75 ■年の差婚(そこに愛はあるんか?)その3
【05】 川原梨沙からの電話
数日後。午後6時、住民課。
市役所の終業のチャイムが鳴り、山門がしばらく残務整理していた時だった。『川原梨沙』から電話がかかって来た。山門が置いてきた『訪問票』の効果が表れた。
『訪問票』を置いて行っても、ほとんど電話がかかってくることは無いのだが、珍しく反応があった。
いつもなら山門ではなく戸部が残って仕事をしているのだが、この日に限って逆だった。
梨沙「ポストにメモが入ってましたので、電話いたしました」
山門「このたびは、ご結婚おめでとうございます」
梨沙「ありがとうございます」
山門「川原様にちょっとお聞きしたいことがございまして」
梨沙「なんでしょう?」
山門「婚姻届を出されましたが、まだ、お二人の住所は別々のようで」
山門はこの婚姻届について、すでに戸部から事情を聞いていた。普段、婚姻届提出者に連絡することは無いのだが、真実を聞くために、遠回しに聞き始めた。
梨沙「そのことですか?」
山門「それと、この婚姻は、お二方の合意のもとでされるということで、よろしいんですよね。一応念のためお聞きしようと思いまして。すみませんね、こんなことで電話させてしまい、本当に申し訳ございません」
山門は電話口で頭を下げた。
梨沙「いいえ、いいんですよ。話せば長いのですが、大丈夫ですか?」
山門「もちろんです。こちらがお願いしていることですから、本当にお忙しいところすみません」
梨沙「わかりました」
山門「すみません」
梨沙「いつも私、お昼は近くの公園でひとり食べているんです。昨日の残り物をタッパーに詰めて。お金が無いから。他人に見られるのが嫌で。それで、いつも隠れるようにして食べていたんです」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「すると、やはり同じ公園で、シートを敷いて、おじさんがひとり、いつもコロッケパンだか、メンチパンだかを食べている人が居たんです」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「でも、存在を確認しただけで、目を合わすこともありませんでした。一ヶ月、二カ月、3カ月が経ちました。午後1時近くになると同じ建物に入って行きますので、同じ会社に勤めている人なんだな、ということはわかりましたが、それ以上のことは何ひとつ知りませんでしたし、知ろうとも思いませんでした」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「4か月目だったと思います。お昼を食べて私がつい、ウトウトして、そして寝入ってしまったんです。そうしたら、そのおじさんが、1時少し前にわざわざ私の所まで来て、『お嬢さん、もうすぐ1時ですよ』と声を掛けてくれたんです。それでも私は、寝たばかりで、ぼんやりしていました。そうしたら、また、『お嬢さん、お嬢さん』と声を掛けてくれて、起こしてくれたんです」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「私はハッとして、慌ててタッパーをトートバッグに入れ、御礼も言わずにさっさと会社へ走って行ったのです」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「そんな私の失礼な態度にあきれたのか、その後は、そのおじさんシートを敷いて向こうを向いて寝るようになりました。その一週間後でした。今度は、1時まぎわになってもそのおじさんが起きて来ないのです。私は今こそ恩返しをする時だと思い、おじさんの方へ近づいて行きました。そして、おじさんの顔を見るや否やハッとしたのです。おじさんは血を吐き、吐いた血がシートに溜まっていたのです」
山門「えっ!」
梨沙「すぐに『大丈夫ですか?』って言ったら『大丈夫。お嬢さんは仕事に行きなさい』って。そう言った瞬間、またゲボゲボって血を吐いたんです」
山門「大丈夫じゃないでしょ!!!」
梨沙「そうでしょう!」
山門「そうですよ」
梨沙「ところで、この電話なんですが、掛け直してもらってもいいですか?」
山門「あっ、そうだ。ごめんなさい、ごめんなさい。電話代がかかりますもんね。私がもっと早く気付けば良かったのに、本当にごめんなさい。今掛け直します」
お互いが電話を切り、山門が電話を掛け直した。山門は終始お詫び倒して、なんとか真実を聞こうとした。
梨沙は電話を取り、続きを話し始めた。
梨沙「私もそう思って、すぐ救急車を呼びました。7分ほどで救急車が来ました。救急車を待っている間に、『おじさん、名前は?』」
加茂「加茂博之」
私は会社へ電話をし、事情を話して午後二人が休むことを伝えました。やがて、2名の救急隊員がストレッチャーを押してやって来ました。それから、救急隊員の方々がおじさんに、
隊員「どうしました?」
加茂「わかりません」
隊員「血を吐いたことはありましたか?」
加茂「いえ、初めてです」
隊員「かかっている主治医の方は?」
加茂「いえ、おりません」
みたいな会話があり、救急隊員の方が
隊員「どうしても誰か一緒に来て欲しいのですが」
と、いうことで、急きょ私が救急車に同乗することになりました。
山門「すごいことになりましたね」
梨沙「で、救急車に乗り、病院に着くとすぐにCTを撮り、続いて内視鏡検査をしました。原因は、胃に穴が開き、そこから出血していたみたいです」
山門「ふむ、ふむ」
梨沙「すぐに入院することになり、入院手続きもあるので、おじさんに、」
梨沙「奥さんは?」
加茂「居ないよ。ひとり暮らしなんだ」
梨沙「身寄りは?」
加茂「ないね。孤独なんだ。ははははは」
梨沙「笑っている場合じゃないでしょ。保険証は?」
加茂「家にあるよ」
梨沙「家はどこ?」
加茂「財布の中に免許証がある。それを見てもらえれば」
梨沙「財布はどこ?」
加茂「ズボンのポケット」
私は、ベッドの横に置かれたビニール袋の中からズボンを取り出し、ズボンのポケットに手を入れました。
梨沙「あったわ!」
二つ折りの黒い財布があったので、
梨沙「財布、開けるわよ」
加茂「うん」
中に免許証が入っていて、そこに住所が書いてありました。
梨沙「じゃぁ、私がおじさんの家に行って保険証を取って来るわ」
加茂「すまんねぇ、迷惑をかけちゃって」
梨沙「ねえ、入院の際、入院保証金が5万円必要なんだって。お金ある?」
加茂「いや、ないよ」
梨沙「えっ、嘘でしょう?」
加茂「本当だよ。だって、この前まで生活保護を受けていたんだから」
梨沙「えっ! そうなの」
加茂「嘘じゃない。市役所の生活支援課に電話してもらってもいい」
梨沙「財布の中には?」
加茂「それが全財産だ。いくら入っているかわからないな」
梨沙「見てもいい?」
加茂「どうぞ」
私は、財布の中を見ました。3万7千円が入っていました。
梨沙「3万7千円ね」
加茂「そうかい、そんなにあったのかい」
梨沙「そんなに? 全財産で。……あっ、ゴメン」
加茂「いや、気にすることはない。それが現実なのだから。だから、お昼も百円のパン1個なんだから。ははははは」
梨沙「そう言えば、いつもコロッケパンだったみたいね」
加茂「うん」
梨沙「ねぇ、また生活保護に戻ったら?」
加茂「いや、そうはいかん」
梨沙「どうして?」
加茂「嫌いなんだよ、生活保護が」
梨沙「そうなの?」
加茂「いろいろ制約もあるし、みんなの税金を使うのも気が引けるし、そしてなによりも精神的に『生活保護受給』というのがつらいんだ。何か悪いことをしているような、周りに顔を合わせられないと言うか、」
梨沙「だから、いつもひとりで食べていたの?」
加茂「うん。その方が気が楽だから」
梨沙「私と一緒ね。私もひとりの方が気が楽」
加茂「でも、生活保護を受けているわけじゃないし、受けたこともないんだろう?」
梨沙「ええ、受けたことないわ。でも、私も身寄りが居ないの」
加茂「えっ、そうなのかい?」
梨沙「うん」
加茂「そうだったのかい、そうだったんだ」
梨沙「全然気にしてないけれどね」
加茂「ああ。同じだな」
梨沙「私ね、ひとりで頑張ってお金を貯めて、いつか商売というか、自営をしてみたいんだ」
加茂「いや、やめた方がいいんじゃないかな」
梨沙「えっ、どうして?」
加茂「勤め人の方が、安定した収入がはいるんじゃないかなぁ?」
梨沙「ダメよ。今がそうだけれど、こんな収入じゃ一生食べていくには無理よ」
加茂「それはそうだな」
梨沙「私、学歴もないし、ちゃんとした会社に正社員なんてなれそうにないわ」
加茂「う~ん。実はね、」
梨沙「なぁに?」
加茂「私は、ずうっと、印刷屋を経営していたんだよ」
梨沙「えっ! すごいじゃない!」
加茂「ところが、世の中にパソコンが普及して注文が減り、私は印刷屋をつぶしてしまったんだよ。商売というのは大変だよ」
梨沙「ねぇ、でも、おじさんは、商売について詳しいんでしょ」
加茂「まぁ、他の人よりは、」
梨沙「それに、店をつぶしているという経験があるのなら、次は失敗しないんじゃない?」
加茂「う~ん、そうかもな」
梨沙「ねぇ、いつか私に商売について教えてくれない?」
加茂「それはいいけれど。本当に商売をやるのかい?」
梨沙「ええ、絶対に。おにぎり屋さんでも焼いも屋さんでも、なんでもいいんだ。とにかく自分で商売がしたいの」
加茂「夢を持つのはいいけれど」
梨沙「その夢を実現したいのよ。いつになるかわからないけれど」
加茂「なら、まずタネ銭を作らないと」
梨沙「そうよね」
加茂「あんたは、お金ないのかい?」
梨沙「ないわ」
加茂「そうかい」
梨沙「おじさんは、それっきり目をつぶって、何か考えているような、いないような」
山門「それで、入院保証金が5万円は、どうしたんですか?」
梨沙「おじさんの財布の中の3万7千円に、私が1万3千円を足して支払いました」
梨沙「ですが、また退院するときにお金が必要になるじゃないですか?」
山門「うん」
梨沙「どうしたらいいのかと、おじさんに相談したのです」
山門「うん」
梨沙「退院のときのお金どうする?」
加茂「もうすぐ、給料日だから、それで払えると思うよ。あんたが立て替えた分も、そこから払うから」
梨沙「幸い給料日が近かったので、それで事なきを得ました」
山門「うん、うん」
梨沙「おじさんもすぐに退院して、おじさんと私は、また同じ会社で一生懸命働きました」
山門「良かった」
梨沙「それから、私たちはお昼に色々なことを話すようになりました。今、貧乏なこと。店を持つという夢。お金を貯める方法。その話題が多かったですね」
山門「うん」
梨沙「加茂さんが、『もうすぐ年金がもらえるから収入が増えるよ』って言うんです」
山門「そうなんだ」
ここから、梨沙が『おじさん』ではなく、『加茂さん』と呼び始めた。
梨沙「年金のことは、まったくわからないんだけれど加茂さんが、」
加茂「若い時は印刷会社に勤め、その後は自分で印刷会社を経営していたから、結構厚生年金は掛けていると思うよ」
梨沙「ねぇ、加茂さんに聞いていいのかな?」
加茂「なんだい?」
梨沙「それって、いくらもらえるの?」
加茂「月に20万円ぐらいじゃないかな?」
梨沙「えっ! そんなに? 嘘でしょう?」
加茂「違うかな? そんなにもらえないのかな?」
梨沙「ねぇねぇねぇねぇ、正確な金額はわからないの?」
加茂「『年金定期便』というお知らせが来ていたけれど、確かそのくらいの見込み額だと思ったな」
梨沙「すごい! そうしたら加茂さん大金持ちじゃない!」
加茂「よせよ、月20万円で大金持ちかい?」
梨沙「そうよ。だって、私が今、一生懸命働いて月15万円よ。加茂さんは働かなくても毎月20万円もらえるんでしょう?」
加茂「まぁ、そうだな。ただ、振り込みは2カ月に1回で40万円という形だと思うけれど」
梨沙「ふーん。年金は毎月払いじゃないんだ」
加茂「多分」
梨沙「でも、すごいわ。今、私、毎月厚生年金が引かれているけれど、将来いいことがあるのね」
加茂「そうだな。私も64歳だけれど、まだ厚生年金、引かれているよ」
梨沙「えっ! まだ引かれているの?」
加茂「うん。よくわからないけれど」
梨沙「年金って何歳からもらえるの?」
加茂「65歳」
梨沙「それって、65歳になっても給料から引かれるのかな? もらったり、引かれたり、おかしくない?」
加茂「あっ、そうか。確かに」
梨沙「なんか、頭がおかしくなりそう」
加茂「うん、今度、役所に行って、年金のこと詳しく聞いてみるよ」
梨沙「そうね、それなら間違いないもんね」
加茂「それと、他にも聞きたいことがあるし」
梨沙「どんなこと?」
加茂「ひとくちでは言えないからいいよ。とにかく、年金の難しい制度と言うかルールを聞いて来るよ」
梨沙「わかった」
加茂「それとね、」
梨沙「うん、なに?」
加茂「それと……」
梨沙「なにか言いにくいこと?」
加茂「この前、川原さんに命を助けてもらっただろう?」
梨沙「たまたま血を吐いていた時、隣にいただけよ」
加茂「それに、お金の面でも助けてもらった」
梨沙「でも、すぐ返してくれたじゃない」
加茂「だからね、何か、川原さんに御礼がしたいんだよ」
梨沙「そんな無理しなくていいわよ。だって、加茂さん、お金無いの知ってるもん」
加茂「まぁ、そうだけれど。これからは年金も入るし、今の仕事も続けるから給料も入るだろう」
梨沙「年金が入ったら、会社を辞めるんじゃないの?」
加茂「川原さんと知り合うまでは、そう思っていた」
梨沙「うん」
加茂「だけど、川原さんの話を聞いているうちに気が変わったんだ」
梨沙「えっ、そうなの?」
加茂「うん、ほら、いつか焼いも屋さんの話をしていたろう?」
梨沙「ああ、おにぎり屋さんか、焼いも屋さんをやりたいって話ね」
加茂「うん、それだよ、それ。焼いも屋さんなら絶対にいいと思うんだ」
梨沙「どうして?」
加茂「私もずうっと会社を経営してきたから、その経験で言うんだけれど、店舗、仕入れ、支払い、維持管理、伝票事務、行政手続き、確定申告などを考えたら、焼いも屋さんの方がいいし、川原さんなら絶対成功するよ。太鼓判を押すよ」
梨沙「本当! うれしい!」
加茂「でだね、その川原さんの夢を是非かなえてあげたいんだよ」
梨沙「出来るかな?」
加茂「そこでだが、私がいくらかでも資金面で援助したいんだ」
梨沙「えっ、どういうこと?」
加茂「私は、これから年金で20万円、給料で15万円もらえるわけだから、」
梨沙「ちょっ、ちょっと待ってよ。年金と給料って両方もらえるの? 給料をもらっていたら、年金の出るのが延期されるとかないの?」
加茂「そうか。それも役所で聞いてみるよ。で、もし、両方もらえたら、そこから貯金して、川原さんに焼いも屋さんの事業資金として使ってもらいたいんだ。これは、貸すのではなく私からの寄付としてね」
梨沙「えっ、いいの?」
加茂「いいさ。それに私は死んでいくだけだもの。この年になると特に欲しい物もないし、誰かのためになるのなら喜んで寄付させていただくよ。焼いも屋さんの夢は、あなたの夢でもあるけれど、それを実現することと成功して欲しいと言うのは私の夢でもあるんだ」
梨沙「ちょっ、ちょっと待ってよ」
加茂「今度はなんだい?」
梨沙「ねぇねぇ、それならよ、」
加茂「うん」
梨沙「私も給料15万円いただいているじゃない、」
加茂「うん」
梨沙「二人の収入を合わせたら、年金と給料で、全部で50万円よ! すごいわよね」
加茂「うん」
梨沙「二人の家賃と食費を切り詰めれば、それだけお店を持つのが早くなるんじゃない?」
加茂「お店じゃなくて、屋台から始めればいいと思うけれど」
梨沙「わかった。二人が別々の家賃を払うって、もったいなくない?」
加茂「うーん、どういうこと?」
梨沙「一緒に住むってことよ」
梨沙は、まったくためらいもなく素直に言った。
加茂「私はいいけれど、不動産屋との契約書が『住人、ひとり』となっているんじゃないかな?」
梨沙「そんなの変更できるでしょう?」
加茂「そうだね」
梨沙「それ以外には?」
加茂「周りが変に思うんじゃないかな?」
梨沙「『周り』って?」
加茂「不動産屋さんとか、同じ共同住宅に住む人とか?」
梨沙「そうね。じゃぁ、結婚しちゃう?」
加茂「えっ!」
加茂が目を丸くした。
加茂「冗談でしょう?」
梨沙「本気よ」
加茂「いや、それだけはダメだ」
梨沙「どうしてよ?」
加茂「もし、私と結婚してだよ、」
梨沙「うん」
加茂「年齢から言って、私が先に死ぬわけだ」
梨沙「うん」
加茂「そしてその後、川原さんは別の人と結婚する」
梨沙「……」
加茂「そのとき、川原さんの戸籍には傷がついているわけだ」
梨沙「随分古い考え方だわね。それに、もし加茂さんが亡くなっても私は再婚しないと思うわ」
加茂「だから、あえて籍を入れなくてもいいと思うけれどなぁ」
梨沙「私、加茂さんとなら籍を入れてもいいと思っているし、夜の方だって全然OKよ」
加茂「う、うぉっほん」
加茂が恥ずかしくなって咳払いをした。
梨沙「加茂さん、あっちはどうやって処理しているの?」
加茂「う、ううん、ひとりでだな、」
梨沙「そうでしょう、ならいいじゃない」
加茂「それも含めてだな、川原さんは、本当に好きな人、年齢の見合う人が見つかるまで、籍は要れない方がいいと思うよ」
梨沙「きっと、私のことを思って言ってくれているんでしょうけれど、」
加茂「そうだよ。私は、川原さんのことしか考えてない」
梨沙「そんな、いいのに。……、わかったわ。じゃぁそうする。籍は入れずに一緒に住むことにしましょう」
加茂「良かった。わかってくれて」
山門「あれっ、ここまでのお話ですと、婚姻届を出される理由がありませんけれど?」
梨沙「ですよね。あの人ったら、ほんとに頑固で『籍は入れない』って言うんです」
山門(今度は『あの人』と来たか)
梨沙「ふつう加茂さんが『結婚しよう』と言って、私が『籍は入れません』と言うのが一般的でしょう。私たちは逆なんです」
山門「そうですね」
梨沙「ねぇ」
山門「それが、どこで婚姻届を出すことになったんですか?」
梨沙「加茂さんが市役所に年金相談に行ったんです」
山門「はい」
梨沙「で、そのときの様子を加茂さんから聞いたんですけれど」
山門「うん」
美浦市役所で年金相談。
加茂「年金は65歳からもらえますか?」
金塚は端末機の画面や資料を見始めた。そして、
金塚「はい、大丈夫です、もらえますよ」
加茂「私は月に15万ほど給料をもらっているのですが、それでも年金はもらえますか?」
金塚「ボーナスは、ありますか?」
加茂「ないです」
金塚「それであれば、年金は全額支給されます」
加茂「そうですか、良かった。いくらぐらいもらえますか?」
金塚「年金定期便に書いてありませんでしたか?」
加茂「確か、20万円と」
金塚「そうですね。ただし、そこから税金が引かれるかも知れません」
加茂「『かも』ですか?」
金塚「税金は、年金から引いたり、給料から引いたり、または自分で支払うなど、いくつか選択肢があるので、そこは加茂様が決めれば良いと思います」
加茂「なるほど、わかりました。それと、」
金塚「はい?」
加茂「職場の同僚が話しているのを小耳にはさんだのですが、」
金塚「はい?」
加茂「妻が居ると『加給年金』と言うのがもらえると?」
金塚「はい」
加茂「『加給年金』ってなんですか?」
金塚「名前には、『年金』と付いてますが、扶養手当みたいなものです」
加茂「誰でももらえるるのですか?」
金塚「いえ、必ずしももらえる訳ではありません。細かい条件があります」
加茂「それを教えていただけないでしょうか?」
金塚が、加茂と一緒に資料を見ながら細かい条件を説明した。
加茂「よくわかりました。いろいろありがとうございました」
金塚「どういたしまして。また、何かご不明な点がございましたらお越しください」
加茂「では、失礼いたします」
金塚「お疲れ様でした」
梨沙「それで、加茂さんがん市役所から帰ってきたら、私に『結婚しよう』って言ったんです」
山門「えっ、どういう風の吹き回しだったんでしょう?」
梨沙「なんでも、結婚していた方が、年金が多くもらえるとか?」
山門「そうなんですか?」
梨沙「ご存じありません?」
山門「すみません。年金は専門じゃないものですから」
梨沙「でも良かったんです。私は元々結婚したかったんですから」
山門「そうですよね」
梨沙「なんだかわからないけれど、年金と市役所に感謝です」
山門「そう言っていただけると嬉しいです。毎日の仕事に励みになります」
梨沙「で、住所はもうすぐ彼が私の所へ引っ越して来ますから。ほら、不動産屋さんとの契約の関係もあって、すぐに退去って訳にも行かないでしょう?」
山門「そうですね。わかりました。川原さんから、色々と話が聞けて良かったです」
梨沙「これで良かったかしら?」
山門「充分です。本当にご結婚おめでとうございます。心より祝福いたします」
梨沙「ありがとうございます」
山門「では、失礼いたします」
電話を切った。
翌日。
山門は、戸部に川原梨沙から電話があったことを報告した。
山門「昨日電話がありました」
戸部「何時ごろ?」
山門「6時ごろですね」
戸部「そうか、悪かったね」
山門「いいえ」
戸部「内容は?」
山門「内容は、このヴォイスレコーダーに入ってますので聞いていただければ」
山門が戸部にヴォイスレコーダーを渡した。
戸部「わかった。ありがとう」
【06】 そこに愛はあるのか?
戸部は自席に戻ると、イヤホンを使って会話の内容を聞き始めた。
【電話再生】
梨沙「随分古い考え方だわね。それに、もし、加茂さんが亡くなっても私は再婚しないと思うわ」
加茂「だから、あえて籍を入れなくてもいいと思うけれどなぁ」
梨沙「私、加茂さんとなら籍を入れてもいいと思っているし、夜の方だって全然OKよ」
戸部は、じっと聞いていた。
戸部(この結婚、特に問題はなさそうだな。私の思い過ごしか。偽装結婚とは言えないだろうな)
戸部は、山門と川原梨沙の会話をすべて聞き終えた。
戸部は、同じ島に居る若石元気、天満稔江、君本早苗にも意見を聞きたくヴォイスレコーダーとイヤホンを回した。
3人が順番にヴォイスレコーダーを聞き、3人が聞き終えた。最後に聞いた君本早苗がヴォイスレコーダーを戸部考一に戻した。
戸部が3人に意見を聞いた。
戸部「聞いてみてどうでしたか?」
若石「そうですね、憲法の『婚姻は、両性の合意のみに基いて成立する』に、反してはないように思えますね」
戸部「ありがとう。天満さんは?」
稔江「男の人が年金相談をした後、急に態度が変わって結婚することになったでしょう。そこがちょっと気になるわね」
戸部「なるほど、ありがとう。君本さんは?」
早苗「その前に、戸部さんの意見は?」
戸部「私はこの二人の結婚について、特に問題はなさそうだし、偽装結婚とは言えない、と思うよ」
早苗「この二人の間に、愛はあるのかしら? 戸部さん、どう思います?」
戸部「あるのかなぁ? わからないな」
早苗「私はこの二人の間に、そこに愛しかないような気がする。」
早苗が鋭い視線で戸部を見つめた。
戸部「……」
稔江「なに、この重い雰囲気?」
戸部「……」
戸部が慌てて、
戸部「ありがとう。君本さんの考えがわかりました。では、この婚姻届、偽装ではないということで受理し、後日法務局へ送付します」
稔江(なんか、怪しいな、この二人)
その日の夜。
戸部は珍しく夢を見た。住民課の課長が鬼塚厳司ではなく、君本早苗なのだ。
早苗「戸部君、ちょっと」
早苗が自席に戸部を呼び寄せた。
戸部「はい、なんでしょうか? 課長はん」
早苗「あんた、あの日の夜、消しゴムをわざと落としたのか?」
戸部「いいえ、偶然です」
早苗「あんた机の下で、私にキスをしたよな」
戸部「と、とんでもない! キスをされたのです」
早苗「そんな言い訳をして、あんた、あたいに愛はあるんか?」
戸部「えっ!」
早苗「まさか、愛を消しゴムで消そうなんて思うとんのか?」
戸部「め、滅相も無い」
早苗「なら、もう一度聞く。あんた、あたいに愛はあるんか?」
戸部「……」
戸部が黙っていると、早苗の顔がどんどん戸部の顔に近づいて来た。
そこにいつの間にか天満稔江が入って来て、
稔江「やっぱり!」
戸部「うわーーーっ」
戸部が飛び起きた。
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【後書き】
今回のテーマは、知る人ぞ知る「加給年金」でした。 一見すると「お金目的の偽装結婚?」と疑いたくなるような年の差婚ですが、その裏には、孤独な二人がお互いの優しさに触れた温かい物語がありました。
最後は川原梨沙さんの真っ直ぐな言葉に、戸部たちだけでなく、私(作者)自身も胸が熱くなりました。「夜の方もOK」なんて大胆な発言もありましたが、彼女にとってはそれすらも加茂さんへの純粋な信頼の証だったのかもしれません。
早苗が言った「そこに愛しかないような気がする」という言葉。皆さんはどう感じられたでしょうか?
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【作者よりお願い】
最後までお読みいただきありがとうございます!
今回は「加給年金」という少しマニアックな制度が、二人の運命を動かす鍵となりました。「おトク」から始まった結婚の裏にある、不器用な二人の絆を感じていただけたでしょうか。
もし「この二人の門出を応援したい!」「加給年金の仕組みが少しわかった!」と思っていただけましたら、下にある「☆☆☆☆☆」から評価やポイントをいただけますと、執筆の励みになります!
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