65 ◎舟券師を探せ!(前編)
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【あらまし】(舟券師を探すエピソード)
美浦市役所税務課に勤める由利源吾は、職場の先輩・笹倉麗子から、ボートレースの勝ち金だけで生活する「本物の舟券師」が実在することを聞かされる。職務上、その正体を明かせないという麗子から得た唯一の手がかりは、競艇に精通した官能小説家・富田竹夫の存在だった。
意を決してボートレース場へと向かった由利を待ち受けていたのは、富田から課される『官能小説タイトル10本ノック』という奇妙な試験。
偽りのファンを見抜く老作家と、若き役所職員。二人の奇妙な交流が始まったとき、由利の前に『孤独な一匹狼』の影が通り過ぎる
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【主な登場人物】
由利源吾 31歳男 美浦市役所税務課主任
笹倉麗子 58歳女 美浦市役所税務課主任
富田竹夫 67歳男 小説家
新井英児 34歳男 『ボートレース戸田』の舟券師
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1. 由利源吾
•職業: 美浦市役所 税務課 職員。
•属性: 三流大学出身を自称するが、行動力と愛嬌がある。
•特徴: ボートレースを趣味としており、「舟券師」の存在に強い関心を抱いている。
•性格: 素直で押しに弱いが、ターゲット(富田竹夫)に食らいつく粘り強さも持つ。官能小説を読ん で興奮したり、若者に対抗心を燃やしたりと、人間味あふれるキャラクター。
2. 笹倉麗子
•職業: 美浦市役所 税務課 職員(由利の同僚)。
•年齢: 58歳(定年まであと2年)。
•家族: 63歳の夫(定年退職済、ボートレースで負けてばかり)。
•特徴: 「美魔女」と称されるほど若々しい。職務上(確定申告の受付)で本物の舟券師を知っているが、守秘義務を徹底するプロ意識の高い公務員。由利に富田竹夫の情報を与え、物語を動かすきっかけを作る。
3. 富田竹夫
•職業: 小説家(官能小説からギャンブル小説まで300作以上を執筆)。
•属性: 一流大学文学部卒。ボートレースに精通し、日本で唯一「競艇」をテーマにした小説を書く。
•特徴: 戸田ボートレース場の特別観覧席(特観席)の常連。
•性格: 寡黙で最初は警戒心が強いが、自分の作品に対する本音の感想を喜ぶ一面がある。由利に対し、「読み終えた自著を持参して感想を言うこと」を条件に、舟券師の情報提供を約束する。
4. 新井英児
•職業: 舟券師(プロのギャンブラー)。
•年齢: 34歳。
•特徴: 『ボートレース戸田』を拠点とする。痩身で髪が長く、孤独に生きる「一匹狼」。
•行動: 富田とだけは言葉を交わすが、滞在時間は極めて短い。選手の朝練を必ずチェックするなど、徹底したプロの流儀を持つ。
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【01】 墓場へ持って行く物
ある日の税務課。午後5時15分。本日の業務が終了した。
麗子「由利さん、明日はどこか出かけるの?」
笹倉麗子、58歳。麗子の夫は63歳、すでに会社を定年になっていた。
由利「明日、天気が良ければボートレース場に行ってみようかな」
麗子「明日は天気いいわよ。がっちり儲けてきてね。うちの旦那なんか負けてばっかりなんだから」
由利「私も負けっぱなしですよ。世の中には、ボートレースで儲けて、それだけで生活している人がいるって言うけれど本当なんですかね?」
麗子「本当よ、いるわよ!」
麗子の即答に由利は驚いた。
由利「えっ! 根拠があるんですか?」
麗子「あるわよ!」
由利「えっ?」
麗子「私が生き証人よ!」
由利「舟券師を知っているんですか?」
麗子「知ってるわよ!」
由利「会ったことあるんですか?」
麗子「あるわよ!」
由利「本当ですか?」
麗子「本当よ!」
由利「どこに居るんですか?」
麗子「教えない!」
由利「そんな……」
麗子「絶対に教えない!」
由利「名前は?」
麗子「教えない!」
由利「そんな」
麗子「絶対に教えない!」
由利「それって、ひどくないですか?」
麗子「ひどくないわよ」
由利「どうして教えてくれないのですか?」
麗子「それはね、」
由利「それは?」
麗子「それは、」
由利「そんな引っ張らないで、教えてくださいよ。意地悪なんだから」
麗子「若い人をいじめると、なにか若返るような気がするのよ」
由利「笹倉さんは充分若く見えますよ」
麗子「本当?」
由利「本当ですって。しかも魅力的で、世間で言う『美魔女』っていうのに当てはまりますよ」
麗子「そうかしら?」
由利「そうですよ」
麗子「心の底からそう思ってる?」
由利「思ってますとも」
麗子「言い方が軽いわね。本心で言ってないでしょ?」
由利「笹倉さんは、誰が見ても40代にしか見えませんよ」
麗子「舟券師のことを知りたいがために、嘘を言っているんでしょう」
由利「そんなぁ~」
麗子「まぁいいわ。実を言うとね、」
由利「実を言うと…、もう、これ以上引っ張らないでくださいよ」
麗子「実を言うと、職務上知り得た秘密だから、これ以上はしゃべれないのよ」
由利「『職務上』?」
麗子「『職務上』って言えば、わかるでしょう?」
由利「さっぱりわかりません」
麗子「ほら、2月、3月の……」
由利「税金の申告?」
麗子「そうよ」
由利「税金の申告の時、たまたま私が受けたお客様が、舟券師だったのよ」
麗子「もうこれ以上私は何も言わないわよ」
由利「私にもですか?」
麗子「そうよ。職務上知り得た秘密だから、家族にも、職場の同僚にも話せないのよ」
由利「そうか。じゃぁ、笹倉さんは、あと2年で定年退職だから、退職したらその舟券師のことについて教えてください」
麗子「ダメ!」
由利「どうして?」
麗子「職務上知り得たことは、退職後も秘密にしなければいけないのよ。法律で決まっているでしょう」
由利「そうなんだ」
麗子「私こんなことで秘密漏洩し、2年後にもらえる退職金をふいにしたくないもの」
由利「確かに……」
麗子「だから、舟券師が誰で、どこに住んでいて、どのぐらい稼ぐか、私がお客様から聞いたことはすべて墓場まで持っていくの」
由利「墓場まで持っていくにしては、その話、重くないですか? ここで話した方が軽くなり身軽に墓場まで行けますよ」
麗子「大丈夫。墓場まで持っていく話は山ほどあるから、すべて段ボールに詰めて、しっかりテープで止めて宅配便で墓場に送っちゃうから」
麗子が身振り手振りを添えて言った。
由利「お墓に直送ですか……」
麗子「そうよ。置き配にせず、骨壺の中に入れてもらうの」
由利はがっくりと肩を落とした。
由利「まさか、日時指定じゃないですよね?」
麗子「由利さん、私を殺すつもり!」
由利「ははははは」
麗子「そんなにがっかりしないでよ。来年の申告のときは、由利さんがそのお客様の受付をするかも知れないじゃない?」
由利「うーん、職員15人で受付したら、当たる確率は15分の1ですからね」
麗子「ボートレースの当たる確率より高いでしょう?」
由利「2連複と同じ確率ですね」
麗子「まぁ、来年の申告のときは、休まず毎日ひとりでも多くのお客様を受付することね。やる気が出て、ちょうどいいじゃない」
由利「とほほほ……」
由利が席を立ち、帰りかけたときだった。
麗子「あっ、そうだ!」
由利「なんですか? 急に」
麗子「舟券師について知りたいのよね?」
由利「もちろんです!」
麗子「今思い出したわ。うちの旦那が言っていたんだけど、小説家でボートレースが大好きな人がいるんだって」
由利「誰だろう……富田竹夫かな?」
麗子「そうそう、その富田竹夫よ」
由利「その富田先生がどうかしたんですか?」
麗子「旦那の話だと、富田竹夫はボートレース場の特別観覧席によく来ているんですって」
由利「へぇ、そうなんですか」
麗子「月の半分ぐらい来てるらしいわ」
由利「そんなに!」
麗子「それでね、その富田竹夫が特別観覧席でよく親しげに話している男性がいるらしいの。それが舟券師なんですって」
由利「えーっ! それはすごい情報だ!!!」
麗子「だから、特別観覧席に行って富田竹夫を探してみたらいいんじゃない?」
由利「早速、明日行ってみます。いつもは一般席ですが、明日は奮発して特観席に入りますよ!」
麗子「いい? 今の話は、職務上知り得た内容じゃないからね」
由利「はい、わかっています!」
麗子「富田竹夫の顔はわかるの?」
由利「なんとなくは。でも、これから古本屋へ行って調べてみます」
麗子「古本屋で?」
由利「ほら、作家の顔写真って本のカバーの袖に載っていたりするじゃないですか」
麗子「なるほどね。そうね」
由利「貴重な情報をありがとうございました。明日が楽しみです。わくわくしてきました!」
麗子「会えるといいわね。もし儲ける方法を聞けたら、私にもこっそり教えてね」
由利「もちろんです! 笹倉さんと違って、私は墓場まで持っていったりしませんから」
麗子「まったく、もう!」
【02】 小説家、富田竹夫
由利はその日の帰り、全国にある有名な古本屋チェーン店に立ち寄った。
由利(私は、この店大好きなんだよな。旅行先でも、この店を見つけると必ず入るからな)
由利は店の奥へと入っていった。
由利(さて、富田竹夫の本、あるかな? この探しているときが何とも言えず楽しいんだよな。欲しい物を探す、これ、至福の時)
本棚に目をやると、すぐに目当てのコーナーが見つかった。
由利(おおっ、あった、あった! 結構な冊数だぞ)
由利(タイトルは……『欲情物語』『欲情の門』『欲情の部屋』……欲情づくしだな。次は『背徳の小部屋』『女性の小部屋』と部屋づくし。『二人がいなくなった夜』『歪んだ初夜』『結婚前の初夜』……夜づくしか。他にも『情事の四季』『恋と欲望の四季』『密会の四季』。四季まで……。それ以外にも『温まった乳房』『制服の胸』『その夜の声』『これが男だ』『朝立ちのソング』『おさない妻たち』『私の女友達』『官能パーティー』『処女組合』『女人追想』。……ほとんど官能小説じゃないか)
由利は一冊ずつ丁寧に手に取り、カバーを調べた。棚の終盤で見つけた『女人追想』という本を裏返すと――。
由利(おっ、あったぞ顔写真。いい男だなぁ。柄物のシャツにジャケットか。よく覚えておこう。プロフィールは……えーっ、一流大学の文学部卒か。三流大学を裏口同然で入った私とはえらい違いだ。さて、ちょっと中身を読んでみるか。この店は少しなら立ち読みできるから助かる。最近の本屋はみんなビニールがかかっていて試し読みもできないからな)
由利は冒頭から斜め読みを始めた。数ページ進んだところで――。
由利
生唾を飲み込んだ。
由利(まずい、下半身の真ん中が反応し始めた……)
ページをめくる手が止まらないが、これ以上は危険だと判断した。
由利(ここでやめておこう。これ以上は……)
由利はズボンの膨らみを悟られないよう、隣のスポーツコーナーへ移動した。すると、後から来た20歳くらいの若者が、さっき由利が置いてきた富田竹夫の本を読み始めた。
由利(あいつもきっと、すぐにズボンが膨らみ始めるぞ。ヒヒヒ……)
サッカーの本を読んでいるふりをしながら、若者の股間をじっと観察する。
由利(うむ……変化がないな?)
そのうち、若者がつぶやいた。
若者「イマイチだな」
若者は本を戻し、別のコーナーへ去っていった。
由利(負けた……あんな若造に負けるとは……!)
結局、由利は若者への敗北感を噛み締めながら、先ほど自分が興奮した本を買って店を出た。
有名人にはボートレース(競艇)に詳しい者が少なくない。アナウンサー、漫画家、芸人、作家など、あらゆる分野に「競艇オタク」が存在する。その中でも作家・富田竹夫は、ずば抜けて経験と知識が豊富だった。
富田は日本で唯一、競艇をテーマとした小説を執筆しており、ファンからの人気も高かった。
週刊誌のインタビューで、富田は次のように語っている。
「私は今までに、何人かの自称『舟券師』と会ったことがある。全国24か所のボートレース場に足を運ぶ中で、彼らの方から声をかけてもらったのだ。現在、各場に数人ずつ本物の舟券師が存在していることを知ったが、その中でも特に印象深い人物が4人いた。しかし、彼らと再び会えるかどうかはわからない。おそらく、二度と会うことはないだろう。
私は彼らから様々な話を聞いた。ごく普通の生活を捨て、家族や友人と縁を絶ち、孤独に生きる。そして、ただひたすら勝ち舟を当てることだけに全力を尽くす。そんな生き方が良いのか悪いのかは、本人にしかわからない。そして彼らは、勝ち舟の当て方を、たとえ何があろうとも絶対に秘密にする。
プロの舟券師は手品師と同じだ。種明かしをした瞬間に職を失う。手の内を明かせば誰もが当て上手になり、配当金は下がる。そうなれば舟券師は食べていけず、野垂れ死ぬしかない。誰も気づかない舟券を買ってこそ、生きられる人間なのだ。
私は秘密を守ることを条件に、テクニックのほんの一部、掌に乗るほどの知恵を教わった。世間に公表できるのはここまでだ。
彼らは、世間との関わりを絶ち、ひとりで食事をし、隠密に生活する。秘密だらけなのは仕方ないことなのである。舟券師とは、誠に孤独で、勝ち舟を当てることだけが彼らにとって唯一の愉悦なのだ」
土曜日午前10時過ぎ『ボートレース戸田』。
まだ第1レースは始まっていない。由利は富田に話しかける決意を固めていた。
由利(来ているかな……)
特観席を端から見回し、半分ほど確認したところで、ついに富田を発見した。
由利(いた!!!)
由利は富田の本を1冊手にして、富田の座っている後方へと向かった。そして、後方にあるロビーで、富田が席から離れるのを待つことにした。
しばらくして、富田は席を立ち、後方のロビーへと向かって歩いて来た。そこを狙って、由利は思い切って富田に話しかけてみた。
由利「こんにちは、私、由利と申します。先生の大ファンです」
富田はきょとんとして、黙っていた。
由利「富田先生の作品は、ほとんど読ませていただいています。何度か、ここで先生の姿を拝見しているのですが、話しかけてはいけないと思い、声を掛けませんでした。ですが、以前、週刊誌のインタビューで『舟券師は隠密に生活する』とおっしゃられていて、それがどういう意味なのか? よく理解できなくて、いつか一度お聞きしたいと思ったのです」
富田は、けげんそうな顔をして黙っていた。
由利「すみません、せっかくボートレースを楽しんでいるのに邪魔しちゃいまして。また、出直して来ます」
富田は、何も答えず黙っていた。
由利は手に持っていた富田が書いた本を持ち上げ、
由利「これ、最高に面白かったです! では、失礼いたします」
由利は、自分で最高の笑みを作り、富田に一礼すると、あきらめて立ち去った。後ろを振り返ることもなく自分の指定席へと戻って行った。
由利(やっぱりダメだったか。だろうな。そんな見ず知らずの人間に、いちいち答えていたら、遊んでいられないもんな)
由利はそう思いながらかなり落ち込んでいた。
翌日、日曜日。
由利は戸田ボートレースの特別観覧席に居た。指定席はスタンドの4階、5階部分を斜面にし、座席が敷き詰められている。前面はガラス張りで、冷暖房完備、夏は涼しく、冬は暖かい。
由利(結構席があるな。500席以上というところか)
由利はぐるっと座席を見渡した。朝10時過ぎというせいか客はまばらで席に座っている者はほとんどいない。
由利(小説家の富田竹夫もまだ来てないな。3階のフードコートで牛丼でも食べるか)
3階のフードコートに全国でも有名な牛丼チェーン店が入っていると聞いていた。由利は一旦特別観覧席を出て3階のフードコートに向かった。
3階フードコートの入り口の真ん中に立ち、由利は込み具合を見ていた。混んではいないがフードコート内の席はまばらに埋まっていた。
そんなときに後ろから声をかけられた。
富田「何かお探しですか?」
富田が入るのに、由利は邪魔になっていた。
由利は慌てて後ろを振り向いた。そこに、昨日、古本屋の小説カバーに載っていたのとまったく同じ、体格の良い富田竹夫が立っていた。
由利「あ、すみません! お邪魔でしたか」
由利は深々と頭を下げた。
富田「いいえ」
由利「ええと、牛丼屋さんはどちらでしたっけ?」
富田「左です。私もそこへ行きますよ」
この時点では、富田は由利が昨日の男だとは気づいていないようだった。
由利「富田先生もですか?」
富田「私のことをご存じで?」
由利「はい、先生の作品が大好きなんです」
由利は半分嘘をついた。昨日初めて数ページ読んだだけだが、面白かったのは事実だ。
富田「……おや! 昨日話しかけてきた方ですね」
由利「はい、そうです」
富田「昨日は失礼しました。光栄です。時間がないので一緒に牛丼屋へ行きましょう」
由利「はい!」
由利(なんということだ。富田竹夫に誘われるなんて! それこそこちらが光栄だ!)
二人は牛丼を手に、同じテーブルに腰を下ろした。
富田「いただきましょう」
富田は手際よく食べ始める。
由利「昨日、先生の『女人追想』を読み始めたところなんです」
富田は口がいっぱいだったのか、黙って頷いた。
由利「読んでいて、思わず興奮してしまいました」
富田「それは良かった」
由利「本当に大好きなんです。学生時代は文学部で、本を読むのが趣味でしたから」
富田「もう300作品以上書いていますからね。いくつかでも気に入っていただけたのなら、作家冥利に尽きます」
由利「えっ、300作品も!?」
【03】 富田の『小説タイトル10本ノック』
富田の元には、この手の人間がよく言い寄ってくる。本物のファンかどうかを試すため、あるいは体よく追い払うために、彼はいつも『小説タイトル10本ノック』というクイズを用意していた。
富田「ちなみにどんな作品を読まれたのか。時間がないので、1分以内にタイトルを10個言えますか?」
由利「えっ、1分以内にですか?」
由利は冷や汗をかきながら、昨日古本屋で見たタイトルを必死に思い出した。
由利(まずい! ええと……『欲情』が3冊、『部屋』が3冊、『夜』が3冊。それに『女人追想』で計10冊だ。これしかない!)
富田「あの壁時計の秒針が真上に来たらスタートです」
時計の針が頂点に向かう。由利の緊張はマックスに達した。
富田「スタート」
由利「『欲情物語』!」
富田「ひとつ」
由利「『欲情の門』!」
富田「ふたつ」
由利「『欲情の部屋』!」
富田「みっつ」
由利が言うたびに、富田がカウントする。
由利「『背徳の小部屋』!」
富田「よっつ」
由利「『女性の小部屋』!」
富田「いつつ」
由利は『欲情の部屋』で「部屋」という単語をすでに使っていることに気づいていない。
由利「『二人がいなくなった夜』!」
富田「むっつ」
由利「『歪んだ初夜』!」
富田「ななつ」
由利「『結婚前の初夜』!」
富田「やっつ」
由利「『女人追想』!」
富田「ここのつ」
由利「あれっ? 足りない!」
焦る。なぜだ。計算では10冊あったはずなのに。
富田「あとひとつ」
由利(ダメだ、何も浮かばない! ……、ここまでか!)
時計の針が数字の「9」を差している。残り15秒となった。
残り、14、13、12、11、10秒、刻々と針が進んで行く。
由利(バチが当たった。にわかファンのメッキが剥がれる……)
残り、9、8、7、6、5秒、刻々と針が進んで行く。
由利が思わず天井に目をやった。
残り、4、3秒、刻々と針が進んで行く。
富田「あと3秒」
視線を戻した由利の目に、富田の背後を通りかかる女性が映った。湯気の立つ味噌汁を運ぶ、豊かな胸の持ち主。
残り2秒、1秒――。
由利「『温かい乳房』!」
思わず叫んでいた。通りかかった女性がじろりとこちらを睨む。
由利(まずい!)
由利は首をすくめた。
女性「変態!」
女性は吐き捨てるように言って遠ざかった。
富田「……10。時間ピッタリです」
由利「ふぅ……」
富田「正確には『温まった乳房』ですがね。まぁいいでしょう、おまけです」
由利「すみません……」
富田「あなたの言ったタイトルの方が、語感がいいですね。失敗しました」
富田が優しく微笑み、由利もつられて笑った。
由利は牛丼を口に運んだ。
富田「さて、私は特観席に戻ろうかな。何か私に用がありましたか?」
由利「申し遅れました。私は美浦市役所に勤めております由利と申します。舟券師という存在に興味を持ち、同僚に相談したところ、富田先生なら何かご存じかもしれないと聞きまして」
富田「舟券師なら懇意にしている者がいます。たまにここで会いますよ」
由利「今日も来られるんですか?」
富田「彼とは約束をしませんからわかりません。もし居たとしても、紹介はできませんよ。彼は極度の人間嫌いで、孤独を愛する一匹狼ですから。私に話しかけてきたのも、たまたま私の小説のファンだったからです」
由利「そうですか……」
富田「では、レースの研究があるので失礼します。……ああ、そうだ。その舟券師は『レーサーの朝練だけは絶対に見る』と言っていましたよ。では」
富田が去り、由利はひとりでゆっくりと牛丼を再び食べ始めた。
由利(やっぱり舟券師は存在するんだ。しかもこんな身近な所に居るとは……)
特別観覧席、午後3時半。
あれから由利と富田は特別観覧席に戻り、お互い別々に自由に過ごしていた。由利と富田の席はかなり離れていた。由利はときどき富田に目をやったが近づくことはなかった。富田が仕事の合間を縫ってせっかく楽しんでいるところを邪魔したくなかったからだ。
帰り際、由利が挨拶に向かう。
由利「帰ります」
富田「そう」
由利「また来週来ます」
富田「ええ、また」
その日は、そこで別れた。




