69 ◎『ボートレース戸田』の舟券師(その3)
【06】 夫の死後、それから……
竹林建設社長の急死により急きょ時子が社長に就任することになった。時子は、社長になることをかたくなに拒んだのだが、社員の強い要請、受注している仕事があることなど
から仕方なく社長の職に就いた。
時子「私、社長になっても何も出来ないし、何もわからないのよ。それでもいいの?」
社員「はい、お願いします。我々社員が何もかもしますから。とにかく会社の存続だけは。
そして受注している仕事は、やらせてください。お願いします」
社員一同が、時子に頭を下げた。それを見て時子は引き受けざるを得なかった。
【夫の死から1年後】
社員の力、社員の助けがあって、時子は社長を続けることが出来た。そして実力を兼ね備えた社長になるべく毎日努力を積み重ねた。
時子(今の私があるのは社員のお陰。こうして居られるのも本当に社員のお陰だわ。夫の死によって会社を解散していたらどうなっていたことか? 社員には感謝しかないわね)
時子は寝る前にいつもそう思って眠りについた。
【夫の死から2年後】
時子は、会社の維持に力を注ぎながらも、交通事故被害者とも関わるようになっていた。夫の死に関連する手続きや情報交換の場として、交通事故被害者と顔を合わせた。
【夫の死から3年後】
やがて時子は少し時間に余裕が出来ると、被害者の範囲を広げ交通遺児や施設へ訪れるようになった。そこで時子は、交通遺児の新井と出会ったのだった。
時子は交通事故被害者と関わる内に、自分に何か援助が出来ないだろうかと考えるようになっていった。
【夫の死から4年後】
時子は以前からボートレースを見ることが趣味だった。若い時はボートレーサーになることさえも考えた。しかし偶然にも建設会社の社長から結婚を申し込まれ、ボートレースとも離れて行った。
夫の死から4年が経過し会社も軌道に乗ると、時子はボートレース場へ行き息抜きした。夫の死という記憶から離れ、会社から離れ、唯一時子が他のことに夢中になれる時間だった。
【夫の死から5年後】
時子に子供は居なかった。それだけに訪問している交通遺児たちと接していると心がなごんだ。
時子(この子たちのために何か寄付出来ないかしら?)
時子(趣味のボートレース。交通遺児への寄付)
時子の頭の中で『趣味と寄付』が結びついた。
時子(もし、ボートレースで利益が出たら、そのお金を積み立てて交通遺児関連団体に寄付できないかしら?)
【夫の死から6年後】
時子は会社が休みで、時間に余裕があればボートレース場に通った。もしボートレースで儲かったら交通遺児関連団体に寄付しようと思っているのだが、年間を通してボートレースでプラスになることは無かった。プラスマイナスゼロがいいところだった。
【夫の死から10年後】
朝10時『ボートレース戸田』入口付近。
偶然にもボートレース場で時子は新井と再会した。
最初に、時子に声を掛けたのは新井だった。
新井「社長、私の事覚えていますか?」
時子「いえ? どなたですか?」
新井「交通遺児施設でお世話になった新井です」
時子「えっ、新井君?」
新井「はい、社長。時々食料や文具を持って来てくれましたよね」
時子「そんなこと覚えていてくれてたんだ?」
新井「もちろんですよ」
この時、時子40歳、新井24歳だった。
時子「6年ぶり?」
新井「そうですね、そのぐらいですかね」
時子「施設は何歳まで居られるの?」
新井「18歳です」
時子「それからは?」
新井「施設を出て働いたのですが、どこに行ってもうまくいかなくて」
時子「そう……」
新井「いろんなことをやりました」
時子「今は?」
新井「舟券を買って生活してます」
時子「えっ! ほんとに?」
新井「はい」
時子「『舟券だけで生活している人が居る』とは聞いたことがあるけれど、本当だったのね」
新井「はい」
時子「それが新井君だなんて」
新井「でも、やっとの生活ですよ」
時子「それでもすごいわよ。私なんか儲からないもん」
新井「それ、普通ですから」
時子「そうかぁ、新井君は俗に言う『舟券師』として生きてるのね」
新井「まぁ」
時子「でも、それに飽きたらウチで働いてもいいのよ」
新井「ありがとうございます。でも、どうかな?」
時子「そうよね。そんなことはどうでもいいの。ねぇ、今度、当たり舟券を教えて!」
新井「そうですね。でも当たらない方が多いから」
時子「随分、謙虚なのね」
時子は、新井と話しながら、以前新井が言ってた言葉を思い出した。新井の両親も交通事故で亡くなった。新井と姉と両親と4人で乗っていた車が正面衝突したのだ。前列に乗っていた両親が亡くなり、後列の新井と姉は助かった。原因はやはり正面衝突で、相手運転手は86歳だった。
新井「なんで86歳で運転出来るんでしょうかね。17歳の僕は免許を取る資格が無いのに」
時子「そうよね、私もそう思ってるのよ。夫の車にぶつかった運転手は90歳だったわ」
新井「86歳と17歳と、どっちが運動神経がいいと思います?」
時子「もちろん17歳よ」
新井「だったら、70歳ぐらいで運転免許は自動喪失でいいじゃないですか? 人生最後の18年ぐらいは運転出来なくすれば、若者と平等になります!」
時子「ほんと! そうなって欲しいわ。すでにそうなっていれば、あなたのご両親も私の夫も生きていたのに……」
新井に会って、その時の会話を思い出したのだった。
時子「いつもレース場のどのあたりに居るの?」
新井「大時計の左あたりです」
時子「そうなんだ」
新井「社長は?」
時子「特別観覧席」
新井「さすが、社長!」
時子「やめてよ恥ずかしい。名前だけなんだから」
新井「いえ『女性なのに仕事が出来る』って評判ですよ」
時子「あらっ、そうなの?」
新井「ええ、たまにネットでチェック入れてますから」
時子「ネットって、たまには正しいことを言うのね」
新井「ははは、違いない」
時子「それにしても、お互い何度もここに来ていたのに。すれ違いなんて、まるでメロドラマね。……あら、いけない。私から見たら新井君は息子みたいだけど、あなたから見たら私なんてただのおばちゃんよね」
新井「と、とんでもない! 憧れの天使ですよ」
時子「本当?」
新井「本当ですよ! 僕は中学の時に両親を亡くしていますから、社長は母親のように見てました」
時子「なんだ、母親かぁ~」
新井「母親って天使みたいじゃないですか。画家ラファエロの聖母子像のように」
時子「『天使』ね。私は天使だと思えばいいのね」
新井「だから最初から言ってるじゃないですか。『憧れの天使』だと」
時子「ありがとう。おばちゃん嬉しいわ」
新井「『おばちゃん』は余計です」
時子「ははははは」
二人は6年の時を忘れ話に夢中になって話した。
時子「私、前々から交通遺児関連団体に寄付とか援助が出来ないかと考えていたのよ」
新井「僕が居た頃から、社長には食料など援助してもらっていましたよ」
時子「でも、もっとしたいのよ。食料だけじゃ施設を出てから苦労するでしょう? だから子供たちの未来がもっと開けるように」
新井「そうですね。僕はまともな就職が出来ませんでした」
時子「そうよ。だって、世間はそういう施設の存在なんか知らないし、目を向けることも無いのよ。大学へ行くにしても就職するにしても、両親の居る家庭の子と競争したら絶対に負けちゃうわよ」
新井「それが現実でしょうね」
時子「ねぇ、新井君と私とタッグを組んで、何かプロジェクトを起こさない?」
新井「例えば?」
時子「ボートレースで利益を出して、その一部を市内の交通遺児に役立てるとか?」
新井「いいですね! やりましょう!」
【夫の死から15年後】
時子と新井はタッグを組みここ5年間、毎年30万円から50万円を交通遺児施設へ寄付して来た。
新井「ここらで、大金を手にしたいですね」
時子「やっぱりそう思う?」
新井「ええ、」
時子「毎年40万円ぐらいの寄付じゃ、とても足らないような気がしてたのよ」
新井「まぁ、そうでしょうね。施設からすれば、もちろんありがたいことはありがたいでしょうけれど」
時子「大学の入学金や授業料って高いものね」
新井「交通遺児から見たら、大学は夢のまた夢です」
時子「そうよね。まして医者になりたい、弁護士になりたいなんて、もっと無理でしょう?」
新井「ええ、あり得ないです」
時子「施設を卒業した人々のために、寮みたいなものがあったら助からないかしら?」
新井「いいですね。今、家賃高いですからね。2畳ひと間でも3畳ひと間でもいいから自分の部屋が欲しいでしょうね。それに共同のシャワーがあったら最高です」
時子「銭湯へは行かないの?」
新井「僕らにとって銭湯は高いし、冬とか雨の日に銭湯まで歩いて行くのは大変な事なんです。今、銭湯なんて近くに無いですからね」
時子「そうかぁ、雨の日が大変なら雪の日や台風の時はもっと大変よね。銭湯って無くなって、今は健康ランドだものね。家風呂の私は、そんなことちっとも知らなかったわ」
新井「寮を建て、入寮者たちで何か起業出来たらいいのに。施設を出た者たちがやみくもに生活保護に頼ると言うのもどうかと思いますね」
時子「生活保護はいっときであって、自立しないとね。そういう点で、あなたは立派だわ」
新井「施設を卒業した者にとって、賃金は多少低くてもいいんです。その代わり、やり甲斐があって一生続けられるような仕事をしたいですね」
時子「『やり甲斐』と『継続』ね」
時子「一発、イチかバチか、ボートレースで賭けてみましょうか?」
新井「やりますか!」
時子「ええ」
新井「いくらぐらいを目標に?」
時子「1千万円ね!」
新井「いいですね」
時子「今年儲かっている50万円で」
新井「50万円を1千万円にしましょう!」
時子「新井さんなら出来るわよ」
新井「そうですね、私にとっての天使がそう言うのなら出来そうな気がしてきました」
時子「じゃぁ、次の勝負は大勝負と言うことで」
新井「わかりました。そんなレースが来るまで待ちましょう」
時子「わかったわ。急ぐことはないからね」
新井「はい。勝負の時は声を掛けます」
時子と新井は特別観覧席に、別々の時間に来て、別々の席に座る。その方が気楽で予想に集中でき、周りから変な目で見られることが無いからだった。
2週間後。大勝負の時が来た!!!
2週間ほど時子と新井は顔を合わせていなかったのだが、この日新井は特別観覧席に姿を現した。時子と新井は別々の席に座っていた。
この日の開催は『GⅠの記念レース』。開催最終日、優勝戦を前に新井が時子に近づいて来た。
新井「スタート展示次第では、このレースで勝負します」
新井が耳元でささやいた。
時子が小さく頷いた。
時子(耳元でささやかれるって感じちゃうわね。久しぶりに新井君に会ったせいかしら。わたし、変?)
【07】 竹林時子、当たれば1千万円!
ボートレース戸田 最終日 12R G1優勝戦
実況「水面上、ただいまから第12レースのスタート(・・・・)展示を行います。現在の気象状況は気温18度、水温18度、風はスタートラインに対して右横風2mでございます」
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
【出走表】 ボートレース戸田 最終日 12R G1優勝戦
気温18度 晴れ 右横風2m 水温18度 波高1cm
1枠 松山繁雄 44歳 A1級 勝率7.47 モーター- 1322121
2枠 小崎智矢 40歳 A1級 勝率8.05 モーター◎ 2322221
3枠 魚川友之 38歳 A1級 勝率6.84 モーター× 2214631
4枠 丸井政典 35歳 A1級 勝率6.78 モーター△ 2241112
5枠 吉見拓郎 32歳 A1級 勝率8.04 モーター○ 1114352
6枠 平岩一男 48歳 A1級 勝率6.61 モーター- 3245122
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
ピットから優勝戦に出場する6艇が猛ダッシュで出て来た。特に内3艇の勢いは凄まじかった。
新井(優勝賞金1,200万円を取りに来てるな。相当入れ込んでるぞ!)
新井(こっちも配当金1,000万円を取りに行ってるんだから、気持ちはわかるけど)
実況「第12レースのスタート展示、進入体形は内から、1番2番3番4番5番6番です」
1番2番3番がスローで、4番5番6番がダッシュでスタートした。
実況「ただいまのスタート展示、1番3番がフライングでした」
1番が『07』のフライング、3番が『08』のフライング、2番はかなり遅れた。
新井「内側3艇は『イン取り(1コースの取り合い)』に気を取られて、スタートが合わないな」
新井は、メモ用紙を取り出し何やら記入した。そして、その紙を時子に渡しに行った。新井は時子の所まで行くと、黙って一瞬の内に、時子の手にその紙を握らせた。時子は周りに見られないようにメモを見た。
メモには、
『4-2-1に15万円
4-1-2に15万円
4-1-3に15万円
どうでしょう?』
時子は遠くから新井に指でOKサインを出し、舟券投票所の方に向かった。時子は舟券投票所に着くと、一番近くのモニターを見た。
時子(『4-2-1』『4-1-2』『4-1-3』のオッズはと?)
時子(いずれもほぼ同じ。70倍ね)
時子(と言うことは、15万円の70倍、1050万円)
時子(目標額通り、と言いたいところだけれど、15万円買ったら当然配当が落ちるから、700万円、良くて800万円ってとこかしら?)
時子(まぁいいわ、とにかく買わなきゃ絶対に当たらないものね)
時子は、ざっくりと50枚ぐらいの万札を自動発払機に投入した。
【12レース 3連単
『4』→『2』→『1』◆◆◆150,000円
『4』→『1』→『2』◆◆◆150,000円
『4』→『1』→『3』◆◆◆150,000円
合計◆◆◆450,000円 】
印字された舟券とおつりが出て来た。
時子(買っちゃった!)
時子は舟券を手にすると、胸がどきどきして来た。舟券を財布にしまい、特別観覧席に戻った。




