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女子ボートレーサーと市役所職員  作者: 池井 けい
第9章 医療と人々
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85/110

85 ♡あの時の女医と看護師(その2) ~初めてエッチした日~

【04】 女医と水曜の夜


 若石の胃カメラ検査から数年が経っていた。若石は収税課2年、国民健康保険課1年、そして住民課に異動して2年。以前の課では、なぜか異動が早かった。


 水曜日夜7時、市役所に女医が来ていた。

交付担当「住民票1通で2百円になります」

 窓口交付担当職員小林静子が言った。

女医「夜7時までやってくれているので助かるわ」

静子「水曜日だけですけれどね」

女医「そりゃそうよ、毎日なんて無理よ」

静子「そう言っていただけるだけでうれしいです」

女医「そう?」

静子「住民票の中身、確認してくださいね、間違ってないかどうか」

女医「わかったわ」

 そう言って、女医がふと住民課カウンターの端を見たときだった。

女医「あれっ?」

静子「どうかしましたか?」

 カウンターの端を指さしながら、

女医「あの一番端に座っている方はなんという方?」

静子「若石です。お知り合いでしたか?」

女医「いえ、違ったわ。ちょっと知り合いに似ていたから」

静子「そうですか。お知り合いなら呼んできますけれど」

女医「いいの、いいの。私の勘違いだから。ちなみに一番端のカウンターって何をする所なの?」

静子「戸籍の受付です」

女医「戸籍の受付って?」

静子「多いのは、出生、死亡、婚姻、離婚、この4つですね」

女医「へぇーっ、そうなんだ」

 そう言うと、交付された住民票の記載内容をチラッと確認して帰って行った。


 それから一週間後、水曜日夜7時。

 女医が住民課戸籍の受付カウンターにやってきた。

 若手の宮入芽衣が応対した。

女医「ちょっと伺っても良いですか」

芽衣「はい、どうぞ」

女医「ここのカウンターに座っている職員の方って、毎週同じではないのですか?」

芽衣「水曜の夜につきましては、一週間交代で職員が変わります」

女医「そうなんですか」

芽衣「先週の職員に何か?」

女医「いえ、誰でもいいのですけれど」

芽衣「はい、なんでもお伺いします」

女医「では、婚姻届の用紙を2枚いただけますか?」

芽衣「はいわかりました。少々おまちください」

 数秒後

芽衣「はい、では、こちらですね」

女医「ありがとう」

芽衣「今封筒に入れますね」

 婚姻届の用紙を封筒に入れて女医に渡した。


 その一週間後、水曜日夜7時。

 女医が住民課にやってきた。

 女医は真っ直ぐ若石の居るカウンターにやってきた。

女医「ちょっと伺いたいのですが」

若石「はい、どうぞおかけください」

 若石は、あのときの女医とは気づかなかった。

 胃カメラを飲んだとき、女医がマスクを着けていたこともあったからだ。

女医「婚姻届の書き方なんですが」

 婚姻届用紙を取り出して言った。

若石「はい」

女医「ここの『新しい本籍』の欄って何を書くのですか?」

若石「お二人は初婚ですか?」

女医「いえ、相手はいないんです」

若石「えっ?」

女医「ちょっと参考のために聞きたかったんです」

若石「参考のために? そうですよね、なんでも早めに知っておくって大事ですよね」

女医「うふ」笑顔で返した。


若石「結婚すると今の本籍を出て、新しい本籍を作らなければなりません」

女医「そうなんですか」

若石「ですので日本のどこかに本籍地を決めます」

女医「どこでもいいんですか」

若石「はい、おふた方が住んだことがない所でもかまいません」

女医「たとえば?」

若石「関東の方でしたらディズニーランド、関西の方でしたらユニバーサルスタジオを本籍地にされる方もいらっしゃいます」

女医「わぁー素敵!」

若石「でも実際に多いのは、これからお二人が住む所、旦那様のご実家、奥様のご実家の住所ですね」

女医「やっぱりそうなんだ」

若石「こんな答えで良かったですか?」

女医「充分です。あっ時間だ、帰らないと。ありがとう」

 急いで帰って行った。


 その2週間後、水曜日夜7時。

 また女医が住民課にやってきた。

 女医は真っ直ぐ若石の居るカウンターにやってきた。

女医「また、ちょっと伺いたいのですが」

若石「はい、どうぞおかけください」

女医「この用紙右側の『証人』の欄って誰でもいいんですか?」

若石「二十歳以上の方であれば、ご家族、ご友人、誰でもOKです。外国人の方でも構いません」

女医「へぇーそうなんだ」

若石「他に何か?」

女医「えぇ、でももう7時、窓口が終わりですものね。また来ますから」

 そう言うと帰って行った。


 その2週間後、水曜日夜7時。

 また女医が住民課にやってきた。

女医「また来ちゃいました。ちょっと伺いたいのですが」

若石「はい、どうぞ」

女医「夫婦別姓にする場合、何か注意点はありますか?」

若石「まず、たいへん申し上げにくいのですが」

女医「なんでしょう?」

若石「残念ながら夫婦別姓はまだ認められていません」

女医「えっ、ホント?」

若石「本当です」

女医「だって世の中、結婚していても旧姓を名乗っている人がたくさんいるじゃありませんか」

若石「あれは『旧姓使用』と言って、職場などで旧姓を使用することを認めているからです」

女医「なぁーんだ。じゃぁ、夫婦別姓で使っているわけじゃないんだ」

若石「はい」

女医「よくわかったわ。もう7時ね。帰ります」

 そう言って帰って行った。


 その一部始終を住民課の職員新川直道(しんかわ・なおみち・23歳)が見ていた。

新川「あの女性、何度か来てますよねぇ」

若石「うん」

新川「ちょっと変じゃないですか?」

若石「変って?」

新川「若石さんを狙って来てますよねぇ」

若石「そうかなぁ」

新川「そうですよ。2週間おきに水曜日の午後7時」

若石「……」

新川「きっと若石さんに気があるんですよ」

若石「そんなわけないよ」

新川「そう言い切れますか?」

若石「断言はできないけれど」

新川「だって、毎回婚姻届のことを聞くのに、彼氏のことは一度も出たことがないですよねぇ」

若石「うん、確か『結婚相手はいない』って言っていた」

新川「でしょでしょ」

若石「『参考のために』とかなんとかって言ってた気がするな」

新川「やっぱり」


 それを聞いていた女子職員天満稔江てんま・としえ永野美咲ながの・みさきが寄ってきた。

稔江「きっとよ……」

若石「『きっと』なんですか?」

稔江「婚姻届の書き方を全部聞いて、」

若石「『全部聞いて』、」

稔江「『夫になる人』の欄以外は完璧に記入してきて、」

若石「『記入してきて』?」

稔江「あの女性がこう言うのよ」

若石「どう言うの?」

稔江「『夫になる人』の欄を指さしながら、『ここにあなたの名前を書いていただけませんか?』って」

 隣に居た職員永野美咲が、

美咲「キャー」

 美咲が両手で顔を覆った。


若石「あなた方はバカですか? すごい妄想ですね」

美咲「そうですか? ありえないことじゃないですよね」

若石「あるわけがない」

美咲「ところであの人はいったい誰で、若石さんとどんな関係の人なんですか?」

若石「こっちが知りたいわ」

美咲「えーっ! 誰だかご存知ないんですか」

若石「ええ」

美咲「ウソ!」

若石「ウソじゃないよホントだよ」

美咲「誰とも知らず、名前も知らず、あんなに丁寧に説明しているんですか?」

若石「丁寧かどうかわからないが、市民へサービスするのは当たり前ですからね」

美咲「もう、その飾らないところ、それが先輩のいいところなんですよね」

若石「ありがとう。褒めてもらって嬉しいよ」

美咲「そうなんだ、本当にあの女性のこと、何も知らないんだ」

若石「うん」

美咲「じゃぁ2週間後、どうなるのか今後の展開が楽しみですね」

若石「もう来ないよ」

美咲「どうしてですか?」

若石「もう、聞くことなんてないんじゃないの」

美咲「甘いですね、女性はしつこいですからね、どんなことでも質問を探してきますよ」

若石「そうかなぁ」

美咲「まぁいいです。再来週、答えが出ますから」


【05】 ハンバーガーショップで待ち合わせ


 そして2週間後、夜7時。

 また女医が住民課にやってきた。

 近くで天満稔江と永野美咲が知らぬ顔をしながら、聞き耳をたてていた。

女医「ちょっと伺いたいのですが」

若石「はい、どうぞ。今日はどんなことですか?」

女医「実は折り入ってお願いがあって、そうそう、それとお詫びもしないといけないし」

若石「お詫びですか?」

女医「はい」

若石「お詫びされるようなことは、何もされてないと思いますが」

女医「いえ、こちらにはあるんです」

若石「そうですか。なんでしょう?」

女医「ここではちょっと、」

 と周りを見渡して言った。

 その瞬間、聞き耳を立てていた職員がいっせいに下を向いて仕事し始めた。

女医「若石さん、もう時間で仕事おわりですよねぇ」

 若石の胸に付けた名札を見ながら言った。

若石「はい、7時で終わりです」

女医「では、この先50メートル先にあるハンバーガーショップでお茶していますので、来ていただくことは出来ますか?」

若石「はい、大丈夫です」

女医「では、そのときにお話ししますわ」

若石「わかりました」

女医「失礼します」

 女医は去って行った。


 するとすぐに天満稔江と永野美咲が若石に寄って来た。

稔江「やっぱりね」

美咲「ついにこのときが来ましたね」

稔江「告られるときが来たわね」

美咲「若石さん、心の準備は?」

若石「なんだなんだ、みんな寄ってたかって、そんなにからかって」

 そのときに一組の客が来た。

客「すみません、婚姻届出したいのですが」

若石「はいどうぞ」

 客の男女は嬉しそうにカウンターに腰かけた。


 稔江と美咲は、すぐに事務室に戻って行った。

美咲「だいたい業務時間の終わりに来るんですよね」

稔江「そう、いつもそうよ。役所は、飲食店と違ってラストオーダーの時間がないからいけないのよ」

美咲「代わってあげたいけれど、私たち婚姻届受付のプロじゃないし」

 永野美咲は電子証明の担当、天満稔江は庶務担当で戸籍届以外の簡易なものしか受付できなかった。

美咲「若石さん可哀そう。あの人平日夜の約束は、一年中したことないらしいですよ」

稔江「へぇーそうなんだ。今日こそは、もう大丈夫だと思ったのにね」

美咲「こんなもんですよね」

稔江「私が若石さんの代わりにハンバーガーショップに行って、事情を話してきてあげようかしら?」

美咲「それ、おかしいですよ。まるで私たちが盗み聞きしていましたって白状しているようなものですよ」

稔江「そっか」


 カウンターで。

カップル「すみませんギリギリで」

若石「いいんですよ」

カップル「どうしても今日じゃないとダメなんです。すみません」

 男がぺこりと頭を下げた。

若石「『どうしても』って?」

カップル「はい、私たち初めて……した日なんです」

若石「良く聞こえなかったんですが、初めて…… なんですか?」

カップル「私たちが初めてエッチした日なんです」


 事務室内で。

 稔江と美咲が下を向きながら笑いを必死にこらえた。

稔江「ああいうのをバカップルって言うのよね」

 美咲が机の下を向きながら笑いを必死にこらえた。

若石「そうなんですか、それじゃお二人にとって今日がとても大事な日なんですね」

女「はい、とても……」顔を赤らめて言った。


 事務室内で。

美咲「そこまで言いたくなかったでしょうにね」

稔江「『そこまで痛くなかったしょうに』って? なぜわかるの?」

美咲「違う違う」

 美咲は手を横に振り、下を向きながらまた必死に笑いをこらえた。


 カウンターで。

若石「そんな日に私が受付できるなんてとても光栄です」

カップル「本当にこんな時間にすみません」

 また男は、ぺこりと頭を下げた。

若石「二人が幸せになるのなら私は時間を惜しみませんから」


 事務室内で。

美咲「二人を幸せにして自分が不幸に落ちるかもね」笑みを見せた。

 その言葉に稔江がまた下を向きながら笑いを必死にこらえた。


 カウンターで。

カップル「ありがとうございます 」

若石「ところで、婚姻後のうじは、妻の氏と夫の氏と、どちらの氏になさるのですか?」

カップル「えっ、えーーーっ 。それすぐに決めないといけないんですか?」


 事務室内で。

稔江「やっぱ、バカップルだわ」

 美咲が笑いをこらえた。


 カウンターで。

男「どっちにしようか?」女に聞いた。

女「この欄にチェックしましたけれど」

 届け出用紙の『婚姻後の夫婦の氏』欄の『夫の氏』『妻の氏』両方にチェックがしてあった。

若石「このチェック欄の両方にチェックが入ってますけれど」

女「夫婦別姓にするつもりです」

若石「そうでしたか。しかし、まだ夫婦別姓が認められていないのです」

カップル「えーーーっ!」


 事務室内で。

美咲「この前見えたお客様は、ここで『あなたがいけないのよ』って責任のなすりあいになってケンカしながら帰ったんですよ」

 稔江が笑いをこらえた。


 数十分後、カウンターで。

若石「わかりました。では、あとそれぞれハンコを押して完成です」

 女がバッグからハンコを取り出した。

男「あれっ、ハンコがない」

 男が慌てだした。

男「家に置いてきたかも」

若石「いいですよ、ではここで待っていますから取ってきていただけますか?」

 結局、婚姻届の受付が終わったのは夜の8時半を過ぎていた。事務室内の職員も7時半過ぎには全員帰っていた。

 それでも若石にとっては、市民に対して奉仕出来たことが嬉しかった。

 机の上を片付け、帰ろうとしたときだった。

若石(あっそうだ! ハンバーガーショップ!!!)


 一方、女医は市役所を出て、ハンバーガーショップのカウンターで注文をしていた。

 そんな様子を店内奥の席から看護師石井沙織が見ていた。

沙織「あれっ! まずい、荻野先生だ」

 思わず向きを変えた、女医から顔が見えないように。

沙織(職場以外で顔を合わせたくないな)


 女医は商品ののったトレーを持ち、沙織に気づくことなく遠い所に座った。

 そして、5分、10分、30分と時間は過ぎていった。

 1時間が経ち女医は再度携帯電話に表示された時刻を見た。

女医(来ないわね)

 それから15分後。

女医(フラれたようね)

 女医は席を立ち帰って行った。


沙織「ふーっ」

沙織(帰るに帰れなかったわ。あの女医さんがこんなところに来るなんて珍しい。収入が私より何倍もありそうなのに。意外と庶民派だったのね)

沙織(でも、誰かと待ち合わせだったのかな? 客が入ってくるたびにドアの方を見ていたから。まぁいいか、私には関係ないし)

 沙織の気持ちがやっと平静に戻った。

沙織「さて、帰ろうかなーっと」

 食べ終わったトレーを持ち、席を立った。そして定位置にあるトレー置き場で食べ終わりのゴミを捨てていたときだった。


 ドアが開いて若石が入ってきた。

 沙織と若石の目が一瞬合った。

沙織(あれっ、どこかでみたような)

 沙織はそのまま若石の様子を見つめていた。

 若石は店内を一周すると難しい顔をし、何か考え事をしながらすぐに店を出て行った。

沙織(あっ、思い出した! あの胃カメラのときの患者さんだわ)

 しばらくして、

沙織(え、えーっ! あの二人付き合っているのかしら?)

沙織(まぁいいか、私には関係ないし)

 沙織は、店の外へ出て行った。

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