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白い静寂

掲載日:2026/07/12

 目が覚めた。

 カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の床を白く照らしている。

 いつもなら、その光と同時に一日が始まる。


 今日は少し違った。

 違和感はある。

 けれど、それが何なのか分からない。

 ベッドから体を起こし、ぼんやりと枕元へ手を伸ばす。

 スマートフォンの画面には、七時ちょうどを示す数字。

 アラームを止めようとして、指が止まった。

 もう止まっている。

 いや。

 止めた記憶がない。

 寝坊したのか。

 そう思いながら画面を見る。

 アラームは確かに作動していた記録になっていた。

 それなのに、一度も目を覚まさなかった。


 妙だ。

 首を傾げながら洗面所へ向かう。

 蛇口をひねる。

 透明な水が流れ、手のひらを濡らす。

 冷たい。

 それだけだった。

 鏡の中の自分と目が合う。

 寝不足というほどではない。

 ただ、世界が少しだけ遠く感じる。

 リビングへ入る。

 テレビの電源を入れた。

 画面には朝の情報番組。

 キャスターが笑顔で何かを話している。

 天気予報。

 今日の占い。

 画面右上には最高気温三十二度。

 しかし。

 何も聞こえない。

 音量表示を見る。

 二十五。

 いつも通りだ。

 リモコンで最大まで上げる。

 画面の数字だけが増えていく。

 部屋は静かなままだった。

(……壊れたか)

 テレビの前まで歩き、耳を近づける。

 何もない。

 画面の中ではアナウンサーが口を動かし、出演者が笑っている。

 それだけだ。


 相沢悠斗はテレビのコンセントを抜き差しした。

 改善しない。

 スマートフォンを開く。

 動画サイト。

 再生ボタンを押す。

 画面だけが動き始める。

 音はない。

 イヤホンを挿す。

 変わらない。

 耳がおかしいのか。

 試しに耳を指で塞ぎ、離してみる。

 感覚はある。

 聞こえないだけだ。


 急に不安になり、窓を開けた。

 朝の光が流れ込む。

 向かいの道路では車が走っている。

 犬を散歩させる老人。

 通学する学生。

 いつもと変わらない景色。

 それなのに。

 世界はまるで一枚の映像だった。

 風で木の枝が揺れている。

 洗濯物が揺れる。

 犬は口を開いている。

 子どもが何か叫んでいる。

 全部、無音だった。


 胸の奥が冷たくなる。

 耳鼻科。

 いや、その前にニュースだ。

 スマートフォンで通信社の記事を開く。

 見出しを見た瞬間、息が止まった。

 『世界各地で原因不明の無音現象』

 記事には動画が添付されていた。

 海外の街。

 人々が口々に何かを訴えている。

 警察官が交通整理をしている。

 消防車が走っていく。

 映像だけが流れる。

 音はない。

 コメント欄には混乱した文章が並んでいた。

『みんな聞こえない?』

『テレビが壊れたと思った』

『耳じゃない。世界がおかしい』

『飛行機が飛んでるのに何も聞こえない』

『病気じゃない』

『全員同じ』

 悠斗は画面を閉じた。

 喉が渇く。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。

 キャップを回す。

 水を飲む。

 冷たい。

 それだけが現実だった。


 出勤すると、会社中が落ち着きを失っていた。

 誰もが口を動かしている。

 会議室では何人も身振り手振りで話し合っている。

 怒っている人。

 笑っている人。

 泣いている人。

 誰一人、自分の声を聞けない。

 それでも人は話そうとする。

 聞こえないと分かっていても。

 「声を出す」という習慣だけは、簡単には消えなかった。

 昼頃には社内チャットに通知が届く。

 『本日は業務を中止し、帰宅してください。』

 理由は書かれていない。

 誰もが知っていたからだ。


 夕方。

 街は異様なほど穏やかだった。

 信号は動く。

 電車は走る。

 人も歩く。

 世界は動いている。


 ただ一つだけ。

 「音」という存在だけが、最初からなかったかのように消えていた。


 帰宅した悠斗は、ソファに身を沈めた。

 ニュースでは、専門家らしき人物が必死に何かを説明している。

 口だけが動いている。

 画面下には文字だけが流れる。

 原因不明。

 世界同時発生。

 現在調査中。


 そのときだった。

 キッチンで、マグカップがテーブルの端から滑り落ちた。

 悠斗は反射的に振り向く。

 床へ落ちる、その瞬間。


 世界が――

 真っ白になった。

 天井も。

 壁も。

 床も。

 自分の手も。

 境界が消えた。

 ただ、白。

 白だけがあった。


 時間にすれば、一瞬。

 次の瞬間には元の部屋へ戻っていた。

 マグカップは床に転がっている。

 割れてはいない。

 悠斗はしばらく動けなかった。

 今のは何だった。

 目をこすり、もう一度部屋を見渡す。

 いつものリビング。

 何も変わっていない。

 けれど。

 足元だけが、ひどく冷たかった。

 裸足になって確認する。

 床は乾いている。

 それなのに。

 足の裏には、水たまりへ踏み込んだような感触だけが残っていた。


◇  ◇  ◇


 翌朝。

 悠斗は目覚めると、真っ先に足の裏を見た。

 乾いている。

 指先で触れてみても、水気はない。

 昨日の感触は夢だったのかもしれない。

 そう思いたかった。


 洗面所へ向かい、蛇口をひねる。

 透明な水が手のひらを流れる。

 冷たい。

 それだけだ。

 鏡に映る自分の顔は、思ったより疲れていた。

 眠ったはずなのに、身体の奥に疲労が沈殿している。

 テレビでは今日もニュースキャスターが口を動かしている。

 画面下の字幕だけが、世界の異常を伝えていた。

 『無音現象、二日目。原因はいまだ不明。』

 『世界中で同時に発生。』

 『政府は冷静な行動を呼びかけています。』

 どこの国も、答えは持っていなかった。


 会社は休業になった。

 外へ出る。

 公園には親子連れがいた。

 子どもは口を大きく開け、母親を振り返る。

 笑っているのだろう。

 母親も笑っている。

 その光景だけが切り取られた映画のようだった。

 ベンチに腰を下ろき、悠斗はぼんやりと人の流れを眺める。


 その時だった。

 近くを歩いていた男性がスマートフォンを落とした。

 画面が地面へ向かう。

 その瞬間。

 世界が白に染まった。

 視界のすべてが消える。

 白。

 ただ白。

 昨日より長い。

 一秒。

 いや、二秒ほどだろうか。

 その白の中で。

 足先に、ひやりとしたものが触れた。

 水だった。

 くるぶしが浸かっている。

 冷たい。

 透明で、さらさらとした感触。

 しかし流れはない。

 湖に立っているような静かな水。

 悠斗は思わず足を動かした。

 波紋が広がった気がした。

 いや。

 波紋が見えたわけではない。

 ただ、足から伝わる感触だけがそう告げていた。


 次の瞬間。

 世界は元に戻る。

 スマートフォンは歩道に落ちている。

 男性は拾い上げ、何事もなかったように歩き去った。

 誰も周囲を見回していない。

 誰も白い世界を見ていない。

 悠斗だけだった。


 帰宅途中。

 コンビニへ立ち寄る。

 レジには若い店員が立っていた。

 会計を済ませる。

 店員が袋を差し出す。

 口が動く。

 「ありがとうございました。」

 たぶん、そう言った。

 悠斗も軽く頭を下げる。


 店を出ようとした、その時。

 奥の棚で商品が傾いた。

 一つ、また一つ。

 缶詰が棚から落ちる。

 その瞬間。

 白。

 今度は三秒。

 悠斗は思わず息を止めた。

 足元の水は、昨日より深い。

 足首まで浸かっている。

 冷たさは変わらない。

 しかし妙だった。

 水面が動いている。

 誰も歩いていない。

 風もない。

 それでも。

 何かが、水の中をゆっくりと横切った。

 見えない。

 ただ。

 波だけが足に触れた。

 世界が戻る。

 缶詰を拾う店員。

 客たちは商品を見ている。

 誰一人として異変に気付いていない。

 悠斗は店を飛び出した。



 夜。

 インターネットには様々な情報が飛び交っていた。

 「宇宙線」

 「電磁波」

 「神の罰」

 「集団幻覚」

 どれも根拠がない。

 悠斗は検索窓へ入力した。

 『白い世界』

 候補はほとんど出なかった。

 いくつかの投稿があるだけ。

「一瞬だけ目の前が真っ白になる」

「疲れ目ですか?」

「病院へ行った方がいい」


 違う。

 そうじゃない。

 あれは目の異常ではない。

 世界そのものが白くなった。

 悠斗は投稿しようとして、指を止めた。

 どう書けばいい?

 『音が出るはずの瞬間だけ世界が真っ白になります』

 そんな文章を書いたところで、誰が信じる。

 画面を閉じる。

 部屋は静かだった。

 いや。

 静か、という表現すら正しくない。

 静かとは、本来あるはずの音が小さい状態を指す。

 この世界には、もう比較する音がない。

 だから、この世界は「静か」なのではない。

 音という概念だけが、切り取られてしまった世界。


 その時。

 リビングの時計が、午前零時を示した。

 針が重なる。

 白。

 今までで一番長い。

 悠斗は立ったまま、白い空間にいた。

 膝まで水に浸かっている。

 冷たい。

 だが、それ以上に違和感があった。

 水面に、自分の影が映っていない。

 影だけではない。

 自分の身体そのものが、白に溶けかけていた。

 指先の輪郭が曖昧になる。

 境界がぼやける。

 まるで、自分までこの白い世界の一部になろうとしているようだった。

 慌てて手を握る。

 その瞬間、世界は元に戻る。

 時計は零時を少し過ぎていた。

 悠斗は息を整えながら、自分の手を見つめた。

 異常はない。

 だが、手のひらには確かな感覚だけが残っていた。

 誰かに、手を握られたような冷たさが。


◇  ◇  ◇


 三日目の朝だった。

 悠斗は夢を見なかった。

 正確には、見たのかもしれない。

 目が覚めた瞬間、夢の内容だけがきれいに削り取られていた。

 残っているのは感触だけ。

 冷たい水の中に立っていた。

 それだけだった。


 スーパーは混雑していた。

 無音にも、人は慣れ始めている。

 必要な物を買い、列に並ぶ。

 誰も口を開かない。

 いや、開いてはいる。

 ただ、声という意味を失ってしまっただけだ。

 レジ係が商品を袋へ入れる。

 その手元を眺めていた。


 次の瞬間。

 白。

 もう驚かない。

 膝まで浸かる水。

 冷たい。

 呼吸を整えながら足元を見る。

 白しかない。

 何もない。

 だが、水の中だけが静かに揺れている。

 まただ。

 何かがいる。

 姿は見えない。

 ただ、水だけが避けていく。

 まるで、自分の周囲をゆっくり歩いているように。

 悠斗は目を閉じた。

 開いていても意味がない。

 白しかない。


 その時だった。

 世界が反転した。

 白が消える。

 光が消える。

 何もかもが消える。

 闇。

 完全な闇だった。

 目を開けているのか閉じているのかすら分からない。

 悠斗は息を呑んだ。

 いや。

 呑んだ感覚だけがあった。

 足元の水だけは、まだあった。

 冷たい。

 その感触だけが、自分が立っていることを教えてくれる。

 暗闇は数秒で終わった。

 気付けばレジの前だった。

 店員は何事もなく袋を差し出している。

 白い世界とは違う。

 今のは。

 もっと深い場所だった。


 その日の午後。

 悠斗は家にこもっていた。

 白について調べても何も出ない。

 黒について検索しても、当然何も出ない。

 椅子へ腰掛け、天井を見上げる。

 すると照明が一度だけ点滅した。

 白。

 今度は構えた。

 だが。

 白は来なかった。

 いきなり闇だった。

 完全な黒。

 水は膝より少し高い。

 昨日より深い。

 冷たい。

 しかし。

 今日は違う。

 水面が揺れている。

 波ではない。

 歩いている。

 何かが。

 一歩。

 また一歩。

 水の抵抗だけが足へ伝わる。

 近付いてくる。

 悠斗は身動きできなかった。

 暗闇では、自分の身体すら見えない。

 だから逃げることもできない。

 そして。

 右足首に。

 何かが触れた。

 細い。

 冷たい。

 指だった。


 そう思った瞬間にはもう離れていた。

 世界が戻る。

 悠斗は床へ倒れ込んだ。

 息が荒い。

 額には汗が滲んでいた。

 反射的に足首を触る。

 濡れていない。

 傷もない。

 だが。

 冷たさだけは消えなかった。


 夜になった。

 窓から外を見る。

 信号は動いている。

 人も歩いている。

 世界は変わらない。

 それなのに。

 一人だけ。

 交差点の中央で立ち尽くしている女性がいた。

 こちらを見ている。

 距離は百メートルほど。

 表情は分からない。

 悠斗が見つめ返すと。

 女性がゆっくり口を開いた。


 その瞬間。

 闇。

 今までで最も深い黒だった。

 水位は腰まで。

 冷たい。

 重い。

 まるで身体にまとわりつくようだった。

 暗闇の向こうから。

 何かが歩いてくる。

 一人ではない。

 二人。

 三人。

 いや。

 もっといる。

 水が揺れる。

 足元を何かが通る。

 肩に触れる。

 背中に触れる。

 首筋を撫でる。

 どれも一瞬。

 どれも冷たい。

 どれも人の手のようで、

 決して人ではない。


 悠斗は目を閉じた。

 意味はない。

 それでも閉じた。

 すると。

 右耳のすぐ横に、

 誰かが顔を寄せた気配がした。

 息も感じない。

 体温もない。

 ただ、

 そこにいる。

 何かが。

 そして。

 肩に、

 そっと、

 手が置かれた。

 世界が戻る。


 窓の外を見る。

 交差点には誰もいなかった。

 さっきまで立っていた女性も。

 通行人も。

 車も。

 何もない。

 空っぽだった。

 悠斗は時計を見た。

 午後八時十分。

 スマートフォンを見る。

 午後八時二十七分。

 二十七分。


 黒い世界の中で、

 現実の時間だけが進んでいた。

 その夜、悠斗は初めて確信した。

 白い世界は幻覚ではない。

 黒い世界も夢ではない。

 どちらも現実のどこかに存在している。

 そして――

 あちら側には、自分以外の"誰か"がいる。


◇  ◇  ◇


 目が覚めた瞬間、悠斗は違和感に気づいた。

 カーテンの隙間から差し込む朝日。

 ベッド。

 机。

 壁掛け時計。

 どれも昨日と変わらない。

 それなのに。

 部屋が広く感じる。

 家具が減ったわけではない。

 ただ、何かが「足りない」。

 その正体だけが思い出せなかった。

 悠斗は首を振り、顔を洗う。

 冷たい水が頬を伝う。

 鏡に映る自分は、昨日より少し青白く見えた。


 昼前。

 食料を買うため外へ出る。

 住宅街は妙に明るかった。

 夏の日差しがアスファルトを照らし、木々の葉を白く輝かせている。

 その光景は美しい。

 美しすぎる。

 歩いても、人とほとんどすれ違わない。

 休日でもない。

 平日の昼間とはいえ、少なすぎる。

 駅前へ出る。

 いつもなら人で埋まる広場。

 今日は数えるほどしかいない。

 悠斗は立ち止まった。

 違和感はそこではなかった。

 誰も、周囲を気にしていない。

 人が少ないことを、不思議に思っていない。

 それが恐ろしかった。


 コンビニに入る。

 レジには昨日と同じ店員が立っていた。

 いや。

 違う。

 顔は同じ。

 制服も同じ。

 けれど名札が違う。

 昨日は「佐々木」。

 今日は「高橋」。

 悠斗は思わず名札を見つめた。

 店員は微笑み、口を動かす。


 その瞬間。

 白。

 もう何度目だろう。

 今では驚くより先に身体が構える。

 だが。

 足元の感触に、息を呑んだ。

 水は腰まで達していた。

 冷たい。

 しかし、以前のような軽さはない。

 まとわりつく。

 足を動かすたび、ゆっくり抵抗する。

 水ではない。

 薄く溶かした糊のような粘りだった。

 悠斗はゆっくりと一歩踏み出す。

 足が重い。

 持ち上げるたび、液体が引き留める。

 白い世界は静まり返っている。


 だが、その静寂の中に、初めて"動くもの"を見た。

 遠く。

 白い地平線の向こう。

 黒い点が一つ。

 人影だった。

 こちらを見ている。

 輪郭だけの、真っ黒な影。

 顔も、服も分からない。

 ただ立っている。

 こちらを。

 見ている。

 悠斗が息を止めた瞬間、世界は戻った。

 レジの前。

 店員は何事もなかったように袋を差し出していた。

 悠斗は店を飛び出した。


 その日の午後。

 黒い世界は、突然訪れた。

 信号待ちをしていた時だった。

 向かいに立つ老人がゆっくり口を開く。

 闇。

 今までとは違う。

 黒は濃くなっていた。

 目を開いていても、自分の手さえ見えない。

 液体は胸まで。

 冷たい。

 そして重い。

 息を吸うたび、胸が締め付けられる。

 何かが歩く。

 一歩。

 二歩。

 今までより近い。

 水が揺れる。

 目の前で止まる。

 悠斗は動けない。

 逃げられない。

 暗闇の中で。

 ゆっくりと。

 何かが胸に触れた。

 掌だった。

 細く、骨ばった指。

 冷たい。

 胸へ押し当てられる。

 押される。

 ゆっくり。

 沈む。

 液体が首元まで上がる。

 呼吸が苦しい。

 もう少しで口が沈む。


 その瞬間。

 光が戻った。

 悠斗は歩道に膝をついていた。

 通行人は横を通り過ぎる。

 誰も助けない。

 誰も見ていない。

 シャツを見る。

 乾いている。

 しかし胸には、手形のような冷たさだけが残っていた。


 夜。

 悠斗はノートを開き、三日間の出来事を書き出した。

 白い世界。

 音が生まれる瞬間。

 黒い世界。

 誰かが口を開いた瞬間。

 水位は毎日上がる。

 水は少しずつ粘る。

 黒い世界では何かが触れる。

 白い世界では黒い影が近付いてくる。


 そこまで書いて、手が止まった。

 昨日まで書いていたページをめくる。

 違和感。

 ページ数がおかしい。

 一枚抜けている。

 破った覚えはない。

 書き損じた記憶もない。

 それだけではない。

 文字が減っている。

 昨日、「会社の同僚 三浦」と書いた行。

 今は、

 「会社の同僚   」

 名前だけが消えていた。

 空白。

 インクが消えたのではない。

 最初から書かれていなかったように。

 悠斗は会社の連絡先を開く。

 三浦の名前がない。

 写真もない。

 社員一覧にも存在しない。

 記憶だけが残っている。

 だが、誰もその人物を覚えていない。

 スマートフォンを握る手が震えた。

 これは、人が死ぬのとは違う。

 最初から存在しなかったことにされている。


 その夜。

 眠ることができず、窓際に座っていた。

 街灯だけが道路を照らしている。

 人影はほとんどない。

 ふと、道路の向こう側に、小さな男の子が立っているのが見えた。

 白いシャツ。

 裸足。

 じっと悠斗を見上げている。

 悠斗は窓を開けた。

 男の子は何も言わない。

 ゆっくりと口を開く。

 闇。

 液体は首まで満ちていた。

 冷たい。

 重い。

 もう立っていることすら難しい。

 その暗闇の中で。

 男の子だけが見えた。

 黒ではない。

 白でもない。

 輪郭だけがぼんやり光っている。

 男の子はゆっくりと右手を上げた。

 そして、自分の口元を指差す。

 そのまま首を横に振る。

 「喋るな」

 そう伝えているようだった。


 次の瞬間。

 男の子は、液体の中へ静かに沈んだ。

 手だけを残して。

 そして、その手も見えなくなった。

 世界が戻る。

 窓の外には誰もいない。

 悠斗はガラス越しに、自分の顔を見つめた。

 その顔は昨日までの自分ではなかった。

 輪郭が、少しだけ白く透けていた。


◇  ◇  ◇


 朝。

 目覚めた悠斗は、自分の部屋に違和感を覚えた。

 写真立てが一つ、棚の上に置かれている。

 木製の、小さな写真立て。

 見覚えがない。

 近づき、手に取る。

 写真には、自分が写っていた。

 笑っている。

 その隣に誰かいる。

 肩を組んでいる。


 しかし、その人物だけが真っ白だった。

 人の形だけが切り抜かれたように、そこだけ色がない。

 悠斗は眉をひそめた。

 写真を裏返す。

 日付だけが書かれていた。

 三年前。

 それ以上は何もない。

 誰と撮った写真なのか。

 思い出せない。


 外へ出る。

 街はさらに静かになっていた。

 車はある。

 店も開いている。

 信号も動いている。

 だが、人がいない。

 駅前広場に立っているのは十人ほど。

 以前なら数百人はいた場所だ。

 それなのに。

 誰も少ないとは思っていない。

 悠斗だけが世界から取り残されていた。


 図書館へ向かった。

 理由は自分でも分からない。

 ただ、

 「古い記録なら残っている」

 そんな気がした。

 郷土資料室。

 古びた新聞をめくる。

 十年前。

 二十年前。

 三十年前。

 どの記事にも、小さな共通点があった。

 ある日を境に、人名が消えている。

 事件の記事。

 卒業写真。

 表彰式。

 集合写真。

 文章はそのままなのに、

 人名だけが空白になっていた。

 印刷ミスではない。

 何十年分も。

 すべて同じだった。


 ページをめくる。

 一枚の写真。

 夏祭り。

 提灯。

 浴衣姿の人々。

 その隅に、小さな男の子が写っている。

 白いシャツ。

 裸足。

 昨夜見た子だった。

 写真の説明には、

 「参加者」

 それしか書かれていない。

 名前がない。

 悠斗は息を呑んだ。


 その瞬間。

 白。

 今までで最も長い。

 もう地平線しかない。

 液体は肩まで。

 水ではなかった。

 濃い。

 重い。

 足を持ち上げることすらできない。

 ゆっくり。

 ゆっくりと。

 白い地平線の向こうから、

 黒い影が歩いてくる。

 一人。

 二人。

 三人。

 十人。

 数えられない。

 みな同じ速度。

 みなこちらを見ている。

 足音は聞こえない。

 だが。

 液体だけが震えていた。


 影は悠斗を取り囲んだ。

 誰も触れない。

 ただ見ている。

 その輪の中へ、

 一人だけ、

 白いシャツの男の子が歩いてきた。

 悠斗は目を見開く。

 男の子だけは輪郭がある。

 顔も見える。

 十歳くらい。

 やせている。

 悲しそうな目をしていた。

 男の子は口を開く。

 当然、聞こえない。

 しかし今回は違った。

 男の子は喋る代わりに、

 自分の胸へ手を当て、

 そして悠斗の胸へ触れた。

 冷たい。

 その瞬間。

 悠斗の頭へ、

 記憶が流れ込んできた。


 病院。

 白い天井。

 モニター。

 泣いている女性。

 笑う幼い男の子。

 手を握る青年。

 誰だ。

 知らない。

 いや。

 知っている。

 全員、

 もう存在しない人たちだ。


 映像は次々と流れる。

 学校。

 結婚式。

 誕生日。

 駅のホーム。

 海。

 夏祭り。

 誰かの人生。

 誰かの笑顔。

 誰かの別れ。

 すべて、

 最後だけ白く塗りつぶされる。


 男の子は首を横に振った。

 そして、

 人差し指を一本だけ立てる。

 ゆっくりと、

 悠斗の後ろを指差した。


 振り向く。

 そこには、

 巨大な扉があった。

 白でもない。

 黒でもない。

 光を吸い込む灰色の扉。

 表面には、

 無数の手形。

 小さな手。

 大人の手。

 老人の手。

 重なるように押し付けられている。

 その中心に、

 一本だけ細い隙間が開いていた。

 隙間の向こうは、

 完全な闇。


 男の子は最後に、

 ゆっくりと首を振る。

 そして、

 自分の口へ指を当てた。

 「静かに。」

 そう告げるように。

 次の瞬間。

 白い世界が崩れた。


 図書館。

 悠斗は床へ膝をついていた。

 目の前の新聞は真っ白だった。

 さっきまで文字があったはずなのに。

 写真も。

 記事も。

 何も残っていない。

 司書が近づいてくる。

 口を開く。

 その瞬間、悠斗は反射的に両耳を塞いだ。

 聞こえない。

 それでも。

 男の子の仕草が頭から離れない。

 喋るな。

 聞くな。

 その意味を、悠斗はまだ知らない。

 だが本能だけが叫んでいた。

 もし次に"あちら側"で何かを受け入れてしまえば、

 自分も写真の中の白い人影になるのだと。


◇  ◇  ◇


 夜だった。

 街にはもう誰も歩いていなかった。

 信号だけが規則正しく色を変え続ける。

 駅前の大型モニターには、誰もいない避難所の映像が映っていた。

 画面の中でも、人影は見当たらない。

 悠斗は灰色の扉を探していた。

 理由は分からない。

 だが、あれを開かなければ終われない。

 そんな確信だけがあった。

 駅前広場へ足を踏み入れた瞬間だった。

 世界が白く染まる。

 もう戻ることはないと、直感した。


 白い地平線。

 液体は首まで満ちていた。

 もう水ではない。

 濃く、

 重く、

 冷たく、

 身体をゆっくり沈めていく。

 足元は見えない。

 どこまで深いのかも分からない。

 遠く。

 灰色の扉だけが立っていた。

 その前には、

 白い少年。

 もう笑ってはいない。

 ただ静かに悠斗を待っていた。

 少年は頷く。

 「行け」

 そう言っているようだった。

 悠斗は液体をかき分ける。

 一歩。

 また一歩。

 歩くたび、

 液体の中で何かに触れる。

 肩。

 腕。

 髪。

 指先。

 人だった。

 沈んだ人々が、

 液体の底から悠斗に触れていた。

 引き止めるわけでもない。

 助けるわけでもない。

 ただ、

 「まだここにいる」

 それだけを伝えるように。


 扉の前へ着く。

 無数の手形。

 どれも押し開こうとした跡だった。

 悠斗は掌を重ねる。

 冷たい。

 扉は音もなく開いた。


 中には、

 何もなかった。

 闇ではない。

 白でもない。

 ただ、

 果てのない透明。

 空気すら感じない空間。

 そこへ一歩踏み出した瞬間。

 世界が見えた。


 生まれたばかりの赤ん坊。

 笑う家族。

 学校。

 祭り。

 卒業式。

 結婚式。

 誰かの最期。

 誰かの涙。

 誰かの祈り。

 数え切れない人生が、

 一つの光となって流れていく。

 その光の中に、

 細い糸のようなものが無数に伸びていた。

 一本一本が、

 一人の人間へ繋がっている。


 その糸は震えていた。

 いや。

 震えていたのではない。

 それこそが、

 人間が「音」と呼んでいたものだった。


 悠斗は理解する。

 音は、

 空気の振動ではない。

 人と人が、

 世界と世界が、

 存在と存在が、

 互いを認識するための糸。

 人はその揺れを、

 勝手に「音」と名付けていただけだった。


 今、その糸が切れていく。

 一人。

 また一人。

 糸が消えるたび、

 その人の姿も、

 記憶も、

 存在も、

 静かに世界から失われていく。


 悠斗は少年を見る。

 少年はゆっくり頷いた。

 そして初めて、

 声ではない何かが悠斗へ届く。

 言葉ではない。

 意味だけが伝わる。

 「境界は閉じる。」

 「もう誰も向こうへ届かない。」

 「あなたが最後。」


 悠斗は振り返る。

 扉の向こう。

 白い世界。

 液体の中には、

 数え切れない人々。

 誰も苦しんでいない。

 誰も叫んでいない。

 ただ、

 静かに眠っていた。


 悠斗は扉を閉じた。

 灰色の扉は、

 二度と開かなかった。


 目を開く。

 朝だった。

 自宅のベッド。

 窓から夏の日差しが差し込んでいる。

 世界は変わらない。

 テレビをつける。

 画面にはニュース。

 キャスターが笑っている。

 字幕だけが流れていた。

 悠斗は窓を開ける。

 子どもたちが走る。

 犬が口を開く。

 木々が揺れる。

 何も聞こえない。

 それでも。

 もう恐ろしくはなかった。

 世界は完成したのだ。

 静寂だけを残して。


 悠斗は机へ向かう。

 一冊のノートを開く。

 最後のページに、一行だけ書き残す。

「音が消えたのではない。」

 少し考え、

 その下へ続ける。

「私たちは、ずっと何かを聞かされていた。」

 書き終えた瞬間、

 文字はゆっくりと白く薄れ、

 紙の中へ溶けていった。

 悠斗はそれを見届ける。

 そして、

 誰もいない街へ歩き出す。


 翌朝。

 新聞は発行されなかった。

 テレビも映らなかった。

 電気は点く。

 水も出る。

 空は青い。

 ただ、

 人類という存在だけが、

 最初からいなかったように、

 世界は静かに夏を続けていた。


◇  ◇  ◇


 真っ白な世界。

 足元を満たす静かな液体。

 一人の少年が立っている。

 その隣へ、

 一人の青年が並んだ。

 二人は何も話さない。

 話す必要がない。

 遠くで、

 また一本、

 細い糸がほどけた。

 少年は目を閉じる。

 青年も目を閉じる。

 そして世界は、

 完全な静寂になった。

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