90 ♡ハグして、キスして、それから(後編)
【05】 丹沢の土下座
丹沢がいきなり椅子から立ち、竹山とその友人の前で、土下座した。両手のひらを床にピタッと付け、頭を床にこすりつけ、
丹沢「すみませんでした。すべて私の責任です。悪うございました」
竹山「……」
鰐渕「……」
丹沢「悪うございました。もちろん、過料金の6千円は私の方で払わせていただきます」
竹山「……」
鰐渕「……」
丹沢「今日は、わざわざお越しいただきありがとうございました」
丹沢は頭を、床のゴミを髪の毛につけるぐらいにこすり付けた。
丹沢(これで、二人ともすぐに帰ってくれ。頼む!!!)
丹沢は一縷の望みを、自分の頭を床にこすりつけることで表現した。
丹沢(頼む! 帰ってくれ!!!)
竹山「わかったよ。最初からそうしてくれればこんなにならなかったんだよ」
鰐渕「そうだ、そうだ」
竹山「結局、やっぱりあんたがいけなかったんだよな。良かったよ、はっきり片がついて」
鰐渕「うん」
課長「そうか、やっぱりお前だったのか」
竹山「さて、じゃぁ、帰るか」
鰐渕「うん」
竹山「こいつも自分のミスを認めたし。まぁ、明日からはちゃんと仕事するんだな」
竹山と鰐渕は、ドアのバリケードをずらし、ドアを開けて帰って行った。
丹沢は、土下座の態勢を崩すことなく、二人の足音がどんどん遠ざかって行くのを耳で確認していた。
丹沢(よかった~。こんなに早く帰ってくれて)
課長「やっぱりお前だったのか。早く謝ればいいものを、無駄な時間を使いやがって」
課長もドアを開けて出て行った。
丹沢は、やっと土下座から解放され、部屋の机と椅子を元通りに戻した。
課長がタイムカードを押して帰るのを耳で確認してから、丹沢も急いでタイムカードを押し、駅まで走った。
駅まで全力で走りながら、
丹沢(今した土下座は、強制的にさせられたもので、もちろん本心ではない)
丹沢(例えるなら土下座は、誘拐事件の身代金みたいなものだ。お金を払いたくはないが人質の命には代えられない)
丹沢(もう待っているとはとても思えないが、どうしても池袋の待ち合わせ場所には行ってみたかったんだ!)
丹沢(で、ないと、自分は一生このときのことを後悔しそうで……)
丹沢(過料金の6千円を、なんで私が払わなきゃいけないんだと思うけれど、これしか方法がなかったんだ、そう、これしか)
丹沢は、今日の出来事を自分に納得させていた。
そんなうちに、丹沢は駅に着き池袋方面に行く電車に飛び乗った。
【06】 桃子の待ちぼうけ
池袋の映画館『池袋シアター』。
桃子は、ひとりで映画館のロビーに座っていた。時計の針が7時を指そうとしていた。
桃子(来ないわね。どうしたんだろう?)
桃子(時間を間違えた? いえ、7時で間違いない。場所を間違えた? いえ『池袋シアター』って言ったし)
桃子(嫌われた? そんな感じじゃなかったわ。じゃぁ、交通事故? 韓国ドラマじゃあるまいし)
7時15分。
桃子(映画が始まっちゃう。どうしよう? ここで待つべきか、映画をみるべきか?)
桃子(う~ん。映画を見ようっと。丹沢さんも遅れて来て、見るんじゃないかしら? そして映画が終わったら出口で逢える。きっとそうなるはずよ)
桃子は急いで切符を買い、劇場の中へ入った。指定席に座ると、すでにスクリーンに映画を見るときの注意事項、そして広告が映し出されていた。
桃子(丹沢さんとロビーで会えていたら、別に映画なんて見なくて良かったのになぁ。二人でお茶してもいいし、お酒でもいいし。ひょっとしたら私の泊まるホテルで休憩してもいいし。うまくいかないものねぇ)
桃子(映画を見るのがいいのか悪いのか? まぁいいか)
映画が始まった。『パイレーツ・オブ・カリビアン/呪われた海賊たち』。
桃子(結構、長い映画なのね。丹沢さん、今頃、ロビーに来ているかな? 携帯電話の番号を聞いておけば良かったな。で、なければ、私の携帯の番号を言っておけば良かった。バカだな)
映画は続いた。面白い映画なんだろうけれど、今の桃子にとっては、真剣に身が入らなかった。
桃子が薄暗い中で時計を見ると時刻は9時になろうとしていた。桃子は映画の途中で席を立ち、ロビーを覗きに行った。
ロビーの見える所まで行ってみたが、ロビーに丹沢の姿はなかった。
桃子(これじゃぁ、『呪われた海賊たち』でなく、『呪われた私たち』ね。映画もさっぱり頭に入って来ないし、出ようかな)
桃子は映画をあきらめてロビーへと出た。
桃子(さて、帰ろうかな。帰る前に、コーヒー一杯だけ飲もうかな、のども乾いたし)
桃子は売店に行った。
桃子(やっぱりいい値段ね。まぁ、仕方ないか、こういう所だし)
桃子はロビーの椅子に座り、今買ったコーヒーを飲み始めた。
桃子(丹沢さんが来ないということは、丹沢さんにとって私は、『その程度』ってことよね。大学時代一度だけ私のアパートに泊まってもらったときと、今日と、二度空振りね。まっいいか。丹沢さんとは縁がなかったのね)
桃子(あぁあ、でもコーヒーが美味しい。高かったけれどその分美味しいわ)
そのとき、丹沢が『池袋シアター』にやって来た。ロビーに来ると、あちこちを見渡した。
丹沢(おっ! まさか?)
丹沢の目に若い女性が座っている後姿が映った。
丹沢(でも、違うかも? もう待ち合わせの時間から2時間も経っているんだから)
丹沢は遠巻きに、その女性の前方へ回り込んだ。
丹沢(似ているなぁ。やっぱり磯江さんか?)
丹沢が桃子の方へと近づいて行った。
桃子も誰かが近寄って来るのに気が付いた。桃子の目がコーヒーの液面から丹沢の顔へと移った。
桃子「……」
桃子が目を丸くした。
丹沢「磯江さん?」
桃子「うん」
首を下へと振って、小さく頷いた。
丹沢「ごめん、ごめん。こんなに待たせちゃって」
桃子「来てくれたんだぁ」
桃子は、涙目になっていた。
丹沢「会いたかった、本当に会いたかった。会えて良かったよ、もう絶対居ないと思って来たんだ」
桃子「うううん」
桃子が首を横に振った。
丹沢「よりによって、こんな時に、お客様からクレームが入って、部屋に監禁されちゃったんだ」
桃子「えっ! そうなの?」
丹沢「ああ。話せば長くなるからやめとくけど」
桃子「そんなことがあるの?」
丹沢「まれだよ。それよりどうしようか、これから? 何か考えがある?」
桃子「コーヒーでも、お酒でも良かったんだけれど、とにかく丹沢さんといろんな話をしたかったんだ。けれど、」
丹沢「けれど何?」
桃子「ごめん。ちょっと時間が足らなくて。私、明日が早いから、今日遅くはなれないし」
丹沢「そうか、ごめん、私のせいで」
桃子「仕方ないわよ、仕事じゃ」
丹沢「あと、どのくらいなら大丈夫なの?」
桃子「1時間ぐらい」
丹沢「そうか。じゃぁ、すぐそこの『マクモリア(ハンバーガショップ)』で1時間、めいっぱい喋ろうよ」
桃子「わかった、そうしましょう!」
【07】 思い出ばなしと「ハグして、キスして、それから」
二人はすぐに映画館を出て、すぐそばの『マクモリア(ハンバーガショップ)』に入った。二人は隅のテーブルで飲み物と食べ物を頬張りながら、
桃子「丹沢さんは、在学中に就職が決まっていたじゃない」
丹沢「うん」
桃子「だから、それを手掛かりに、今日職場に電話してみたのよ。もし、辞めていたらどうしようかなと思ったのよ」
丹沢「そうか。じゃぁ、辞めなくて良かったよ。何度も辞めそうに、というか、辞めさせられそうにはなったんだけれどね。ははははは」
丹沢が嬉しそうに豪快に笑った。
桃子「丹沢さんが市役所を辞めていたら、私達が会うことはもうなかったかも」
丹沢「なるほど、そうかもね。お互い、連絡先がわからないもんな」
桃子「うん。ねぇ、丹沢さんは、結婚したの?」
丹沢「ううん、してないよ」
桃子「そうなんだ」
丹沢「磯江さんは?」
桃子「私もしてないわ」
丹沢「ふーん。もてそうだし、いい話はいっぱいありそうだけれどなぁ」
桃子「私、まだまだ遊びたいし、縛られるのは嫌だから」
丹沢「じゃぁ、私と一緒だ。まったく同じ考えだね。で、今何をやっているの?」
桃子「教員よ、中学校の」
丹沢「公立の?」
桃子「うん」
丹沢「じゃぁ、同じ公務員だ」
桃子「そう言うことね」
丹沢「明日は何かあるの?」
桃子「朝一番の飛行機で帰るのよ」
丹沢「朝一か」
桃子「朝一だとチケット代が格安だから」
丹沢「そうだよね」
桃子「私、朝が弱いから、今夜は早く寝たいのよ。ゴメンね」
丹沢「とんでもない。約束の時間に遅れた私が悪いんだよ」
桃子「私達、なにかうまく行かないわね」
丹沢「私もそう思う」
桃子「ほら学生時代、一度だけ私のアパートに泊まってもらったことがあったじゃない?」
丹沢「ああ、あったあった。覚えているよ」
桃子「あのとき、布団に入って、いろいろな話を聞いてもらおうと思ったら、先輩、速攻で寝ちゃうんだもん、びっくりしたわよ」
丹沢「うん、そうだった。覚えているよ」
桃子「本当に?」
丹沢「もちろんだよ。だって、磯江さんのアパートに泊めてもらうなんて、こんな嬉しいことはないよ」
桃子「うそっ!」
丹沢「本当さ」
桃子「なら、なんで速攻で寝られるのよ」
丹沢「ギャンブラーの定めさ」
桃子「『ギャンブラーの定め』って?」
丹沢「あの頃は、『徹マン』と言って徹夜麻雀が続いててね、クラブの仲間に付き合わされると、途中でやめることは出来ないんだよ」
桃子「夜10時頃で終わるんじゃないの?」
丹沢「私はやめたいんだけれど、自分が勝っていると、他の3人から『勝ち逃げは許さん』と言われ、結局朝までやるんだな、これが」
桃子「相手が3人じゃ断れないわね」
丹沢「うん。そう言ってもらうと助かるよ。だからあの日は、寝不足できっとぐっすり寝ていたと思うよ」
桃子「そう、寝息を立てて、気持ちよさそうに寝ていたわよ」
丹沢「そうか。何年も経って、今初めて知ったよ。そんなによく寝ていたんだ」
桃子「うん、憎らしいくらいよく寝ていたわ」
丹沢「起こしてくれれば良かったのに」
桃子「起こしたわよ」
丹沢「そうしたら、私はどうなったの」
桃子「『ううーん』とか言って、苦悶の表情を見せたかと思ったらまた寝入っちゃったわよ」
丹沢「そうか、そうだろうな。あの眠さには、どんなものも勝てないだろうな」
桃子「そんなに眠気ってすごいの?」
丹沢「うん、すごいよ。そして、あの『徹マン』の後の眠りは、最高に気持ちがいいんだ。どんなものにも代えがたいな」
桃子「エッチよりも」
丹沢「えっ!」
桃子「冗談よ、忘れて」
丹沢「実は、そっちのことだけれど、気持ち良いエッチというのをしたことがないんだ、というか知らないんだ」
桃子「……」
丹沢「黙られると困るんだが、」
桃子「じゃぁ、なんて答えればいいの?」
丹沢「そうだな、そうだよな。いやぁ、実は失敗したと思ってるんだ」
桃子「何が?」
丹沢「女性の部屋に泊めてもらえるなんて、あんなチャンスを逃したことがさ。あの後、1週間ぐらいは後悔していたんだ」
桃子「何を?」
丹沢「キスぐらいは出来たんじゃないか? と」
桃子「でも、キスより『徹マン』後の眠りを取ったんでしょう」
丹沢「うん。そのことを思い出すと、今でも残念な気持ちでいっぱいだよ。もう何年も経ったし、いくらか大人になったから今は言えるけれど、あの頃は卒業するまで、そのことはそっと心の中にしまっておいたんだ」
桃子「私は『丹沢さんに嫌われている』、または、『まったく興味を持たれていないんだ』、と思ったわ」
丹沢「そんなことはない」
桃子「だって、一言も喋らず寝ちゃうんだもん」
丹沢「ごめん、本当にごめん。あの時も今日も謝りっぱなしだな。ははははは」
桃子「でも、良かった会えて。こうしてあのときの丹沢先輩の気持ちが聞けたから」
丹沢「磯江さんは、今、彼氏とか居ないの?」
桃子「彼氏は居ないわ。友達程度なら居るけれど」
丹沢「じゃぁ、それも私と一緒だ」
桃子「状況は一緒なのね」
丹沢「そうだね。明日帰るのか、残念だな」
桃子「ほんと。今度いつ会えるのか?」
丹沢「わからないな」
桃子「今度いつか、また会えたらキスしましょうか?」
丹沢「そうだね、外国人みたくハグして、キスして、それから」
桃子「それから?」
丹沢「なんでもない。忘れて」
桃子「忘れない。『ハグして、キスして、それから』何よ?」
丹沢「言えないよ」
桃子「そうか、言えないようなことなのね」
丹沢「恥ずかしいよ」
桃子「じゃぁ、話を変えて、」
丹沢「うん。そうしよう」
桃子「さっき『気持ち良いエッチというのをしたことがない』って言ってたけれど、そうなの?」
丹沢「全然話が変わってないじゃん」
桃子「ふふふふふ。やっぱりそのことだったんだ」
丹沢「あまり、そっちの経験ってないんだよ。なんで、女性にこんな話をしないといけないんだろう?」
桃子「いいじゃない。男性よりも女性に話した方が良い相談になるし、良い答えがあるかもよ」
丹沢「そうかなぁ?」
桃子「そうよ」
丹沢「まぁ、これで今後会うことがないかも知れないから、『旅の恥は搔き捨て』気分で言うけれど、自分の経験がプロしかないんだよ」
桃子「『プロ』? ああ、そうかプロね」
丹沢「うん、そうだよ」
桃子「逆に言えば、素人とは無い、ってことね」
丹沢「うん」
丹沢は、ひとり、ふたり、成行でというのがあったが忘れていた。
桃子「へぇ~、そうなんだ。意外!」
丹沢「だから、『気持ち良い』と言うより『事務的』って感じかなぁ、それとも『流れ作業』って言うか。もういいだろう、この辺で」
そう言うと丹沢は、思わず飲み物に手をやった。
桃子「その内に、いい人が現れるわよ、きっと。先輩なら」
丹沢「そうかなぁ、無理だと思うよ」
桃子「そういう人が全然現れなくて、もし私たちに、いつか機会があったら試してみる?」
丹沢「うん、そのときは前もって言ってくれる? ちゃんと前の晩、ぐっすり寝ておくから」
桃子「ふふふふふ、そうね」
丹沢「そろそろ、帰らないと、明日起きられないんじゃないかい?」
桃子「うん、飛行機に乗り遅れたら大変」
丹沢「会えて良かったよ」
桃子「私も。あのときのモヤモヤが消えて良かった」
丹沢「うん、誤解が解けて良かったよ」
桃子「うん」
丹沢「駅まで一緒に行ってそこで別れようか?」
桃子「そうね」
二人は店を出て駅へと向かった。
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【後書き】
今回の更新もお読みいただきありがとうございました。 市役所職員という仕事の理不尽さと、学生時代の淡い思い出。その両方に振り回される丹沢の一日を描きました。
10年前、桃子の部屋で爆睡してしまった丹沢……。
読者の皆様も「なんでそこで寝るんだ!」とツッコミを入れたくなったのではないでしょうか(笑)。
最悪な状況での土下座を経て、ようやく再会できた二人。短い一時間でしたが、互いの誤解が解けて本当に良かったです。
「ハグして、キスして、それから」の続きが気になりますが、それはまたいつかの機会に……。
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【作者よりお願い】
お疲れ様です、作者の池井けいです。
桃子との待ち合わせのために「土下座」という身代金を払った丹沢……。市役所職員の悲哀と、それ以上に強い再会への執念を感じるエピソードでした。
散々な目に遭った丹沢への応援(あるいは同情)の代わりに、ぜひポイント評価やブックマークで応援いただけると嬉しいです。よろしくお願いいたします。
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