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女子ボートレーサーと市役所職員  作者: 池井 けい
第10章 時間との勝負
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90/110

90 ♡ハグして、キスして、それから(後編)

【05】 丹沢の土下座


 丹沢がいきなり椅子から立ち、竹山とその友人の前で、土下座した。両手のひらを床にピタッと付け、頭を床にこすりつけ、

丹沢「すみませんでした。すべて私の責任です。悪うございました」

竹山「……」

鰐渕「……」

丹沢「悪うございました。もちろん、過料金の6千円は私の方で払わせていただきます」

竹山「……」

鰐渕「……」

丹沢「今日は、わざわざお越しいただきありがとうございました」

 丹沢は頭を、床のゴミを髪の毛につけるぐらいにこすり付けた。

丹沢(これで、二人ともすぐに帰ってくれ。頼む!!!)

 丹沢は一縷の望みを、自分の頭を床にこすりつけることで表現した。

丹沢(頼む! 帰ってくれ!!!)


竹山「わかったよ。最初からそうしてくれればこんなにならなかったんだよ」

鰐渕「そうだ、そうだ」

竹山「結局、やっぱりあんたがいけなかったんだよな。良かったよ、はっきり片がついて」

鰐渕「うん」

課長「そうか、やっぱりお前だったのか」

竹山「さて、じゃぁ、帰るか」

鰐渕「うん」

竹山「こいつも自分のミスを認めたし。まぁ、明日からはちゃんと仕事するんだな」

 竹山と鰐渕は、ドアのバリケードをずらし、ドアを開けて帰って行った。

 丹沢は、土下座の態勢を崩すことなく、二人の足音がどんどん遠ざかって行くのを耳で確認していた。

丹沢(よかった~。こんなに早く帰ってくれて)

課長「やっぱりお前だったのか。早く謝ればいいものを、無駄な時間を使いやがって」

 課長もドアを開けて出て行った。


 丹沢は、やっと土下座から解放され、部屋の机と椅子を元通りに戻した。

 課長がタイムカードを押して帰るのを耳で確認してから、丹沢も急いでタイムカードを押し、駅まで走った。

 駅まで全力で走りながら、

丹沢(今した土下座は、強制的にさせられたもので、もちろん本心ではない)

丹沢(例えるなら土下座は、誘拐事件の身代金みたいなものだ。お金を払いたくはないが人質の命には代えられない)

丹沢(もう待っているとはとても思えないが、どうしても池袋の待ち合わせ場所には行ってみたかったんだ!)

丹沢(で、ないと、自分は一生このときのことを後悔しそうで……)

丹沢(過料金の6千円を、なんで私が払わなきゃいけないんだと思うけれど、これしか方法がなかったんだ、そう、これしか)

 丹沢は、今日の出来事を自分に納得させていた。

 そんなうちに、丹沢は駅に着き池袋方面に行く電車に飛び乗った。


【06】 桃子の待ちぼうけ


 池袋の映画館『池袋シアター』。

桃子は、ひとりで映画館のロビーに座っていた。時計の針が7時を指そうとしていた。

桃子(来ないわね。どうしたんだろう?)

桃子(時間を間違えた? いえ、7時で間違いない。場所を間違えた? いえ『池袋シアター』って言ったし)

桃子(嫌われた? そんな感じじゃなかったわ。じゃぁ、交通事故? 韓国ドラマじゃあるまいし)

  7時15分。

桃子(映画が始まっちゃう。どうしよう? ここで待つべきか、映画をみるべきか?)

桃子(う~ん。映画を見ようっと。丹沢さんも遅れて来て、見るんじゃないかしら? そして映画が終わったら出口で逢える。きっとそうなるはずよ)


桃子は急いで切符を買い、劇場の中へ入った。指定席に座ると、すでにスクリーンに映画を見るときの注意事項、そして広告が映し出されていた。

桃子(丹沢さんとロビーで会えていたら、別に映画なんて見なくて良かったのになぁ。二人でお茶してもいいし、お酒でもいいし。ひょっとしたら私の泊まるホテルで休憩してもいいし。うまくいかないものねぇ)

桃子(映画を見るのがいいのか悪いのか? まぁいいか)

 映画が始まった。『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』。

桃子(結構、長い映画なのね。丹沢さん、今頃、ロビーに来ているかな? 携帯電話の番号を聞いておけば良かったな。で、なければ、私の携帯の番号を言っておけば良かった。バカだな)

 映画は続いた。面白い映画なんだろうけれど、今の桃子にとっては、真剣に身が入らなかった。


 桃子が薄暗い中で時計を見ると時刻は9時になろうとしていた。桃子は映画の途中で席を立ち、ロビーを覗きに行った。

 ロビーの見える所まで行ってみたが、ロビーに丹沢の姿はなかった。

桃子(これじゃぁ、『呪われた海賊たち』でなく、『呪われた私たち』ね。映画もさっぱり頭に入って来ないし、出ようかな)

 桃子は映画をあきらめてロビーへと出た。

桃子(さて、帰ろうかな。帰る前に、コーヒー一杯だけ飲もうかな、のども乾いたし)

桃子は売店に行った。

桃子(やっぱりいい値段ね。まぁ、仕方ないか、こういう所だし)

 桃子はロビーの椅子に座り、今買ったコーヒーを飲み始めた。

桃子(丹沢さんが来ないということは、丹沢さんにとって私は、『その程度』ってことよね。大学時代一度だけ私のアパートに泊まってもらったときと、今日と、二度空振りね。まっいいか。丹沢さんとは縁がなかったのね)

桃子(あぁあ、でもコーヒーが美味しい。高かったけれどその分美味しいわ)


 そのとき、丹沢が『池袋シアター』にやって来た。ロビーに来ると、あちこちを見渡した。

丹沢(おっ! まさか?)

 丹沢の目に若い女性が座っている後姿が映った。

丹沢(でも、違うかも? もう待ち合わせの時間から2時間も経っているんだから)

 丹沢は遠巻きに、その女性の前方へ回り込んだ。

丹沢(似ているなぁ。やっぱり磯江さんか?)

丹沢が桃子の方へと近づいて行った。

 桃子も誰かが近寄って来るのに気が付いた。桃子の目がコーヒーの液面から丹沢の顔へと移った。

桃子「……」

 桃子が目を丸くした。

丹沢「磯江さん?」

桃子「うん」

 首を下へと振って、小さく頷いた。


丹沢「ごめん、ごめん。こんなに待たせちゃって」

桃子「来てくれたんだぁ」

 桃子は、涙目になっていた。

丹沢「会いたかった、本当に会いたかった。会えて良かったよ、もう絶対居ないと思って来たんだ」

桃子「うううん」

 桃子が首を横に振った。


丹沢「よりによって、こんな時に、お客様からクレームが入って、部屋に監禁されちゃったんだ」

桃子「えっ! そうなの?」

丹沢「ああ。話せば長くなるからやめとくけど」

桃子「そんなことがあるの?」

丹沢「まれだよ。それよりどうしようか、これから? 何か考えがある?」

桃子「コーヒーでも、お酒でも良かったんだけれど、とにかく丹沢さんといろんな話をしたかったんだ。けれど、」

丹沢「けれど何?」

桃子「ごめん。ちょっと時間が足らなくて。私、明日が早いから、今日遅くはなれないし」

丹沢「そうか、ごめん、私のせいで」

桃子「仕方ないわよ、仕事じゃ」

丹沢「あと、どのくらいなら大丈夫なの?」

桃子「1時間ぐらい」

丹沢「そうか。じゃぁ、すぐそこの『マクモリア(ハンバーガショップ)』で1時間、めいっぱい喋ろうよ」

桃子「わかった、そうしましょう!」


【07】 思い出ばなしと「ハグして、キスして、それから」


 二人はすぐに映画館を出て、すぐそばの『マクモリア(ハンバーガショップ)』に入った。二人は隅のテーブルで飲み物と食べ物を頬張りながら、

桃子「丹沢さんは、在学中に就職が決まっていたじゃない」

丹沢「うん」

桃子「だから、それを手掛かりに、今日職場に電話してみたのよ。もし、辞めていたらどうしようかなと思ったのよ」

丹沢「そうか。じゃぁ、辞めなくて良かったよ。何度も辞めそうに、というか、辞めさせられそうにはなったんだけれどね。ははははは」

 丹沢が嬉しそうに豪快に笑った。


桃子「丹沢さんが市役所を辞めていたら、私達が会うことはもうなかったかも」

丹沢「なるほど、そうかもね。お互い、連絡先がわからないもんな」

桃子「うん。ねぇ、丹沢さんは、結婚したの?」

丹沢「ううん、してないよ」

桃子「そうなんだ」

丹沢「磯江さんは?」

桃子「私もしてないわ」

丹沢「ふーん。もてそうだし、いい話はいっぱいありそうだけれどなぁ」

桃子「私、まだまだ遊びたいし、縛られるのは嫌だから」

丹沢「じゃぁ、私と一緒だ。まったく同じ考えだね。で、今何をやっているの?」

桃子「教員よ、中学校の」

丹沢「公立の?」

桃子「うん」

丹沢「じゃぁ、同じ公務員だ」

桃子「そう言うことね」

丹沢「明日は何かあるの?」

桃子「朝一番の飛行機で帰るのよ」

丹沢「朝一か」

桃子「朝一だとチケット代が格安だから」

丹沢「そうだよね」


桃子「私、朝が弱いから、今夜は早く寝たいのよ。ゴメンね」

丹沢「とんでもない。約束の時間に遅れた私が悪いんだよ」

桃子「私達、なにかうまく行かないわね」

丹沢「私もそう思う」

桃子「ほら学生時代、一度だけ私のアパートに泊まってもらったことがあったじゃない?」

丹沢「ああ、あったあった。覚えているよ」

桃子「あのとき、布団に入って、いろいろな話を聞いてもらおうと思ったら、先輩、速攻で寝ちゃうんだもん、びっくりしたわよ」

丹沢「うん、そうだった。覚えているよ」

桃子「本当に?」

丹沢「もちろんだよ。だって、磯江さんのアパートに泊めてもらうなんて、こんな嬉しいことはないよ」

桃子「うそっ!」

丹沢「本当さ」


桃子「なら、なんで速攻で寝られるのよ」

丹沢「ギャンブラーの定めさ」

桃子「『ギャンブラーの定め』って?」

丹沢「あの頃は、『徹マン』と言って徹夜麻雀が続いててね、クラブの仲間に付き合わされると、途中でやめることは出来ないんだよ」

桃子「夜10時頃で終わるんじゃないの?」

丹沢「私はやめたいんだけれど、自分が勝っていると、他の3人から『勝ち逃げは許さん』と言われ、結局朝までやるんだな、これが」

桃子「相手が3人じゃ断れないわね」

丹沢「うん。そう言ってもらうと助かるよ。だからあの日は、寝不足できっとぐっすり寝ていたと思うよ」

桃子「そう、寝息を立てて、気持ちよさそうに寝ていたわよ」

丹沢「そうか。何年も経って、今初めて知ったよ。そんなによく寝ていたんだ」

桃子「うん、憎らしいくらいよく寝ていたわ」

丹沢「起こしてくれれば良かったのに」

桃子「起こしたわよ」

丹沢「そうしたら、私はどうなったの」

桃子「『ううーん』とか言って、苦悶の表情を見せたかと思ったらまた寝入っちゃったわよ」


丹沢「そうか、そうだろうな。あの眠さには、どんなものも勝てないだろうな」

桃子「そんなに眠気ってすごいの?」

丹沢「うん、すごいよ。そして、あの『徹マン』の後の眠りは、最高に気持ちがいいんだ。どんなものにも代えがたいな」

桃子「エッチよりも」

丹沢「えっ!」

桃子「冗談よ、忘れて」

丹沢「実は、そっちのことだけれど、気持ち良いエッチというのをしたことがないんだ、というか知らないんだ」

桃子「……」

丹沢「黙られると困るんだが、」

桃子「じゃぁ、なんて答えればいいの?」


丹沢「そうだな、そうだよな。いやぁ、実は失敗したと思ってるんだ」

桃子「何が?」

丹沢「女性の部屋に泊めてもらえるなんて、あんなチャンスを逃したことがさ。あの後、1週間ぐらいは後悔していたんだ」

桃子「何を?」

丹沢「キスぐらいは出来たんじゃないか? と」

桃子「でも、キスより『徹マン』後の眠りを取ったんでしょう」

丹沢「うん。そのことを思い出すと、今でも残念な気持ちでいっぱいだよ。もう何年も経ったし、いくらか大人になったから今は言えるけれど、あの頃は卒業するまで、そのことはそっと心の中にしまっておいたんだ」


桃子「私は『丹沢さんに嫌われている』、または、『まったく興味を持たれていないんだ』、と思ったわ」

丹沢「そんなことはない」

桃子「だって、一言も喋らず寝ちゃうんだもん」

丹沢「ごめん、本当にごめん。あの時も今日も謝りっぱなしだな。ははははは」

桃子「でも、良かった会えて。こうしてあのときの丹沢先輩の気持ちが聞けたから」

丹沢「磯江さんは、今、彼氏とか居ないの?」

桃子「彼氏は居ないわ。友達程度なら居るけれど」

丹沢「じゃぁ、それも私と一緒だ」

桃子「状況は一緒なのね」

丹沢「そうだね。明日帰るのか、残念だな」


桃子「ほんと。今度いつ会えるのか?」

丹沢「わからないな」

桃子「今度いつか、また会えたらキスしましょうか?」

丹沢「そうだね、外国人みたくハグして、キスして、それから」

桃子「それから?」

丹沢「なんでもない。忘れて」

桃子「忘れない。『ハグして、キスして、それから』何よ?」

丹沢「言えないよ」

桃子「そうか、言えないようなことなのね」

丹沢「恥ずかしいよ」


桃子「じゃぁ、話を変えて、」

丹沢「うん。そうしよう」

桃子「さっき『気持ち良いエッチというのをしたことがない』って言ってたけれど、そうなの?」

丹沢「全然話が変わってないじゃん」

桃子「ふふふふふ。やっぱりそのことだったんだ」

丹沢「あまり、そっちの経験ってないんだよ。なんで、女性にこんな話をしないといけないんだろう?」

桃子「いいじゃない。男性よりも女性に話した方が良い相談になるし、良い答えがあるかもよ」

丹沢「そうかなぁ?」

桃子「そうよ」


丹沢「まぁ、これで今後会うことがないかも知れないから、『旅の恥は搔き捨て』気分で言うけれど、自分の経験がプロしかないんだよ」

桃子「『プロ』? ああ、そうかプロね」

丹沢「うん、そうだよ」

桃子「逆に言えば、素人とは無い、ってことね」

丹沢「うん」

 丹沢は、ひとり、ふたり、成行でというのがあったが忘れていた。

桃子「へぇ~、そうなんだ。意外!」

丹沢「だから、『気持ち良い』と言うより『事務的』って感じかなぁ、それとも『流れ作業』って言うか。もういいだろう、この辺で」

 そう言うと丹沢は、思わず飲み物に手をやった。


桃子「その内に、いい人が現れるわよ、きっと。先輩なら」

丹沢「そうかなぁ、無理だと思うよ」

桃子「そういう人が全然現れなくて、もし私たちに、いつか機会があったら試してみる?」

丹沢「うん、そのときは前もって言ってくれる? ちゃんと前の晩、ぐっすり寝ておくから」

桃子「ふふふふふ、そうね」

丹沢「そろそろ、帰らないと、明日起きられないんじゃないかい?」

桃子「うん、飛行機に乗り遅れたら大変」

丹沢「会えて良かったよ」

桃子「私も。あのときのモヤモヤが消えて良かった」

丹沢「うん、誤解が解けて良かったよ」

桃子「うん」

丹沢「駅まで一緒に行ってそこで別れようか?」

桃子「そうね」

 二人は店を出て駅へと向かった。

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【後書き】

 今回の更新もお読みいただきありがとうございました。 市役所職員という仕事の理不尽さと、学生時代の淡い思い出。その両方に振り回される丹沢の一日を描きました。

 10年前、桃子の部屋で爆睡してしまった丹沢……。

 読者の皆様も「なんでそこで寝るんだ!」とツッコミを入れたくなったのではないでしょうか(笑)。

最悪な状況での土下座を経て、ようやく再会できた二人。短い一時間でしたが、互いの誤解が解けて本当に良かったです。

「ハグして、キスして、それから」の続きが気になりますが、それはまたいつかの機会に……。

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【作者よりお願い】

 お疲れ様です、作者の池井けいです。

 桃子との待ち合わせのために「土下座」という身代金を払った丹沢……。市役所職員の悲哀と、それ以上に強い再会への執念を感じるエピソードでした。

 散々な目に遭った丹沢への応援(あるいは同情)の代わりに、ぜひポイント評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。

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