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女子ボートレーサーと市役所職員  作者: 池井 けい
第9章 医療と人々
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86/110

86 ♡あの時の女医と看護師(その3) ~「忘れてください」~

【06】 残業はボランティアだろ


 翌朝、住民課事務室。

早苗「天満さんから聞いたわよ、昨日は遅くなったんですって。お疲れ様です」

若石「いつものことですよ」

早苗「でも、いつもにまして遅かったんじゃないの?」

若石「ええ、まさかハンコを持っていないとは思いませんでしたから」

早苗「私は定時で帰っちゃったから知らなかったけれど、そんなお客様だったの?」

若石「でも、なんとか婚姻届を受付できたので良かったですよ」


 課長(鬼塚厳司)が出勤してきた。

課長「おはよう」

早苗「昨日、若石さんが8時半まで婚姻届の受付をしていたのですが」

課長「それで?」

早苗「ですから、」

課長「残業代をつけろってことか?」

早苗「まぁ……」

課長「若石!」

若石「はい」

課長「ちょっと来い!」

若石「はい」

課長「昨日、8時半まで居たのかっ?」

若石「はい」

課長「何をして残っていたんだい?」

若石「婚姻届の受付です」

課長「その客は何時に来たんだい?」

若石「終わる時間、夜7時ちょうどぐらいです」

課長「そんなの帰しちゃえばいいんだよ」

若石「はい」

課長「そんな時間に来る方が非常識だろう」

若石「はい」

課長「君はボランティアで受付したんだよな」

若石「はい」

課長「だから残業代なんて付けられないよ」

若石「はい」

課長「くれぐれも『サービス残業をしてる』なんて他人に言わないでくれよ。俺が悪いみたいに思われちゃうからな」

若石「はい」

 若石が自席に戻った。


 早苗と若石は自席で、課長に聞こえないように

早苗「ごめんね。私があんなことを言わなければ良かったのよね」

若石「私は気にしていませんから」

早苗「若石さんは『はい』しか言わないのね」

若石「言っても無駄ですから」

早苗「それもそうね」

戸部「残業時間の少ない課(長)が昇進する仕組みなんですから仕方ないですよ」

早苗「それって変じゃない、市民サービスが低下するわよね」

戸部「そうですね。しょっちゅうお客様を帰していたら苦情だらけになるでしょうね」

早苗「その苦情だって受けるのは私たちよ。課長の方針でやっているのに、課長はいっさい矢面に立たないでしょう」


 そこに戸部が会話に入って来た。

戸部「課長なんてみんなそうだよ、下の者への配慮なんてないさ」

早苗「市長、部長への気遣いだけよね」

戸部「上に逆らったら二度と昇進はないし、すぐに異動させられるからな」

 戸部はそう言った後、若石が以前の課を1年、2年で異動したことを思い出した。

戸部(まずいこと言っちゃったな)

早苗「あー、いやだいやだ」

若石「いいんです。私は市民の方だけ向いて仕事してれば満足ですから」

早苗「若石さんは、出世に興味はないの?」

若石「興味ないし、しようと思っても学歴も能力もないから」

早苗「そんなことないわよ」

若石「自分が食べていければそれだけで充分です」

早苗「そうなんだ。でも結婚して子供が出来たら万年平社員ってわけにもいかないでしょう?」

若石「結婚できるのかなぁー。お金もないし、一生独身でもそれはそれで構いませんよ」

早苗「欲がないのね、欲がないのは良くないことよ」

戸部「また、おばちゃんのダジャレ?」

早苗「ふふふふふふ」

 早苗が笑った。

課長「おい、そこの二人、仕事中に笑っているんじゃない!」

 課長席から叱りつけた。

早苗(聞こえちゃった)

早苗が舌を出して下を向いた。


【07】 思い出した! あのときの看護師さん


 それから数カ月後。

 市役所で職員を対象にした健康診断が行われた。

 毎年、近くにある総合病院の職員が出向いて検査することになっている。検査内容は、採尿、胸のレントゲン、採血、視力聴力検査、心電図など。

 採血室でのことだった。

看護師「次の方どうぞ」

若石「はい」

看護師「あっ!」

 若石の耳にその言葉が入ってきたが、なぜなのかわからなかった。


看護師「どちらの腕から採った方がよいですか?」

若石「どちらでも。血管が浮き出ないから、看護師さんが毎回苦労されているみたいです」

看護師「そうですね、なかなか血管が見えないですね」

若石「いつも2、3回は刺されますから」

看護師「ホントですか?」

若石「10回までは我慢できますから」

看護師「ふふふ」

若石「遠慮なくブスっとやってください」

看護師「ふふふ」

 若石は肘枕の上に腕を乗せた。

看護師「ちょっと見てみますね」

 駆血帯くけつたいを肘あたりに巻き、左手で若石の手首近くをしっかりと持ち、右手人差し指と中指で探し始めた。

若石「聞いた話なんですが、血管って逃げることがあるんですってね」

看護師「ええ、最初の頃は良く逃げられましたが、今はしっかりと捕まえますから大丈夫です」

若石「それは、すごい」

看護師「でも、好きな人にはいつも逃げられますけれどね」

 被採血者の緊張をほぐすためにわざと言った。

若石「ははははは」

 今度は若石が笑った。


 看護師は太くまっすぐな静脈を見つけ、アルコール綿で消毒した。

 左手で針を刺す位置の10センチ下を強く握った、皮膚を伸ばして刺しやすくするために。

 その『強い握り』が若石の頭に記憶をよみがえらせた。

若石「あっ!」

 今度は若石が小さく叫んだ。看護師は一点、注射器を見ていた。

若石「ひょっとして?」

看護師「その節は、」

 看護師の石井沙織が軽く頭を下げた。

若石「おかげで、あのとき、なんとか耐えられましたよ」

看護師「今、痛くないですか」

若石「全然。お見事です」

看護師「なんとか一回で終わりました」

 そう言いながら注射針を抜いた。

若石「本当にあのときは助かりました」

看護師「看護が仕事ですから」

若石「相当強く、あなたの手を握ったような気がします」

看護師「ええ。あの後、しばらくの間、箸が持てませんでした」

 笑いながら言った。若石は照れくさかった。


 一ヶ月後。

 お昼になる10分前に、同期の藤森圭祐ふじもり・けいすけが住民課にやって来た。

藤森「たまにはお昼、近くのハンバーガーショップに付き合わないか?」

若石「いいよ!」

 若石は、いつもは市役所の食堂で昼食を取っていたが、今日は同期の藤森に誘われ近くのハンバーガーショップに行くことになった。


 そしてお昼。

 美浦第一病院の看護師石井沙織が、同僚丸山真理と来ていた。そこに若石が藤森とやってきた。それは偶然の出会いだった。

 すでに看護師と同僚はテーブルに座り食べていた。

 そこに若石がやってきて看護師に気づいた。

若石「先日はどうも」

若石が会釈した。

若石「いつも、ハンバーガーなんですか?」

沙織「あれ以来、箸が持てないので毎日ハンバーガーです」

 ハンバーガーを目の前で少し持ち上げて言った。

若石「すみません」

 若石が恥ずかしそうに頭を下げた。

沙織「もちろん冗談です」と言ってほほ笑んだ。

 若石は再度沙織とその友達に会釈して

 同僚藤森の座っているテーブルへと歩いて行った。


真理「お知り合い?」

沙織「ええ、ちょっと。以前患者さんとして来たの」

真理「それだけ?」

沙織「ええ、それだけ」

真理「なんか怪しいなぁ」

沙織「ホントよ。嘘ついたってしょうがないでしょ」

真理「彼氏じゃないの?」

沙織「うちの医師と付き合っているのかも?」

真理「えーーっ、ウソでしょ」

沙織「本当よ。だってこの前二人がここで待ち合わせしてたみたいなんだもん」

真理「へぇーそうなんだ、わからないものね。」

沙織「だから私は関係ないの」

真理「そうか、なんか人の良さそうな感じだったから残念ね」

沙織「いいの、今の私にはあなたとハンバーガーの方が大切」


【08】 『忘れてください』は一番忘れないワード?


 若石のテーブルで

藤森「あの女性、知り合い?」

若石「うん、ちょっと。以前かかった病院の看護師さん」

藤森「それだけ?」

若石「うん、それだけ」

藤森「なんか怪しいなぁ」

若石「ホントだよ。嘘ついたってしょうがないだろう」

藤森「彼女じゃないの?」

若石「いや、だいたい独身かどうかも知らないし」

藤森「へぇーそうなんだ、じゃあ今度聞いてみたら」

若石「いいよ、今は仕事だけで手いっぱいだから」

藤森「そうか、なんか飾らない感じが良かったけれど、残念だな」

若石「いいよ、今の自分には良き同僚とこのハンバーガーの方が大切さ」


 午後1時10分前。

 職場に戻る時間ということもあり、ふた組が同時にハンバーガーショップを出た。

 若石の友達が押し扉を開け、他の3人が通過するのまでドアを押さえていた。

沙織「すみません」

真理「すみません」そう言って通り過ぎた。

 して2、3メートル過ぎ去ったところで

藤森「あのぉ、すみません」

 沙織と真理が振り返った。

藤森「病院のことでひとつだけ教えていただきたいことがあるのですが」

真理「はい?」

藤森「あっ、いいです、ごめんなさい。時間がないですもんね、忘れてください」

真理「えっ、いいんですか?」

藤森「いいんです、本当に、忘れてください」そう言って頭を下げた。

 沙織と真理は、若石と藤森に会釈をして去って行った。


 若石と藤森が市役所へと歩きながら

若石「『病院のことで教えていただきたいこと』ってなんだったの?」

藤森「これから考える」

若石「えっ! 何それ?」

藤森「ゲンちゃん、なにか病院のことで聞きたいことない?」

若石「ないよ。聞きたいことがあるのはそっちだろう?」

藤森「だって、あんなかわいい子とあのまま別れる訳にはいかないだろう」

若石「それはわかるが、それが?」

藤森「ああ言えば、何か心にひっかかりができない?」

若石「そうだな、何を聞きたかったのか気になるなぁ」

藤森「そうだよ。そして『忘れてください』って言葉、」

若石「うん?」

藤森「『忘れてください』って言葉は、逆に『忘れないでください』って意味になるんだよ」

若石「ふむふむ」

藤森「もし次にどこかで会ったときに、きっと向こうから『あのとき何を聞きたかったのですか?』って言うだろう」

若石「そうだな」

藤森「『忘れてください』は一番忘れないワードなんだよ」


若石「君はナンパ師だな」

藤森「言葉が悪いな、『会話上手』と言ってくれる?」

若石「そうだな、会話上手だな。だからこうして付き合っているのかも」

藤森「『ナンパ』で思い出したけれど、外出するときに腕時計は絶対しちゃだめだぞ」

若石「えっ、なんで? 電車に乗るときや待ち合わせに必要だろう?」

藤森「いいかい、外を歩いていて、もし好みの女性がいたらどうする?」

若石「普通にすれ違うだけな」

藤森「ダメだな。それじゃいつまでたっても恋人が出来ないぞ」

若石「だから、いないよ」

藤森「いまどき女性に『一緒にお茶でも飲みませんか?』って声かけて、ついて来る女性なんかひとりもいないよ。みんな無視して逃げていくよ」

若石「そうだろうな、いきなりすぎて怖いよ」

藤森「そうだろう。そこで一番会話を返してくれる魔法の言葉が」

若石「なになに?」

藤森「『お急ぎのところすみません。今何時ですか?』だよ」

若石「なるほど、それはすごい! ほとんどの女性が答えてくれるだろうな」

藤森「そのときに、男が腕時計をしてたらおかしいだろう。『自分の腕時計を見なさいよ!』って言われちゃう」

若石「ははははは」


藤森「たとえば女性が『2時です』と答えたら、自分が持ってる力の中で最も丁寧に『ありがとうございました』と言って別れちゃうんだよ」

若石「別れちゃうんだ?」

藤森「いくら何でも、すぐにはムリだろう」

若石「ふむふむ」

藤森「前もって言っておくが僕はやったことはないよ。やったことはないけれど、自分が持ってる力の中で最高の注意力で尾行するんだよ」

若石「それストーカーという犯罪行為だよ」

藤森「だから、前もって言ったろう、『僕はやったことない』って」

若石「わかったわかった」


藤森「で、夕方5時ごろ、偶然出会ったようにその女性の前に現れて『先ほどはありがとうございました。お陰様で間に合いました』って言うんだよ」

若石「何に間に合ったの?」

藤森「そんなところはどうでもいいんだよ、相手だって聞かないよ」

若石「そうかい?」

藤森「そうだって。で、『御礼に、もし時間がありましたら抹茶チーズケーキでもどうですか?』って言うんだよ」

若石「『抹茶チーズケーキ』なんてあるのかい?」

藤森「なかったら『ベルギー濃厚ガトーショコラ』でもいいよ」

若石「そんなの聞いたことないな」

藤森「なら、『フライドポテト』でもいいよ。細かい奴だな」

若石「それで?」

藤森「オーケーが出れば、あとは一緒に『フライドポテト』を食べながら、全力で好感度をアピールすることだね」

若石「私はもう、そのときには力が残ってないよ」

藤森「そりゃそうだな。ははははは」

若石「ははははは」


藤森「素晴らしい方法だろう?」

若石「誰がそんなくだらない方法を考えたんだよ?」

藤森「僕の曽祖父さ」

若石「曽祖父っていうのもやるもんだね」

藤森「曽祖父がこれを実践したから今の僕がこの世に存在しているんだ。もっとも『腕時計』ではなく『懐中時計』だったけれどね」

若石「へぇー、そうなんだ」

藤森「そんなところで変に納得するなよ」

若石「ははははは」

藤森「なんでも曽祖父が女性に「今何時ですか?」って声をかけたらしいんだ」

若石「実話だったんだ」

藤森「で、女性は『10時です』と答えた後、馬車に乗って行っちゃったらしいんだ」

若石「ば、馬車? その女性ってシンデレラか?」

藤森「欧米か!」

若石「昔の漫才じゃないんだから」

藤森「なんでも『乗合馬車』と言って、今で言えばバスだな。曽祖父の話は、バスが出来る前、馬車が走っている時代の話だな」

若石「それっていつの話?」

藤森「明治の中頃じゃないか?」

若石「じゃぁ曽祖父は、その女性を見失わないように、馬車を追いかけたのかい?」

藤森「そうらしい。鳩ケ谷から川口駅まで」

若石「4、5キロはあるぞ。君の曽祖父は手も足も速かったんだな」

藤森「ははははは」

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【後書き】

 今回のエピソードをお読みいただきありがとうございます。

かつて収税課で「血も涙もない」と言われた若石が、今は窓口で市民の幸せ(バカップル含む!)のために奔走している姿に、月日の流れを感じていただければ幸いです。


 胃カメラのシーンでの「痛い」の手話……。せっかく習った技術が、まさかの「変態」扱いされてしまう若石の不憫さに、書きながら思わず苦笑いしてしまいました。


 そして後半、まさかの再会。看護師・沙織さんとの縁がこれからどう動くのか、あるいは女医・荻野先生との「ハンバーガーショップのすれ違い」がどう響くのか。

若石の恋(?)の行方も、気になるところです。

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【作者よりお願い】

 最後まで読んでいただきありがとうございます。

 若石が必死に繰り出した「痛い」の手話。あの時は伝わりませんでしたが、数年越しに意外な形で再会へと繋がりました。

 勘違いから始まった女医・荻野との奇妙な縁や、若石の誠実な(あるいは少し不器用な)仕事ぶりが「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ぜひ下の【☆☆☆☆☆】から評価やブックマークをいただけますと幸いです。

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