87 ♡爽香、入院する(前編)~「へんたーい、止まれ!」~
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【あらまし】(お見舞いをめぐる心理の攻防戦エピソード)
『ボートレース鳴門』ヴィーナスシリーズ。不慣れな安定板と強風に翻弄された速水爽香は、起死回生の一撃を狙ったターンで接触事故を起こし、水面に投げ出されてしまう。
全治3カ月の肋骨骨折。地元の美浦第一病院に転院した彼女を待っていたのは、市役所トリオ(丹沢・由利・茂木)による、愛と毒舌が入り混じる「お見舞い攻勢」だった!
日替わりで届けられる好物を前に、爽香の心も少しずつ解きほぐされていく。
しかし、そんな穏やかな入院生活に激震が走る。病室に現れたのは、事故の相手選手である美貌のレーサー・水谷早織。謝罪から始まった対面は、いつしか丹沢を巡る女の意地と駆け引きに発展し……。
「あんたみたいな女ったらし、のしを付けて差し上げます!」 強気な爽香と、余裕の笑みを浮かべる早織。レース場外の「女の戦い」が今、幕を開ける!
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【主な登場人物】
速水爽香 22歳女 女子ボートレーサー
水谷早織 32歳女 女子ボートレーサー
丹沢純也 32歳男 美浦市役所住民課主事
由利源吾 32歳男 美浦市役所税務課主事
茂木数魔 32歳男 美浦市役所情報統計課主事
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 爽香、事故る!
『ボートレース鳴門』 4日目 4R オールレディース
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1枠 井口 莉加 29歳 A1級 勝率6.12 モーター- 334616
2枠 速水 爽香 22歳 B2級 勝率4.16 モーター○ 345 23
3枠 東山 晴海 47歳 B1級 勝率4.35 モーター◎ 54 456
4枠 水谷 早織 32歳 A2級 勝率5.70 モーター× 121621
5枠 山科 由樹 48歳 A2級 勝率5.87 モーター△ 1122 2
6枠 大黒 めい 25歳 B2級 勝率1.74 モーター- 6 5666
※『モーター』のうしろの印はモーターの予想印。その後の数字は前走成績
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速水爽香は、『ボートレース鳴門』に出場していた。ヴィーナスシリーズ、4日目第4レース2号艇。
天候曇り、風速5m、波高5cm、安定板使用。
『安定板』とは、ボート走行を安定させるため、エンジンの下部に取り付けられるU字型のアルミ板である。強風や波が高いときに装着される。
実況「10秒前、5秒前、3、2、1、スタート!」
ほぼ横一線の綺麗なスタートだった。1周1マーク安定板を装着し海水でのターンは、爽香にとって不慣れだった。ターンが大きく流れた。そこを次々と差され、バックストレッチでは5番手。
爽香(しまった! なんとか3着に入らないと、賞金にありつけない!)
1周2マークは、そのまま5着を走っていた。
2周1マーク。3番手、4番手がコースの外側を走っているのを見て、爽香は果敢にインコースを強引に突っ込んで行った。
爽香は焦りを生じていた。そして鋭角にターンをするはずが、
爽香「あっ!」
そう声を上げた瞬間には、爽香は3番手のボートにサイドをぶつけていた。ボートが止まった。そこに4番手のボートが爽香のボートに乗り上げて来た。
爽香「うっ!」
4番手ボートの舳先が爽香の左わき腹にぶつかった。その勢いで、爽香は水中に放り出された。
爽香は、動けなかった。水面に浮くと、顔を空中に出すのがやっとだった。コース奥に事故を知らすランプが灯った。それからしばらくして救助艇がやって来た。爽香は自力で救助艇には上がれなかった。係員2人がやっとのことで爽香を甲板に引き上げた。
爽香「うーっ」
爽香の顔がゆがんだ。
【02】 美浦第一病院に転院
事故から2週間後。
爽香は、鳴門市にある病院から美浦市の美浦第一病院に転院した。事故当時は、緊急でボートレース場のある鳴門市で入院したが、病状も落ち着き爽香の住む美浦市へと病院を移した。
爽香の病状は、胸部単純X線(胸部レントゲン)及び胸部CTの結果、左第4~6肋骨の骨折だった。コルセットを胸に装着し、安静が必要となった。
美浦第一病院に転院すると、爽香はLINE『輪多輪多会』で、転院したことを報告した。同期のレーサーである真波と千加は、開催者の管理下に置かれていることもあり、すぐにLINEを見られるとは限らなかった。
一方男性たち3人は、いつでもLINEを見ることが出来た。市役所のお昼に、3人は、近くのそば屋で一緒に食事をし、話をした。
丹沢「速水さん、美浦第一病院に入院しているんだな」
由利「ああ、どのくらい入院するんだろう?」
茂木「さっぱりわかりませんね」
丹沢「でも、転院出来たということは、事故当時から比べたらいくらか良くなったってことだよね」
茂木「でしょうね。ネット上のツイッターでは、誰かが肋骨の骨折だと書いてありましたが」
丹沢「肋骨の骨折って、大変なのかい?」
茂木「調べたところ、コルセットを巻いて1、2か月安静にするそうですが」
丹沢「そうか。じゃぁ、ベッドの上で寝ているかな?」
茂木「そうかも知れませんね」
由利「3人で行ってみる?」
茂木「そうですね。丹沢さんは?」
丹沢「ああ、大丈夫だよ」
由利「じゃぁ、早い方がいいな、今晩にでも行ってみようか?」
茂木「そうしましょう」
丹沢「見舞い金と見舞い品は?」
由利「病院の中でお金を持っているのは良くないだろうし、今回は見舞い品だけでいいんじゃないか? お金は退院のときに『快気祝い』で」
茂木「そうですね」
丹沢「彼女はこっちに身寄りが居ないから、見舞金を渡しても誰かに預けることが出来ないか。そうだな」
茂木「見舞い品は、日持ちしそうなスイーツ類を買っていきましょう」
丹沢「茂木さんに任せても大丈夫かな?」
茂木「いいですよ。菓子店の『ショコレーゼ』で、買っていきます」
丹沢「うん、お願いします」
由利「助かるよ」
丹沢「じゃぁ、病院の夕食が終わる7時に、病院のロビーで」
由利「わかった」
茂木「はい」
【03】 変態男3人でお見舞い
夜7時、美浦第一病院。
ロビーに3人が集合した。茂木が「バウムクーヘン」「マドレーヌ」「フィナンシェ」などが入った洋菓子詰め合わせと、高級チョコの詰め合わせを用意した。
爽香は、個室に入っていた。3人が病室に入ると爽香は眠っていた。
茂木「寝てますね」
由利「うん」
丹沢が布団の裾から手を入れて爽香の左足に触れた。
丹沢「温かい。生きてるな」
由利も真似して、爽香の右足に触れた。
茂木は、爽香の右手を握った。
丹沢がポケットにあった、コンビニでもらった紙おしぼりを出し、爽香の足を拭きだした。
爽香は足がヒヤッとしたのでそれに気づいた。
爽香「へんたーい、止まれ!」
茂木がぴくっと動いた。
丹沢「ああ、起こしちゃった?」
爽香「そりゃ起きるわよ。人の体を勝手に触って」
丹沢「足を温めていたんだよ」
由利「そうそう。女性は足が冷えるって言うから」
茂木「私は、手を握って励ましてました」
丹沢「気持ち良くなってドーパミンが出ると思ったんだよ」
由利「どんな風に出るんだい?」
丹沢「ドーパーってね」
由利「ははははは」
爽香「あんた方、揃いも揃って、一種の痴漢でしょう?」
丹沢「そんな変な所は触ってないよ」
爽香「ホントかしら? でも私が止めなかったら、変な所まで触っていたんじゃないの?」
丹沢「誰が触るか!」
爽香「触るんなら、ちゃんと先に料金を払ってよ」
丹沢「ははははは」
由利「ははははは」
由利「私たちは速水さんの看病をしていたんです」
爽香「どこがよ?」
由利「看病の『看』の字は、『手』と言う字と『目』言う字を組み合わせて出来ています。つまりですね、私たちは、温かい手、温かい目で速水さんの『病』を治そうとしていたのです」
茂木「さすが由利さん!」
丹沢「教養あるね。いつから?」
由利「今日よう!(教養)」
爽香「まだ、そのギャグ使ってるのね」
由利「はい。ギャグは永遠に使うことが大事です」
丹沢「そうそう、ギャグは永遠に不滅だから」
爽香「あっそう」
爽香がわざと冷たく言った。
由利「速水さんの足があまりに美しかったので勇気を出して触ってしまいました。謝ります」
爽香「別に謝らなくてもいいわ。でも、なんで勇気が要るの?」
由利「勇気の『勇』の字は、」
爽香「あら、まだ続きがあったのね」
由利「『男』に『マ』が差す。と言うことです。そんな気持ちにさせるほど速水さんの足は美脚でした」
爽香「よく言われる」
丹沢「ははははは」
爽香「笑うな! 由利さんは、教養あるね。いつから?」
由利「今日よう!(教養)」
茂木「ははははは」
爽香「でも、嬉しいわ。3人揃って来てくれるなんて」
茂木「良かった!」
由利「患者の『患』の字は、」
爽香「あら、まだ続きがあったのね。第3弾?」
由利「『心』に『串』と書きます。つまり患者は『心』に『串』が刺さった状態です。だから私たち3人で『串』を取り除けば、いつもの速水さんの『心』に戻れるのです」
爽香「由利さんって教養あるのね。いつから?」
由利「今日よう!(教養)」
爽香「ははははは」
丹沢「ははははは」
由利「ははははは」
茂木「ははははは」
四人で大笑いした。
丹沢「しかし元気そうだな」
爽香「そうよ、元気よ。それより、左足は誰が触っていたんだっけ?」
茂木「丹沢さん」
爽香「私の足を舐めていなかった。なんか冷たかったわよ」
丹沢「誰が水虫の足を舐めるか!」
爽香「勝手に水虫にしないでよ」
茂木「丹沢さん、コンビニでもらったおしぼりで速水さんの足を拭いていたんです」
爽香「誰も頼んでないわよ。この変態男が」
丹沢「ははははは」
【04】 爽香、3人に見舞品を要求
由利「まぁまぁまぁ。とにかく元気そうで良かった」
茂木「どうなんですか、具合は?」
爽香「肋骨の骨折が3本。全治3カ月ね」
茂木「そうですか。大変でしたね」
爽香「でも、全部私が悪いの。私が2周1マーク、無理矢理突っ込んだからね。自業自得よ」
茂木「入院はどのくらいするんですか?」
爽香「2カ月で出られるようなことを言ってたわ。あとはリハビリね」
茂木「そうですか?」
由利「寝てないといけないの?」
爽香「そんなことはないけれど、骨がくっつくまでは、とにかく安静ね」
由利「そうか」
丹沢「じゃぁ、ヒマでヒマでしょうがないだろう?」
爽香「そうね。それはそうだけれど、その言い方なんとかならないの?」
由利「ははははは。悪気はないんだろうけれど」
爽香「そうよ、ヒマよ。そうだ! だったら3人がひとりずつ順番に見舞いに来てよ」
茂木「えっ?」
爽香「そうね、月木が茂木さん。火金が由利さん。水土が丹沢さん。これでどう?」
丹沢「勝手に決めるな」
爽香「どうせ、そっちだってヒマなくせに」
丹沢「しょうがないなぁ。忙しいけれど、来てやるか」
爽香「そうだ、来るときは必ず何か持ってきてね」
茂木「そう言えば、お見舞い持ってきました」
茂木がお菓子の詰め合わせの箱をふたつ爽香に見せた。
茂木「3人からです」
爽香「あらっほんと!」
茂木「はい」
爽香「嬉しいわ。中身なに?」
茂木「洋菓子の詰め合わせと、チョコレートの詰め合わせです。日持ちしますから」
爽香「いいわね。でも太りそう」
茂木「退院したら、自主トレをすればいいですよ」
爽香「そうね」
丹沢「誰も見舞いには来ないんだろう?」
爽香「鳴門の病院では、開催の最終日に何人か来たけれど、そのあとは誰も来なかったわ。こっちでも誰も来ないかもね」
由利「レーサーは、みんなあちこち飛び回っていて忙しいからな」
茂木「それに、全国バラバラに住んでいますからね」
爽香「いいの、いいの。ボートレーサーは、遠いから来るのは無理よ。地元のあなた方3人さえ来てくれれば、これ以上嬉しいことはないわ」
茂木「じゃぁ、早速、来週の月曜日、私が来ます」
爽香「ほんと? 嬉しい!」
茂木「何が欲しいですか?」
爽香「じゃぁ、ブルーベリー大福!」
茂木「わかりました」
由利「火曜日は、何にしましょう?」
爽香「じゃぁ、まつたけ最中!」
由利「えっ、そんなのあるの?」
爽香「茨城のお土産ね」
由利「じゃぁ、探してみるよ」
爽香「うん。で、丹沢さんには……?」
丹沢「なんだい? 何がいいの?」
爽香「坂東太郎のうなぎの蒲焼ね」
『坂東太郎』はうなぎの品種で、牛肉でいえば霜降り肉のような贅沢な味わいがある。
丹沢「『坂東太郎』? 前の二人と値段が違い過ぎやしないか?」
茂木「その『坂東太郎のうなぎの蒲焼』っていくらぐらいするんですか?」
丹沢「1万円ぐらいじゃないか?」
茂木「えっ!」
由利「それよりも、手に入れるのが難しいだろう?」
爽香「いいの、いいの。1万円ぐらい安いもんよ。どうせソープランドで2万円ぐらい使うんだから。それに比べたら半額よ」
丹沢「大きなお世話だ! 誰がどこへ行こうと勝手だ」
茂木「速水さんは、丹沢さんのこと、なんでも知ってるんですね」
爽香「そうよ。だから変態だってことも知ってるのよ」
丹沢「ははははは。まぁいいや。どこかで坂東さんを探してみるよ」
由利「そうそう。利根川あたりを歩いているかも知れないからな」
爽香「丹沢さん、ありがとう!」
爽香はお礼の前払いをした。
【05】 茨城県の見舞い品
翌週月曜日の夜。
茂木は、ブルーベリー大福を持って爽香の病室にやって来た。
茂木「ブルーベリー大福です」
爽香「えっ、本当に?」
茂木「本当です」
爽香「よく見つけたわね!」
爽香が驚き笑顔を見せた。
茂木「ええ、ちょっとてこずりました。でも爽香さんのために一生懸命探しました」
爽香「茨城県に住んでいた頃、学生時代にブルーベリー大福を食べて、すごい感動したのよ。こんなおいしい物があるんだって。その時は友達の家に遊びに行って、そこで出してくれたのね。とても自分では買えなかったわ。ウチ、貧乏だったし」
茂木「そうでしたか。じゃぁ、ぜひ食べてください。あちこち探したら、デパートの地下で売っていました。でも、これは能登産だったと思います」
爽香「他の県でも作っているんだ。知らなかった」
二人は、早速箱を開けてブルーベリー大福を口にした。
爽香「おいしい! これよ、これ!」
満面の笑みで喜んだ。茂木は、その笑顔を見てほっとした。
茂木(速水さんて、こんなに無邪気で純情なんだ)
茂木は、爽香がブルーベリー大福を食べているのを見ているだけで、自分も幸せになるのを感じた。
茂木(好きな物を食べているだけでも幸せになれるんだ。本人も、周りも)
茂木は学生の頃、母が作った料理を食べ、母が喜んでいる顔を思い出した。
爽香「茂木さん、ありがとね」
茂木「どういたしまして。次は何にしましょうか?」
爽香「そうね、次は『ポッチャンプリン』ね。私、あれ大好きなの」
茂木「わかりました。今度は簡単な宿題ですね」
爽香「そうよ、毎回難問じゃ探すんじゃ大変でしょう?」
茂木「大丈夫ですよ。こんな時ぐらいしか、速水さんのお役に立てないですから」
爽香「茂木さんて、やっぱり、あの3人の中で一番優しいのね」
茂木は、黙って照れていた。
火曜日の夜。
由利が、まつたけ最中を持って爽香の病室にやって来た。
由利「どう? 体調は?」
爽香「ええ、いいわ」
由利「言われたお見舞いの品、持って来たよ」
爽香「えっ、あったの?」
由利「うん、もちろん」
爽香「えっ、どこに?」
由利「言われてすぐに、ネットで頼んだ」
爽香「そうなんだ」
由利「うん、いくつかのネット通販で売られていたから、どれにしようか迷ったけれどね」
爽香「あっ、そう。いくつかあるんだ」
由利「うん、どれも美味しそうだった」
爽香「早速食べてもいい?」
由利「もちろん!」
由利が箱を開けて、ひとつ差し出した。
爽香は、ひとくち食べて、
爽香「う~ん、これこれ。この味、懐かしいなぁ~」
由利「それは良かった」
爽香「ありがとう」
由利は少し照れていた。
爽香「これを食べたら、昔を思い出したわ。元気になれそう」
由利「そうかい。じゃぁ、元気になったら、またプールで練習だな」
爽香「へへへへへ」
しばらく会話が続き、
由利「次回は、何がいい?」
爽香「そうねぇー、じゃぁ『金座フージーコーナーのジャンボシュークリーム・ホイップ&カスタード』がいいな」
由利「随分、長い名前だな」
爽香「うん。私、シュークリームは、2種類のクリームが入っているのが好きなの」
由利「う~ん」
爽香「そして、大きければ大きいほどいいのよ」
由利「ははははは」
爽香「そんな、笑う?」
由利「貧乏人と言うか、大食いと言うか、そういう飾らないところが速水さんらしいと思ってさ」
爽香「だって、本当に貧乏人だし、飾ったってしょうがないじゃない。美味しい物は美味しいし、あれ大好きなの!」
由利「わかった。必ず買って来るよ」
爽香「お願いね」
由利「うん」
【06】 坂東太郎は留守だった
水曜日の夜。
丹沢が、うなぎの蒲焼を持って爽香の病室にやって来た。
爽香は、ベッドの上でウトウトしていた。ドアが開いたのに気づいたが、そのまま目をつぶっていた。
丹沢は爽香に近づき、蒲焼をテーブルの上に置くと、布団の中の爽香の右手を握った。
爽香がドキッとした。
爽香(丹沢さん? なんだ、この手は? ちょっと意地悪してみようかな?)
爽香(この手をボートのハンドルだと思って、上に回してみようかな?)
爽香が、ボートのハンドル捌きのように、丹沢の手を上に回した。
丹沢(うん? なんだ? レースの夢でも見ているのか?)
丹沢が今度は、布団の中で、左手を爽香の胸の上にそっと置いた。
丹沢「胸、薄っ!」
爽香「コルセットで締め付けているのよ。本当は爆乳なんだから」
丹沢「なんだ、起きていたのか」
爽香「そうよ、あなたが何をするのか試したのよ。やっぱり変態ね」
丹沢「ははははは。自分でもそう思う。でも、こんなことするのは、速水さんにだけだよ」
爽香「なんで、私だけなのよ?」
丹沢「好きなのかな?」
爽香「えっ! 今、なんて言ったの」
丹沢「隙があるからかな?」
爽香「うそ!」
丹沢「そうだ、蒲焼を持って来た」
丹沢が話題を変えた。
爽香「そうだった、頼んだのを忘れていたわ」
爽香は、『好き』発言について、それ以上追求しなかった。
丹沢「ごめんよ」
爽香「何が?」
丹沢「坂東さんが留守で、見つからなかったよ。ゴメン!」
爽香「いいのよ。多分、そうだと思っていたから」
丹沢「そんなに居ないのかなぁ?」
爽香「私は一度も食べたことがないけれど、レーサーの先輩たちが言うには、なかなか食べられないって」
丹沢「そうなんだ。私も食べたことがないし、うなぎに知り合いが居ないからなぁ」
爽香「まぁいいわよ。死ぬまでに一回食べられれば」
丹沢「そうだね。ところで、その胸のコルセットってどのくらいの期間しているの?」
爽香「6週間ぐらいかな? その後は、バストバンドかサポーターで」
丹沢「そうか。それって、胸がかゆくなることはないの?」
爽香「変態な質問ね」
丹沢「そうかい?」
爽香「かゆいわよ今も。『掻いてあげましょうか?』って言うんじゃないでしょうね?」
丹沢「誰が言うか! ……揉もうか?」
爽香「バカ!」
丹沢「実はね、お土産をもうひとつ買って来たんだ」
爽香「えっ、そうなの? うなぎパイとか?」
丹沢「それもいいね。でも違うんだ。これ」
丹沢は、ポケットからチタン製の耳かきと、ステンレス製の伸び縮みする孫の手を出した。
丹沢「耳かきと孫の手。薄くて丈夫で長いのを買って来たから、何とか潜り込めるんじゃないかな?」
爽香「あらっ、嬉しい!」
丹沢「速水さんの、その太い指じゃ、コルセットに入らないだろう?」
爽香「『太い』は余計よ! それに日本語が間違ってる。正しい日本語は『太い』じゃなくて『白魚のような』よ。言ってみて?」
丹沢「速水さんの、その白魚のような指じゃ、コルセットに入らないだろう?」
丹沢は、言いながら途中で爽香の指を掴んだ。
爽香「そうね、私の白魚のような指でも無理だわ」
丹沢「満足した?」
爽香「うん。ねぇ、」
爽香は『ねぇ、キスして?』と言おうとして、やめた。
丹沢「なに?」
爽香「ううん、なんでもない」
丹沢「そう?」
しばらくして、
丹沢「さて、帰ろうかな?」
爽香「もう?」
丹沢「うん。明日も仕事があるし、ちょっと調べ物があるんだ」
爽香「そう、忙しいんだね」
丹沢「また来るから」
爽香「うん。今度は手ぶらでいいよ。今日、二回分もらったから」
丹沢「うん、わかった」
丹沢は、後ろを振り向きもせず帰って行った。
爽香は、何か物足りなさを感じていた。




