく開け、母親を振り返る。
笑っているのだろう。
母親も笑っている。
その光景だけが切り取られた映画のようだった。
ベンチに腰を下ろき、悠斗はぼんやりと人の流れを眺める。
その時だった。
近くを歩いていた男性がスマートフォンを落とした。
画面が地面へ向かう。
その瞬間。
世界が白に染まった。
視界のすべてが消える。
白。
ただ白。
昨日より長い。
一秒。
いや、二秒ほどだろうか。
その白の中で。
足先に、ひやりとしたものが触れた。
水だった。
くるぶしが浸かっている。
冷たい。
透明で、さらさらとした感触。
しかし流れはない。
湖に立っているような静かな水。
悠斗は思わず足を動かした。
波紋が広がった気がした。
いや。
波紋が見えたわけではない。
ただ、足から伝わる感触だけがそう告げていた。
次の瞬間。
世界は元に戻る。
スマートフォンは歩道に落ちている。
男性は拾い上げ、何事もなかったように歩き去った。
誰も周囲を見回していない。
誰も白い世界を見ていない。
悠斗だけだった。
帰宅途中。
コンビニへ立ち寄る。
レジには若い店員が立っていた。
会計を済ませる。
店員が袋を差し出す。
口が動く。
「ありがとうございました。」
たぶん、そう言った。
悠斗も軽く頭を下げる。
店を出ようとした、その時。
奥の棚で商品が傾いた。
一つ、また一つ。
缶詰が棚から落ちる。
その瞬間。
白。
今度は三秒。
悠斗は思わず息を止めた。
足元の水は、昨日より深い。
足首まで浸かっている。
冷たさは変わらない。
しかし妙だった。
水面が動いている。
誰も歩いていない。
風もない。
それでも。
何かが、水の中をゆっくりと横切った。
見えない。
ただ。
波だけが足に触れた。
世界が戻る。
缶詰を拾う店員。
客たちは商品を見ている。
誰一人として異変に気付いていない。
悠斗は店を飛び出した。
夜。
インターネットには様々な情報が飛び交っていた。
「宇宙線」
「電磁波」
「神の罰」
「集団幻覚」
どれも根拠がない。
悠斗は検索窓へ入力した。
『白い世界』
候補はほとんど出なかった。
いくつかの投稿があるだけ。
「一瞬だけ目の前が真っ白になる」
「疲れ目ですか?」
「病院へ行った方がいい」
違う。
そうじゃない。
あれは目の異常ではない。
世界そのものが白くなった。
悠斗は投稿しようとして、指を止めた。
どう書けばいい?
『音が出るはずの瞬間だけ世界が真っ白になります』
そんな文章を書いたところで、誰が信じる。
画面を閉じる。
部屋は静かだった。
いや。
静か、という表現すら正しくない。
静かとは、本来あるはずの音が小さい状態を指す。
この世界には、もう比較する音がない。
だから、この世界は「静か」なのではない。
音という概念だけが、切り取られてしまった世界。
その時。
リビングの時計が、午前零時を示した。
針が重なる。
白。
今までで一番長い。
悠斗は立ったまま、白い空間にいた。
膝まで水に浸かっている。
冷たい。
だが、それ以上に違和感があった。
水面に、自分の影が映っていない。
影だけではない。
自分の身体そのものが、白に溶けかけていた。
指先の輪郭が曖昧になる。
境界がぼやける。
まるで、自分までこの白い世界の一部になろうとしているようだった。
慌てて手を握る。
その瞬間、世界は元に戻る。
時計は零時を少し過ぎていた。
悠斗は息を整えながら、自分の手を見つめた。
異常はない。
だが、手のひらには確かな感覚だけが残っていた。
誰かに、手を握られたような冷たさが。
◇ ◇ ◇
三日目の朝だった。
悠斗は夢を見なかった。
正確には、見たのかもしれない。
目が覚めた瞬間、夢の内容だけがきれいに削り取られていた。
残っているのは感触だけ。
冷たい水の中に立っていた。
それだけだった。
スーパーは混雑していた。
無音にも、人は慣れ始めている。
必要な物を買い、列に並ぶ。
誰も口を開かない。
いや、開いてはいる。
ただ、声という意味を失ってしまっただけだ。
レジ係が商品を袋へ入れる。
その手元を眺めていた。
次の瞬間。
白。
もう驚かない。
膝まで浸かる水。
冷たい。
呼吸を整えながら足元を見る。
白しかない。
何もない。
だが、水の中だけが静かに揺れている。
まただ。
何かがいる。
姿は見えない。
ただ、水だけが避けていく。
まるで、自分の周囲をゆっくり歩いているように。
悠斗は目を閉じた。
開いていても意味がない。
白しかない。
その時だった。
世界が反転した。
白が消える。
光が消える。
何もかもが消える。
闇。
完全な闇だった。
目を開けているのか閉じているのかすら分からない。
悠斗は息を呑んだ。
いや。
呑んだ感覚だけがあった。
足元の水だけは、まだあった。
冷たい。
その感触だけが、自分が立っていることを教えてくれる。
暗闇は数秒で終わった。
気付けばレジの前だった。
店員は何事もなく袋を差し出している。
白い世界とは違う。
今のは。
もっと深い場所だった。
その日の午後。
悠斗は家にこもっていた。
白について調べても何も出ない。
黒について検索しても、当然何も出ない。
椅子へ腰掛け、天井を見上げる。
すると照明が一度だけ点滅した。
白。
今度は構えた。
だが。
白は来なかった。
いきなり闇だった。
完全な黒。
水は膝より少し高い。
昨日より深い。
冷たい。
しかし。
今日は違う。
水面が揺れている。
波ではない。
歩いている。
何かが。
一歩。
また一歩。
水の抵抗だけが足へ伝わる。
近付いてくる。
悠斗は身動きできなかった。
暗闇では、自分の身体すら見えない。
だから逃げることもできない。
そして。
右足首に。
何かが触れた。
細い。
冷たい。
指だった。
そう思った瞬間にはもう離れていた。
世界が戻る。
悠斗は床へ倒れ込んだ。
息が荒い。
額には汗が滲んでいた。
反射的に足首を触る。
濡れていない。
傷もない。
だが。
冷たさだけは消えなかった。
夜になった。
窓から外を見る。
信号は動いている。
人も歩いている。
世界は変わらない。
それなのに。
一人だけ。
交差点の中央で立ち尽くしている女性がいた。
こちらを見ている。
距離は百メートルほど。
表情は分からない。
悠斗が見つめ返すと。
女性がゆっくり口を開いた。
その瞬間。
闇。
今までで最も深い黒だった。
水位は腰まで。
冷たい。
重い。
まるで身体にまとわりつくようだった。
暗闇の向こうから。
何かが歩いてくる。
一人ではない。
二人。
三人。
いや。
もっといる。
水が揺れる。
足元を何かが通る。
肩に触れる。
背中に触れる。
首筋を撫でる。
どれも一瞬。
どれも冷たい。
どれも人の手のようで、
決して人ではない。
悠斗は目を閉じた。
意味はない。
それでも閉じた。
すると。
右耳のすぐ横に、
誰かが顔を寄せた気配がした。
息も感じない。
体温もない。
ただ、
そこにいる。
何かが。
そして。
肩に、
そっと、
手が置かれた。
世界が戻る。
窓の外を見る。
交差点には誰もいなかった。
さっきまで立っていた女性も。
通行人も。
車も。
何もない。
空っぽだった。
悠斗は時計を見た。
午後八時十分。
スマートフォンを見る。
午後八時二十七分。
二十七分。
黒い世界の中で、
現実の時間だけが進んでいた。
その夜、悠斗は初めて確信した。
白い世界は幻覚ではない。
黒い世界も夢ではない。
どちらも現実のどこかに存在している。
そして――
あちら側には、自分以外の"誰か"がいる。
◇ ◇ ◇
目が覚めた瞬間、悠斗は違和感に気づいた。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
ベッド。
机。
壁掛け時計。
どれも昨日と変わらない。
それなのに。
部屋が広く感じる。
家具が減ったわけではない。
ただ、何かが「足りない」。
その正体だけが思い出せなかった。
悠斗は首を振り、顔を洗う。
冷たい水が頬を伝う。
鏡に映る自分は、昨日より少し青白く見えた。
昼前。
食料を買うため外へ出る。
住宅街は妙に明るかった。
夏の日差しがアスファルトを照らし、木々の葉を白く輝かせている。
その光景は美しい。
美しすぎる。
歩いても、人とほとんどすれ違わない。
休日でもない。
平日の昼間とはいえ、少なすぎる。
駅前へ出る。
いつもなら人で埋まる広場。
今日は数えるほどしかいない。
悠斗は立ち止まった。
違和感はそこではなかった。
誰も、周囲を気にしていない。
人が少ないことを、不思議に思っていない。
それが恐ろしかった。
コンビニに入る。
レジには昨日と同じ店員が立っていた。
いや。
違う。
顔は同じ。
制服も同じ。
けれど名札が違う。
昨日は「佐々木」。
今日は「高橋」。
悠斗は思わず名札を見つめた。
店員は微笑み、口を動かす。
その瞬間。
白。
もう何度目だろう。
今では驚くより先に身体が構える。
だが。
足元の感触に、息を呑んだ。
水は腰まで達していた。
冷たい。
しかし、以前のような軽さはない。
まとわりつく。
足を動かすたび、ゆっくり抵抗する。
水ではない。
薄く溶かした糊のような粘りだった。
悠斗はゆっくりと一歩踏み出す。
足が重い。
持ち上げるたび、液体が引き留める。
白い世界は静まり返っている。
だが、その静寂の中に、初めて"動くもの"を見た。
遠く。
白い地平線の向こう。
黒い点が一つ。
人影だった。
こちらを見ている。
輪郭だけの、真っ黒な影。
顔も、服も分からない。
ただ立っている。
こちらを。
見ている。
悠斗が息を止めた瞬間、世界は戻った。
レジの前。
店員は何事もなかったように袋を差し出していた。
悠斗は店を飛び出した。
その日の午後。
黒い世界は、突然訪れた。
信号待ちをしていた時だった。
向かいに立つ老人がゆっくり口を開く。
闇。
今までとは違う。
黒は濃くなっていた。
目を開いていても、自分の手さえ見えない。
液体は胸まで。
冷たい。
そして重い。
息を吸うたび、胸が締め付けられる。
何かが歩く。
一歩。
二歩。
今までより近い。
水が揺れる。
目の前で止まる。
悠斗は動けない。
逃げられない。
暗闇の中で。
ゆっくりと。
何かが胸に触れた。
掌だった。
細く、骨ばった指。
冷たい。
胸へ押し当てられる。
押される。
ゆっくり。
沈む。
液体が首元まで上がる。
呼吸が苦しい。
もう少しで口が沈む。
その瞬間。
光が戻った。
悠斗は歩道に膝をついていた。
通行人は横を通り過ぎる。
誰も助けない。
誰も見ていない。
シャツを見る。
乾いている。
しかし胸には、手形のような冷たさだけが残っていた。
夜。
悠斗はノートを開き、三日間の出来事を書き出した。
白い世界。
音が生まれる瞬間。
黒い世界。
誰かが口を開いた瞬間。
水位は毎日上がる。
水は少しずつ粘る。
黒い世界では何かが触れる。
白い世界では黒い影が近付いてくる。
そこまで書いて、手が止まった。
昨日まで書いていたページをめくる。
違和感。
ページ数がおかしい。
一枚抜けている。
破った覚えはない。
書き損じた記憶もない。
それだけではない。
文字が減っている。
昨日、「会社の同僚 三浦」と書いた行。
今は、
「会社の同僚 」
名前だけが消えていた。
空白。
インクが消えたのではない。
最初から書かれていなかったように。
悠斗は会社の連絡先を開く。
三浦の名前がない。
写真もない。
社員一覧にも存在しない。
記憶だけが残っている。
だが、誰もその人物を覚えていない。
スマートフォンを握る手が震えた。
これは、人が死ぬのとは違う。
最初から存在しなかったことにされている。
その夜。
眠ることができず、窓際に座っていた。
街灯だけが道路を照らしている。
人影はほとんどない。
ふと、道路の向こう側に、小さな男の子が立っているのが見えた。
白いシャツ。
裸足。
じっと悠斗を見上げている。
悠斗は窓を開けた。
男の子は何も言わない。
ゆっくりと口を開く。
闇。
液体は首まで満ちていた。
冷たい。
重い。
もう立っていることすら難しい。
その暗闇の中で。
男の子だけが見えた。
黒ではない。
白でもない。
輪郭だけがぼんやり光っている。
男の子はゆっくりと右手を上げた。
そして、自分の口元を指差す。
そのまま首を横に振る。
「喋るな」
そう伝えているようだった。
次の瞬間。
男の子は、液体の中へ静かに沈んだ。
手だけを残して。
そして、その手も見えなくなった。
世界が戻る。
窓の外には誰もいない。
悠斗はガラス越しに、自分の顔を見つめた。
その顔は昨日までの自分ではなかった。
輪郭が、少しだけ白く透けていた。
◇ ◇ ◇
朝。
目覚めた悠斗は、自分の部屋に違和感を覚えた。
写真立てが一つ、棚の上に置かれている。
木製の、小さな写真立て。
見覚えがない。
近づき、手に取る。
写真には、自分が写っていた。
笑っている。
その隣に誰かいる。
肩を組んでいる。
しかし、その人物だけが真っ白だった。
人の形だけが切り抜かれたように、そこだけ色がない。
悠斗は眉をひそめた。
写真を裏返す。
日付だけが書かれていた。
三年前。
それ以上は何もない。
誰と撮った写真なのか。
思い出せない。
外へ出る。
街はさらに静かになっていた。
車はある。
店も開いている。
信号も動いている。
だが、人がいない。
駅前広場に立っているのは十人ほど。
以前なら数百人はいた場所だ。
それなのに。
誰も少ないとは思っていない。
悠斗だけが世界から取り残されていた。
図書館へ向かった。
理由は自分でも分からない。
ただ、
「古い記録なら残っている」
そんな気がした。
郷土資料室。
古びた新聞をめくる。
十年前。
二十年前。
三十年前。
どの記事にも、小さな共通点があった。
ある日を境に、人名が消えている。
事件の記事。
卒業写真。
表彰式。
集合写真。
文章はそのままなのに、
人名だけが空白になっていた。
印刷ミスではない。
何十年分も。
すべて同じだった。
ページをめくる。
一枚の写真。
夏祭り。
提灯。
浴衣姿の人々。
その隅に、小さな男の子が写っている。
白いシャツ。
裸足。
昨夜見た子だった。
写真の説明には、
「参加者」
それしか書かれていない。
名前がない。
悠斗は息を呑んだ。
その瞬間。
白。
今までで最も長い。
もう地平線しかない。
液体は肩まで。
水ではなかった。
濃い。
重い。
足を持ち上げることすらできない。
ゆっくり。
ゆっくりと。
白い地平線の向こうから、
黒い影が歩いてくる。
一人。
二人。
三人。
十人。
数えられない。
みな同じ速度。
みなこちらを見ている。
足音は聞こえない。
だが。
液体だけが震えていた。
影は悠斗を取り囲んだ。
誰も触れない。
ただ見ている。
その輪の中へ、
一人だけ、
白いシャツの男の子が歩いてきた。
悠斗は目を見開く。
男の子だけは輪郭がある。
顔も見える。
十歳くらい。
やせている。
悲しそうな目をしていた。
男の子は口を開く。
当然、聞こえない。
しかし今回は違った。
男の子は喋る代わりに、
自分の胸へ手を当て、
そして悠斗の胸へ触れた。
冷たい。
その瞬間。
悠斗の頭へ、
記憶が流れ込んできた。
病院。
白い天井。
モニター。
泣いている女性。
笑う幼い男の子。
手を握る青年。
誰だ。
知らない。
いや。
知っている。
全員、
もう存在しない人たちだ。
映像は次々と流れる。
学校。
結婚式。
誕生日。
駅のホーム。
海。
夏祭り。
誰かの人生。
誰かの笑顔。
誰かの別れ。
すべて、
最後だけ白く塗りつぶされる。
男の子は首を横に振った。
そして、
人差し指を一本だけ立てる。
ゆっくりと、
悠斗の後ろを指差した。
振り向く。
そこには、
巨大な扉があった。
白でもない。
黒でもない。
光を吸い込む灰色の扉。
表面には、
無数の手形。
小さな手。
大人の手。
老人の手。
重なるように押し付けられている。
その中心に、
一本だけ細い隙間が開いていた。
隙間の向こうは、
完全な闇。
男の子は最後に、
ゆっくりと首を振る。
そして、
自分の口へ指を当てた。
「静かに。」
そう告げるように。
次の瞬間。
白い世界が崩れた。
図書館。
悠斗は床へ膝をついていた。
目の前の新聞は真っ白だった。
さっきまで文字があったはずなのに。
写真も。
記事も。
何も残っていない。
司書が近づいてくる。
口を開く。
その瞬間、悠斗は反射的に両耳を塞いだ。
聞こえない。
それでも。
男の子の仕草が頭から離れない。
喋るな。
聞くな。
その意味を、悠斗はまだ知らない。
だが本能だけが叫んでいた。
もし次に"あちら側"で何かを受け入れてしまえば、
自分も写真の中の白い人影になるのだと。
◇ ◇ ◇
夜だった。
街にはもう誰も歩いていなかった。
信号だけが規則正しく色を変え続ける。
駅前の大型モニターには、誰もいない避難所の映像が映っていた。
画面の中でも、人影は見当たらない。
悠斗は灰色の扉を探していた。
理由は分からない。
だが、あれを開かなければ終われない。
そんな確信だけがあった。
駅前広場へ足を踏み入れた瞬間だった。
世界が白く染まる。
もう戻ることはないと、直感した。
白い地平線。
液体は首まで満ちていた。
もう水ではない。
濃く、
重く、
冷たく、
身体をゆっくり沈めていく。
足元は見えない。
どこまで深いのかも分からない。
遠く。
灰色の扉だけが立っていた。
その前には、
白い少年。
もう笑ってはいない。
ただ静かに悠斗を待っていた。
少年は頷く。
「行け」
そう言っているようだった。
悠斗は液体をかき分ける。
一歩。
また一歩。
歩くたび、
液体の中で何かに触れる。
肩。
腕。
髪。
指先。
人だった。
沈んだ人々が、
液体の底から悠斗に触れていた。
引き止めるわけでもない。
助けるわけでもない。
ただ、
「まだここにいる」
それだけを伝えるように。
扉の前へ着く。
無数の手形。
どれも押し開こうとした跡だった。
悠斗は掌を重ねる。
冷たい。
扉は音もなく開いた。
中には、
何もなかった。
闇ではない。
白でもない。
ただ、
果てのない透明。
空気すら感じない空間。
そこへ一歩踏み出した瞬間。
世界が見えた。
生まれたばかりの赤ん坊。
笑う家族。
学校。
祭り。
卒業式。
結婚式。
誰かの最期。
誰かの涙。
誰かの祈り。
数え切れない人生が、
一つの光となって流れていく。
その光の中に、
細い糸のようなものが無数に伸びていた。
一本一本が、
一人の人間へ繋がっている。
その糸は震えていた。
いや。
震えていたのではない。
それこそが、
人間が「音」と呼んでいたものだった。
悠斗は理解する。
音は、
空気の振動ではない。
人と人が、
世界と世界が、
存在と存在が、
互いを認識するための糸。
人はその揺れを、
勝手に「音」と名付けていただけだった。
今、その糸が切れていく。
一人。
また一人。
糸が消えるたび、
その人の姿も、
記憶も、
存在も、
静かに世界から失われていく。
悠斗は少年を見る。
少年はゆっくり頷いた。
そして初めて、
声ではない何かが悠斗へ届く。
言葉ではない。
意味だけが伝わる。
「境界は閉じる。」
「もう誰も向こうへ届かない。」
「あなたが最後。」
悠斗は振り返る。
扉の向こう。
白い世界。
液体の中には、
数え切れない人々。
誰も苦しんでいない。
誰も叫んでいない。
ただ、
静かに眠っていた。
悠斗は扉を閉じた。
灰色の扉は、
二度と開かなかった。
目を開く。
朝だった。
自宅のベッド。
窓から夏の日差しが差し込んでいる。
世界は変わらない。
テレビをつける。
画面にはニュース。
キャスターが笑っている。
字幕だけが流れていた。
悠斗は窓を開ける。
子どもたちが走る。
犬が口を開く。
木々が揺れる。
何も聞こえない。
それでも。
もう恐ろしくはなかった。
世界は完成したのだ。
静寂だけを残して。
悠斗は机へ向かう。
一冊のノートを開く。
最後のページに、一行だけ書き残す。
「音が消えたのではない。」
少し考え、
その下へ続ける。
「私たちは、ずっと何かを聞かされていた。」
書き終えた瞬間、
文字はゆっくりと白く薄れ、
紙の中へ溶けていった。
悠斗はそれを見届ける。
そして、
誰もいない街へ歩き出す。
翌朝。
新聞は発行されなかった。
テレビも映らなかった。
電気は点く。
水も出る。
空は青い。
ただ、
人類という存在だけが、
最初からいなかったように、
世界は静かに夏を続けていた。
◇ ◇ ◇
真っ白な世界。
足元を満たす静かな液体。
一人の少年が立っている。
その隣へ、
一人の青年が並んだ。
二人は何も話さない。
話す必要がない。
遠くで、
また一本、
細い糸がほどけた。
少年は目を閉じる。
青年も目を閉じる。
そして世界は、
完全な静寂になった。




