89 ♡ハグして、キスして、それから(前編)
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【あらまし】(恋愛エピソード)
美浦市役所の住民課で働く丹沢のもとに、大学時代の後輩・桃子から突然の電話が入った。福岡から上京している彼女と池袋で約10年ぶりの再会を約束する。しかし約束の夜、丹沢を待ち受けていたのはロマンチックな再会ではなく、カスハラ(客の暴力)による執拗な「監禁」だった。
市役所内での「監禁」から抜け出せない丹沢。客の理不尽な要求、上司の裏切り。池袋で待ち続ける桃子。丹沢は彼女に会いたい一心で、ある決断を下す。
そして、ようやくたどり着いた池袋で明かされる10年前のあの夜の真実と、互いの秘めた想い。不器用な大人たちが織りなす一夜限りの再会物語。
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【主な登場人物】
丹沢純也
所属: 美浦市役所 住民課職員。
背景: 大学時代はソフトテニス部に所属。現在は窓口業務や住民異動届の担当をしている。
性格: 誠実だが、押しに弱い一面がある。かつては「徹マン(徹夜麻雀)」に明け暮れるギャンブラーな一面もあった。
今作の動向: クレーマーに理不尽な要求を突きつけられ、監禁状態となるが、かつての後輩・桃子との約束を守るために、ある方法で事態を収束させ、池袋へ急行する。
磯江桃子
所属: 福岡県の中学校教師。
背景: 丹沢の大学時代の1年後輩。実家は博多。
性格: 行動力があり、茶目っ気のある性格。学生時代から丹沢に好意を寄せていた節がある。
今作の動向: 福岡から上京し10年ぶりに丹沢に電話をかける。池袋の映画館で待ちぼうけを食らうが、諦めずに待ち続け……
■ 市役所関係(現在)
鬼塚厳司課長
役職: 住民課長。丹沢の上司。
性格: 保身に走りやすく、トラブルを部下に押し付けるタイプ。
動向: クレーマーの勢いに飲まれ、丹沢に謝罪を強要したり、「君のミスなんだろう」と突き放したりするなど、頼りない上司。
君本早苗
所属: 住民課職員。
動向:桃子からの電話を丹沢に取り次ぐ。丹沢に「彼女からよ」と茶化すなど、同僚らしいやり取りを見せる。電話を終えた後の丹沢の様子を見て「嬉しそうね」と指摘する。
明石春菜
所属: 住民課職員。丹沢の隣の席。
性格: 同僚思いで冷静な判断ができる。
動向: 課長に呼び出された丹沢の代わりに窓口を代わってあげる。また、閉鎖された部屋でのクレーム対応の危険性を警告する。
■ クレーマーとその関係者(現在)
竹山浩司
属性: 美浦市民。大柄な男。
動向: 転居届の遅れによる過料金(6,000円)が発生したことに激怒し、市役所に乗り込む。丹沢を監禁し、土下座と過料金の肩代わりを要求する。
鰐渕友泰
属性: 竹山の連れ(友人)。用心棒のような存在。
性格: 一見、穏やかで諭すような口調だが、竹山の主張を後押しして丹沢を追い詰める「なだめ役」。
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 夜7時、池袋で待ち合わせ
昼休みに入る5分前だった。住民課の電話が鳴った。
早苗「はい住民課、君本です」
交換「丹沢さんに、磯江さんという方から電話です」
女性「もしもし」
早苗「少々お待ちください。丹沢さーん、電話!」
丹沢「はい」
窓口に座っていた丹沢が事務所内へと入って行った。
早苗は電話口を押さえながら丹沢に、
早苗「彼女からよ」
丹沢「そんなの居ないよ」
そう言って電話に出た。
桃子「丹沢さんですか?」
丹沢「はい」
桃子「私、桃子です」
丹沢「えっ? すみません、ちょっと思い出せなくて」
丹沢は、必死に市民で『桃子』という名の客を思い出そうとしていた。
桃子「なぁーんだ、記憶にも心にも残ってないのね」
丹沢「すみません」
桃子「大学で同じクラブにいた桃子です」
丹沢「ああ! あのときの!」
桃子「思い出してもらえました?」
丹沢「もちろんだとも。ごめんごめん、仕事柄、美浦市民というくくりで『桃子』という人を探してしまったもんだから」
桃子「なら良かった!」
丹沢「それに卒業してから初めての電話だったから」
桃子「そうよね」
丹沢「突然にどうしたんだい」
桃子「今ね、東京に来ているのよ」
桃子の実家は福岡市博多区で、大学の頃は東京のワンルームを借りて住んでいた。
丹沢「ということは、福岡から来ているの?」
桃子「うん」
丹沢「そうかぁ」
桃子「ねぇ、今夜、会えません?」
丹沢「もちろん、ぜひ!」
桃子「じゃぁ6時では?」
丹沢「ちょっと厳しいな。今の仕事、時間通りに終わらないことが多いんだ」
桃子「じゃぁ7時?」
丹沢「うん、それなら間違いなく大丈夫だ」
桃子「じゃぁ場所は『池袋シアター』という映画館のロビーで」
丹沢「OK」
桃子「絶対に来てよ。楽しみにしてるから」
丹沢「うん」
桃子「仕事中でしょ。だから、切るね」
丹沢「うん」
電話が切れた。
君本「なんだか、嬉しそうね」
丹沢「そんなことないですよ」
君本「そうかしら?」
丹沢「市民からのクレームじゃなかったので、ほっとしているんです」
君本「そうよね、そういうことで」
お昼のチャイムが鳴り、住民課の職員がパラパラと席を立ち始めた。
丹沢は、ひとりで近くのハンバーガーショップに出かけた。
丹沢はそこでハンバーガーを食べながら、さっき電話のあった桃子のことを考えていた。
丹沢(磯江桃子かぁ、何年ぶりだ?)
丹沢(10年? そうか、大学を卒業して10年か。それがなんで私なんかに連絡してきたんだろう?)
丹沢と桃子は同じソフトテニス部に入っていた。ソフトテニス部と言ってもそれは名ばかりで、ほとんど活動はなかった。それでも約7㎡の部室は、休憩室であり部員の溜まり場となっていた。桃子は丹沢の1年後輩だった。
丹沢(独身なのかなぁ? それとも結婚しているのか?)
丹沢(あの頃、部員は何人も居たのに、なんで私の所に電話が?)
丹沢(私に気があった? う~ん、それはどうかな?)
丹沢は、大学時代の桃子のことを思い出していた。
丹沢(部室で他の部員よりは自分の方が桃子とよく話していたかもな。彼女も自分と気が合っていたのかも?)
丹沢(そうだ、一回だけ彼女のワンルームに泊まったことがあったっけ!)
【02】 桃子のワンルームに泊まる
10年前、丹沢、大学4年。桃子、大学3年。
午後3時、部室には丹沢と桃子と2人しか居なかった。
桃子「先輩、」
丹沢「うん?」
桃子「お願いがあるんですけれど」
丹沢「なんだい?」
桃子「実は最近、変な男に付きまとわれているような気がするんです」
丹沢「えっ、そうなんだ」
桃子「ここの大学生なのか、一般の人なのかわからないんですけれど、」
丹沢「うん、うん」
桃子「この前一回だけ、夜、家のドアをノックされたんです」
丹沢「えっ!」
桃子「怖くて出なかったんですけれど、ノックするだけでその人何も言わないんです」
丹沢「そりゃぁ不気味だなぁ。で?」
桃子「私もずうっと黙って、部屋の中で様子を窺っていたんです。そしたら間もなくしてその人は帰って行ったんです」
丹沢「うーん、そんなことがあったんだ。怖かったろう?」
桃子「ええ、とても」
丹沢「だよな。わかるよ、そのつらさが」
桃子「そこでお願いなんですが、」
丹沢「うん」
桃子「今日、丹沢先輩が夕食を終えたら私の部屋に来て泊まってもらえませんか?」
丹沢「えっ?」
桃子「もし、その男がどこからか私の部屋を見ているとしたら、先輩が来て泊まることによって、『この女には特定の男が居るんだ』と思うじゃないですか」
丹沢「なるほど」
桃子「でしょう。そうすれば、その男もあきらめるかなと思って」
丹沢「わかった。協力する。何時ごろ行けばいい?」
桃子「8時から8時半の間で」
丹沢「わかった。必ず行くから」
桃子「じゃぁ、お願いします」
丹沢「うん」
そう言うと二人は部室を出て行った。
その夜。
丹沢は、夕食を済ませると桃子の部屋に向かった。
丹沢「丹沢です」
丹沢が桃子の部屋をノックした。
まもなくしてドアが開いた。丹沢は、周りをぐるり
と見回してから中に入った。
桃子「すみません、来てもらって」
丹沢「その後、変わった様子はない?」
桃子「はい、今の所は何も」
丹沢「それは良かった」
丹沢は、桃子の顔をチラッと見てから、改めてなんで自分がここに呼ばれたんだろうと考えた。
丹沢(ストーカーから身を守るため? 本当にそれだけなんだろうか?)
桃子「中に入って」
丹沢「う、うん」
丹沢(身を守るために私が? それって、かえって危ないんじゃないか?)
桃子が借りている賃貸住宅は1Kだった。そのキッチンに丹沢は案内された。
丹沢「いい所に住んでるね。私の所とは大違いだ」
桃子「そうなんだ。男性が借りている部屋って見たことないからわからないけれど、中にはひどい所もあるんでしょうね」
丹沢「それ、私の部屋だな」
桃子「そう、今度見学に行こうかな?」
丹沢「いや、やめた方がいいね。トイレも風呂もないし、狭いし臭いし、きっと吐き気をもよおすと思うよ」
桃子「そうなんだ。じゃぁお風呂はどうしているの?」
丹沢「たまに銭湯だな」
桃子「たまに?」
丹沢「うん、雨の日と寒い日は行かない」
桃子「ふーん。じゃぁ、今日は入っていって」
丹沢「それは何より助かるな。外に出ないで、ひとりで風呂に入れるなんて、私にとっては夢のまた夢だよ」
桃子「そんなことが?」
丹沢「うん」
桃子「じゃぁ、お風呂入れるね。使い方、見る?」
丹沢「うん」
桃子と丹沢は一緒に浴室に行き、桃子は丹沢に風呂の使い方を説明した。湯船には、お湯がどんどん溜まっていった。
桃子「シャンプーとリンスがこれね」
丹沢「うん、わかった」
桃子「もう入れるかも。入っているうちに、自動的にお湯が止まるから」
丹沢「へぇー、便利なんだな」
桃子「これが普通なんじゃないの?」
丹沢「そうかぁ、これが普通なのか。よし、入ろう」
桃子「うん、どうぞ」
桃子は浴室から出て行った。丹沢は、衣服を脱ぎ、軽く体にお湯をかけてから湯船に浸かった。
丹沢「は~っ……、いい気分だな。最高!」
丹沢は銭湯ではなく、何年振りかのひとりぼっちの風呂を満喫した。
丹沢が風呂から上がると、布団が二組隣り合わせに敷かれていた。
桃子「お風呂、どうだった?」
丹沢「最高! 何年振りかのぼっち風呂で感激したよ」
桃子「そう、良かった」
丹沢「いつも銭湯だろう、銭湯もいいけれど、やはり気を使うしなぁ。何より一番つらいのは、銭湯までの行きと帰りだね」
桃子「雪なんか降ったら最悪ね」
丹沢「うん。こんな部屋を借りてくれた桃ちゃんのご両親に感謝するよ」
桃子「その言葉を伝えたいけれど、両親に男性を泊めたなんて言ったら仕送りを止められそうだわ」
丹沢「ははははは」
桃子「布団敷いちゃったけれど、どうする?」
丹沢「え、えっ!」
丹沢がマジに焦った。
桃子「あっ、そうか。勘違いしないで。変な意味じゃないから」
丹沢「そ、そうだよな」
桃子「ただ、旅館を真似して、先輩がお風呂に入っている間に布団を敷いただけだから。それに、うち、何もないのよ、ゲームもパソコンも。だから何もすることがないのよ」
丹沢「え、えっ!」
丹沢がまたもやマジに焦った。
桃子「あっ、バカだわ、私。余計、勘違いすることを言っちゃった?」
丹沢「い、いや、そんなことはない。大丈夫だよ。何もしないから。しかし、よく布団を二組持っていたね?」
丹沢は、最初に布団を見たときから、そのことが気になっていた。
桃子「ああ、これ。母がたまに私の様子を見に来るために用意したのよ」
丹沢「納得」
桃子「えっ、なんのためだと思ったの?」
丹沢「……」
桃子「あれっ? 何か考えているの?」
丹沢「いやっ、なにも」
桃子「あっ、そうか。私が誰かを? えっ! もしかして嫉妬しているの?」
丹沢「ははははは」
桃子「笑うところが怪しいわね。当たったのかしら?」
丹沢「ははははは」
桃子「ますます怪しい!」
丹沢「それで、お母様はここに来たことがあるの?」
桃子「一度もないわ」
丹沢「どうして?」
桃子「なんでかしら? 忙しいんじゃない?」
丹沢「今日あたり来たりして?」
桃子「まさか」
丹沢「わからないよ」
桃子「そうしたら、先輩どこかに隠れてね」
丹沢「どこに?」
桃子「そうか、隠れる所がないか」
丹沢「うん」
桃子「靴持って、窓から逃げて」
丹沢「うん、わかった」
桃子「私、お風呂に入るわ」
丹沢「うん」
桃子はゆっくり、ゆったりと風呂の湯に身を入れた。
桃子「ああーっ、いい気持ち!!!」
全身の力を抜くと腕と足が浮いてくるようだった。
桃子(もうバージンを無くしてもいいのかな?)
桃子(周りの子はみんな無くしているし)
桃子(でも、なぜ相手が丹沢先輩なの?)
桃子(部員の中にもっとカッコイイ人がいっぱい居るのに?)
桃子(理由なんてない。なんとなくよね、なんとなく)
桃子(最も口が堅くて、正義感が強いから? どうでもいいわ)
桃子(隣に寝たら、やはりあるのかな?)
桃子は湯船から出て、隅々まで念入りに洗い始めた。普段洗わないようなところまで洗い始めた。
体のすべてを洗い、また湯船に浸かった。
桃子(なんか、興奮してきちゃったわ。バカみたい)
桃子(でも、やっぱりあるわよね。ないわけがないわよね)
桃子(お互い今が青春の真っ只中だものね、いよいよ初体験かぁ)
風呂のせいなのか、なんなのか、体が火照りのぼせてきた。ザバッと立ち上がるとバスタオルを取り、体を拭き始めた。
桃子が浴室から出て、居間に行くと、
桃子「えっ!」
丹沢は寝息を立ててスヤスヤと寝ていた。
桃子「うそっ!」
丹沢は今朝がたまで部活の仲間達と徹夜麻雀をしていた。それがたたったのだ。肝心なときに寝てしまっていた。
桃子「私にはまったく関心がないのかしら?」
桃子(ショック!)
こうなっては桃子も黙って寝るしかなかった。桃子は布団に入り電気を消した。
桃子(横になってはみたものの、何か悶々として眠れないわ)
桃子(二人きり、風呂上り、真っ暗。こんなに良い条件は無いのに……)
丹沢「スーッ、スーッ、スーッ、スーッ」
丹沢の寝息は、その間隔を一定に保っていた。
桃子(気持ち良さそうに寝ているわね。でも、ずうっと聞いていると何か悔しくなるわ)
桃子(ちょっと、お腹の脇を指で突っついてみようかしら?)
桃子(そうしたら、起きるかな? ふふふふふ)
桃子は迷うことなく丹沢の脇腹を人差し指で突っついた。
丹沢が一瞬みけんにしわを寄せ、
丹沢「ううーん」
苦悶の表情を見せた。が、丹沢は意識を戻すことはなかった。すぐにまた寝入ってしまった。
桃子「なんだこの先輩は? うちに寝に来たのか? もう!!!」
桃子はあきらめて本格的に寝ることにした。
【03】 クレームの電話
市役所の電話交換。
交換「はい、美浦市役所でございます」
市民「住民課長につないでくれる?」
交換「どちら様でしょうか?」
市民「そんなこと、いちいち聞くのかね」
交換「住民課長からそのようにおおせつかっております」
市民「じゃぁ、昔の親友だと伝えてくれ」
交換「わかりました。今、おつなぎします」
住民課長席の電話が鳴った。
課長「はい、鬼塚ですが」
市民「あんたが課長さんかい。お宅の職員、ちょっと、ひどいんじゃないか? そいつのお陰で、6千円の罰金が来たぜ、どうしてくれるんだい?」
課長「すみません。よくお話がわかりませんで。詳しく話していただけませんか?」
市民「ああ、いいよ。転居の届を出そうと思ってそちらに電話をしたら『転居の半年後、1年後でも大丈夫』って言うから、転居して8ヶ月後に出したら、6千円の罰金が来たんだよ」
課長「それは、すみませんでした。誰が電話に出たか、名前とか、わかりますか?」
市民「名前は言ってなかったなぁ。若い男性の声だったな。転居届の担当者で、窓口にも出るし、電話にも出るようなことを言ってたな」
課長「わかりました。調べて5時までに折り返し電話いたします」
市民「ああ、待ってるよ」
住民課長が相手の電話番号を聞いて電話を切った。
そして、電話を切るやいなや電話交換手に電話した。
課長「もしもし、今、誰が俺に電話をつないだんだ! クレームの電話が来たぞ。『知らない奴からの電話は繋ぐな』って、あれほど言ったろ! 誰が繋いだか調べて、後で報告書を持って来い!」
課長がガチャンと電話を切った。
課長「丹沢! ちょっと」
課長が自席から大声で丹沢を呼びつけた。
丹沢は、窓口で転居の届を受け付けている最中だった。丹沢の耳に課長の言葉が入らなかった。
課長「丹沢!」
やっと、丹沢がその声に気づき、後ろを振り返った。課長が手招きをしていた。
その様子を見ていた隣席の明石春菜がたまらず、
春菜「いいわよ、私が代わるから」
春菜が立ち上がり、丹沢の席に行った。
女客「なんなのあの人?」
丹沢「課長です」
女客「あの人は、客より自分の方が大切なのね。私が話している最中だって言うのに」
丹沢「すみません」
女客「ここの市役所もひどいものね」
丹沢「すみません」
女客「いいのよ、謝らなくて。あなたはちっとも悪くないんだから」
丹沢「では、担当を交代させていただきます」
春菜「明石と申します。私が後を引き継がせていただきます。よろしくお願いいたします」
女客「わかったわ」
丹沢が課長席へと向かった。
課長「今、市民からクレームの電話があった」
丹沢「はい」
課長「お前のせいで、6千円の罰金が来たそうだ」
丹沢「住民異動届の遅れによる過料金ですか?」
課長「いや違う。転居届の罰金だそうだ」
丹沢「……?」
課長「なんでも、『半年後、1年後でも大丈夫』と、お前に言われたそうだ」
丹沢「『私に』ですか?」
課長「ああ。困ったもんだな」
丹沢「言った記憶はありませんが、」
課長「相手は、お前だと言っている」
丹沢「そうですか」
課長「職員みんなが、同じことを言っているのか?」
丹沢「住民課の職員が、そんなことを言うとは思えませんが」
課長「もういい。戻ってくれ」
丹沢「はい」
丹沢が窓口へ戻った。
丹沢「明石さんすみません」
春菜「いいえ」
丹沢「また、担当が代わりますがよろしいですか?」
女性のお客に向かって言った。
女客「そうね」
春菜「異動届の確認が終わったところです」
丹沢「わかりました」
春菜が隣の自席へと戻った。
丹沢「お客様、今日、印鑑登録証ってお持ちですか?」
後ろの課長席で。
課長がクレームを付けた市民に電話した。
課長「もしもし、竹山さんのお宅ですか?」
竹山「はい」
課長「先程の件、お詫びさせていただきますので、今日の午後5時半に来てもらえますか?」
竹山「はぁ?」
課長「5時半です」
竹山「行くのかよ?」
課長「はい」
竹山「なんで行くんだよ?」
課長「市役所なら場所わかりますよね。お宅に行くんじゃ迷惑でしょ?」
竹山「わかった。5時半だな」
ガチャ! 電話は一方的に切られた。
課長が再度丹沢の所にやって来た。
課長「丹沢、クレームを付けている竹山さんが5時半に来るから対応してくれ、すべて任せるからな」
丹沢「向こうからひとりで来るんですか?」
課長「ああ」
丹沢「そうですか」
課長「さて、どこで話をしようかな?」
丹沢「そこの戸籍受付窓口でいいんじゃないですか?」
課長「そこか?」
丹沢「戸籍受付窓口なら他のカウンターと違って、お互い座って話せますからね」
課長「窓口はないだろう! せっかく来てもらえるというのに。部屋を取って、上座に座ってもらう方がいいな。ちょっとどこか開いている部屋を見て来るわ」
そう言うと課長は住民課を出て行った。
それから10分後。
課長「丹沢、入札控室が取れたからそこでやる。わかったな」
丹沢「入札控室ですね、わかりました」
課長はそれだけ言って自分の席へと戻って行った。
それを聞いていた明石春菜が
春菜「大丈夫なの、そんな部屋の中で? この前、警察の人が『クレーム対応は必ず広い所、第三者から見える所で行ってください』と、言ってたわよ」
丹沢「それって、どういう意味ですか?」
春菜「部屋に入っちゃうと、誰からも見られないから、刃物でも出されたら大変でしょう。しかも出口を塞がれたら逃げ場がないわよ」
丹沢「なるほど」
春菜「まったくあの課長にも困ったものね」
丹沢「まぁ、いいさ。相手もひとりだって言うから。こっちは課長と二人居るから脅かされてもなんとかなるだろ」
春菜「そうね。なんかあったら、二人で椅子を投げつけるのね」
丹沢「ははははは」
午後5時半となった。しかし、クレーマーの竹山は来なかった。市役所の職員のほとんどが帰り始めた。
午後5時50分。住民課の職員も丹沢と課長とあと二人しか残っていなかった。周りの課では、税務課、収税課、生活支援課などで、各課数人ずつが残っていた。
午後6時。課長は席に座って天井を見ていた。丹沢は残務整理をしていた。そこに大柄な男二人がやって来た。電話をかけてきた竹山浩司とその連れの鰐渕友泰である。
竹山が住民課のカウンターから丹沢に話しかけた。
竹山「呼び出された竹山だけれど」
丹沢(呼び出された? しかも二人?)
と、思った、が、丹沢は立ち上がり、カウンターで
丹沢「お待ちしておりました」
と、深々と頭を下げた。そして、課長席まで行くと、
丹沢「課長、竹山様がお見えになりました」
課長「うん」
課長が立ち上がりカウンターに居る竹山の所へ行った。
課長「部屋を用意しましたので、今ご案内します」
【04】 丹沢、監禁される
課長、丹沢、そして竹山、鰐渕、合計4人が1階の隅にある入札控室に入った。入札控室とは、入札を行う業者の待合室で椅子が20脚、机が10台、置かれている。
課長「どうぞ奥へ」
課長が部屋の奥へと手を伸ばした。
竹山「いいよ、あんた方が奥へ行きな。我々はすぐ帰るから」
課長「そうですか、では」
課長と丹沢が一番奥へと進んだときだった。
竹山と鰐渕が机を持ち上げ二人に投げつけた。机は二人に当たらないように、二人の近くに叩きつけられた。
丹沢はビクッとし、課長は慌てた。
竹山「ふざけんじゃねぇよ!」
大声を上げた。
竹山「お前んところは、謝るのに人を呼びつけるのか? 普通、そっちから菓子折りのひとつも持って来るのが当たり前じゃねぇのか?」
課長「すみません」
丹沢「すみません」
丹沢の前に裏返しされた机がそのままとなっていた。
竹山「まぁいいや、座れや」
丹沢と課長が折りたたみのパイプ椅子に座った。
すると、竹山と鰐渕はドアの所に机を2台、机上が広くなるように置き、その上に机を1台ひっくり返して置いた。
丹沢(バリケードだ。これで完全に出口は塞がれた。明石さんの言ってた通りになったぞ)
縦長10畳ぐらい、うなぎの寝床のような部屋の一番奥に丹沢と課長、出入口付近に竹山と同伴者が座った。その距離は6mぐらいあるだろうか。
丹沢(この二人に会ったことも無ければ、声を聞いたことも無い。この同伴者は誰なんだ? 用心棒か?)
課長は、何も言わず黙っていた。
丹沢(最悪だ!)
竹山が丹沢を指さし、
竹山「お前か? 『転居届は、転居の半年後、1年後でも大丈夫』と言った奴は?」
丹沢「いえ、私ではありません」
竹山「じゃぁ、一体誰が言ったんだよ。ええっ!」
丹沢「……」
竹山「課長、一体誰が言ったんだ!」
課長「この丹沢ではないかと」
竹山「やっぱり、お前か。俺をごまかそうとしているな」
丹沢「そんなことはありません。少なくとも私ではありません」
竹山「じゃぁ、住民課の誰かが言ったというのは認めるな?」
丹沢「いえ、住民課でそう言うことを言うものは居ないはずです」
竹山「じゃぁ、俺の聞き間違いだと言うんだな?」
丹沢「そうとも言ってません。何か会話の行き違いとか、お互いに認識のずれがあったとか、そういうたぐいであったのでは?」
竹山「じゃかましい!」
丹沢「……」
竹山「とにかく、あんたは自分たちの非を認めないんだな?」
丹沢「はい」
ガシャン! 竹山がいきなり自分の前の机を蹴り倒した。
竹山「いいか!」
竹山がポケットから6千円の過料金通知を取り出して見せた。
竹山「こいつは、払わねぇからな。お前たちのミスで来た通知だ。だからお前たちが払え」
竹山がポンと通知を丹沢と課長が座っている方へと投げた。
竹山「拾えよ」
課長が拾った。
竹山「いいか、それをお前たちが払うことを約束して、お前が、」
竹山が丹沢を指さした。
竹山「『私が悪うございました』と、土下座して謝ったらここから出してやる」
丹沢「……」
課長「……」
竹山「ああ? 土下座できねぇのか?」
丹沢「……」
課長「……」
竹山「何黙っているんだよ!」
丹沢「私どもの責任ではありません」
竹山「なんだとぉ!」
ガシャッ! 竹山が思いっ切り倒れた机を蹴った。
隣に座っていた鰐渕が初めて口をきいた。
鰐渕「俺は、こいつの友人なんだが、今まで黙って聞いていたところ、どうもお前さんが。お前さん名前は?」
丹沢が胸に着けていた名札を左手で前の方に出し、
丹沢「丹沢です」
鰐渕「丹沢さんか、あんたが間違って説明したのが原因としか思えないんだよな。だから、ここは、あんたが土下座して両手を着いて竹山さんに謝るしかないだろう?」
諭すように、丁寧に言った。
丹沢(こいつはガタイがいい割には、なだめ役か?)
丹沢「……」
鰐渕「課長さん、課長さんは誰が間違った説明をしたと思っているんですか?」
課長「ええー」
鰐渕「はっきり言った方が、職員のためですよ」
課長「この丹沢かと」
丹沢(えっ! 課長までがそっちの味方?)
鰐渕「ほら、わかっている人は、ちゃんとわかっているんですよ。だから、課長をやってらっしゃるんでしょう。さすがだ!」
丹沢(このバカ課長めが。3対1かよ……)
鰐渕「丹沢さん、早く謝ってここから出ましょうよ。あんただって無駄な時間は使いたくないでしょう?」
丹沢(そうだ! すっかり忘れていた。その言葉だけは、その通りだ! 池袋で桃子と待ち合わせしているんだった!)
丹沢は、相手にわからないように腕時計をチラ見した。6時40分。
丹沢(もう約束の時間に間に合わない。電車で行って40分はかかる。無理だ)
丹沢「……」
4人での膠着状態が続いた。
竹山「どうしても謝らないって言うのなら、いいですよ。お金で解決しましょう。こちらで6千円支払う代わりに、慰謝料、タクシー代、今日の賃金と手数料、込み込みで10万円で手を打ちましょう」
鰐渕「丹沢さんが、支払うのは無理だと言うのなら、課長さんが払ったっていいんですよ」
課長「私が?」
課長がとてつもなく驚いた表情を見せた。
鰐渕「ええ、そうですよ」
課長「丹沢君、いい加減謝ったらどうなんだね。君のミスなんだろう?」
丹沢「私は言ってません」
課長「君が言ってなくても、他の誰かが言ったのなら、君が代表して謝ればいいんだよ」
丹沢「……」
丹沢(それは課長の仕事だろう。なんで私が課の代表なんだ!)
それから1時間が経った。
竹山「お前ら、ここで一泊したいのか?」
丹沢「……」
課長「……」
竹山「いいかい、人間には、『限度』ってものがあるんだよ。これ以上長引くようなら」
鰐渕「あんたら、無事帰りたいんだろう? 奥さんやお子さんが家で待っているんじゃないのかい?」
丹沢が腕時計をチラ見した。夜8時。
丹沢(8時かぁ)
丹沢(これから行っても9時になりそうだな)
丹沢(桃子、帰っちゃったかな?)
丹沢(どうする?)
丹沢(ここで、このまま終わるのか?)
丹沢(池袋へ行くだけ行ってみるか?)
丹沢(桃子がもし待ち続けていたら?)
丹沢(ここで会えなかったら『約束破り』と思われ、一生会えないかも?)
丹沢(どうする、どうする?)
丹沢(もう限界だな。ここで決断しないと……)




