48 ■河津さんはパソコンが苦手 編
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【あらまし】(コメディです。このエピソードだけ読んでも楽しめます)
河津八郎(かわづ・はちろう・52歳)はソロバンで育った時代の人間。パソコンのことは、まったくわからない。
そんな河津を見るに見かねて永野美咲(ながの・みさき・25歳)が助けにやって来た。
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【主な登場人物】
河津八郎 52歳男 美浦市役所住民課主任
永野美咲 25歳女 美浦市役所住民課主事
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】 河津さんとパソコン
週明け月曜日の住民課。
いつものように河津八郎(かわづ・はちろう・52歳)が朝7時に出勤してきた。始業は8時半だが、彼はいつも1時間半も早く姿を現す。そんな河津は、周りの職員から「憎めない先輩」として好かれていた。
河津は52歳、パソコンが大の苦手だった。そもそも彼の学生時代、パソコンはまだ一般的ではなく、計算といえばソロバンの時代。習い事といえば、まずはソロバンという世代だったのだ。 それがいつの間にか電卓へ、そしてパソコンのエクセルへと変わってしまった。しかし河津さんは、時代の変化についていけなかった。
ある日のこと。
美咲「河津さん、そんなに体を前後にゆすってどうしたんですか?」
声をかけたのは永野美咲(ながの・みさき・25歳)。パソコンに精通した若手職員だ。
河津「いや、マウスが、どうも……」
河津は右手にマウスを握りしめ、必死に体を前後に揺らしている。
美咲「マウスがどうかしたんですか?」
河津「画面の矢印を上にやりたいんだが、動かないんだよ」
美咲が画面をのぞき込むと、ポインターは画面中央で止まっている。次に河津の手元を見ると、マウスはマウスパッドの上端にまで達していた。
美咲「マウスがパッドから落ちそうですよ」
河津「そうなんだ。落ちないように、一生懸命体を前へ倒して伸ばしているんだが、矢印が上へ進んでくれないんだ」
美咲「なるほど……」
河津「私の手はふさがっている。永野さん、すまんがモニターを持って下へずらしてくれないか?」
美咲「……すごい解決策を考えつきましたね」
河津「すごいだろう」
美咲「ええ、感心してしまいます。でもその前に、ちょっと休みましょう。ずっと握りしめていては疲れたでしょう」
河津「うん、実は肩が凝ってきたんだ」
美咲「では、いったんマウスから手を離してください」
河津「離して大丈夫かい? 矢印が消えてしまわないかな」
美咲「大丈夫です。私が保証します」
河津「パソコンに詳しい永野さんが言うなら安心だね」
河津が恐る恐る手を離すと、ため息をついた。「ほっ、消えてない」
その様子を見ていた美咲は、マウスをひょいと持ち上げ、パッドの下の方に置き直した。
美咲「河津さん、直りましたよ」
河津「えっ、本当かい?」
半信半疑でマウスを動かすと、スルスルとポインターが上に動いた。
河津「おおっ、あんたはたいしたものだ! どうやって直したんだい?」
美咲「ちょっと持ち上げただけですよ」
河津「ほーっ、そりゃすごい。あんたが発明したのかい、その技を」
美咲「いえ、この技は昔からあるみたいですよ」
河津「へえーっ、そうかね。やっぱり詳しい人は違うなあ」
感心しきりの河津が、ついでにともう一つ尋ねた。
河津「今度はこの矢印を下に向けたいんだが、どうも下を向いてくれなくてね」
見ると、河津はマウス自体の向きをクルリと手前に回転させていた。
河津「ほら、こうして下に向けても、画面の矢印は上を向いたままだろう。すまんが、矢印の向きを変えてもらえないかな?」
美咲「……すみません。私もその技はまだ教わっていないんです」
河津「そうかね。じゃあ、わかったら教えておくれ」
河津がニコッと笑った。美咲は、この大先輩の笑顔がとても可愛らしく思えた。
また、別の日のこと。
河津「パソコンの調子が悪くてね。なにか動きが重いんだ」
美咲「環境のせいでしょうか。私の自宅のパソコンも、たまに動かなくなります」
河津「環境は良いと思うんですよ。机の上は毎朝きれいに拭いていますから」
美咲「……そうですよね」
美咲はそれ以上、何も言えなかった。
美咲「わかりました。パソコンを立ち上げて待っていていただけますか? この作業を終わらせてすぐ行きますから」
河津「ありがとう」
河津は自席に戻っていった。
数分後、美咲が河津の席へ行くと、彼はなぜか直立不動で立っていた。
河津の向かいに座っている白石麗子が美咲の所へ歩み寄り耳打ちした。
美咲「河津さんに『なぜ、ずうっと立っているんですか?』って聞いたら『永野さんに、立ち上がって待つように、言われた』って言うのよ」
それを聞いて美咲が河津さんに向かって言った。
美咲「ごめんなさい、待たせてしまって」
河津「いいんですよ、私の方がお願いしたのですから」
美咲「ずうっと立させてしまって、すみませんでした」
河津「たまには立つのもいいもんですよ」
美咲「そうですか?」
河津「女性のきれいな髪を上から見ることができて」
美咲「なるほど」周りを見渡した。
河津は周りを見渡し、穏やかに続けた。
河津「ほら、昔から 女性のつややかな美しい黒髪を誉める言葉で『髪はカラスの濡れ羽色』って言うじゃありませんか」
美咲「そんな言葉があるのを知りませんでした」
河津「私は、その濡れ羽色と、映画の濡れ場を見るのが大好きなんですよ」
周りがクスクス笑った。
美咲は、それを聞いて『パソコンを立ち上げる』の本当の意味を伝えるのをやめた。彼の醸し出す穏やかな空気が、その場を和ませていたからだ。
河津「電源は入っているんだが、この画面で止まって、矢印も動かないんだ」
美咲が確認すると、確かにフリーズしている。見れば、画面下には16個ものウィンドウが開かれていた。
美咲は「Ctrl」「Alt」「Delete」の3つのキーを、ゆっくり同時に押した。
河津「ひやーっ! 同時に3つも! パソコンの名人はまるでピアノを弾いているみたいだね」 美咲が照れている間に、画面には『タスクマネージャー』が現れた。
美咲「パソコンにも人間と同じように『ツボ』がありまして。そこを押すと直ることがあるんです」
河津「へえー! そのツボはどこだい?」
美咲「この『コントロール』と『オルトと』……」
河津「いや、いいよ。難しそうだし、私は整体師になるわけじゃない。また困ったら永野先生にお願いするから」
再起動を待つ間、河津が独り言のようにぼやいた。
河津「画面が動かなくても自分を『コントロール』して、『パソコンで骨をオルト(折ると)』このキーを押せ! っていう意味かな?」
美咲「すごいわ、河津さん!」
河津「とにかくカタカナは難しいよ。この前、妻に『アップロード』と『ダウンロード』の違いを聞いたら、『上の高速道』と『下の一般道』じゃない? と言われたよ。私に言わせれば『意味わかんな〜い』だよ」
美咲が思わず吹き出した。
やがてパスワード入力画面が表示された。
美咲「河津さん、いつものパスワードをお願いします」
河津がこの世の中で、これ以上ない遅さでキーを叩き始めた。
「NoZo90726」、「N」と「Z」だけは、どこで教わったのか、両手の人差し指を使った。
美咲「複雑なパスワードですね」
河津「これには私の夢が込められているんだ」
美咲が「どんな夢ですか?」と耳を寄せると、河津がこっそり囁いた。
河津「のぞく、女風呂」
美咲「ま……っ!」
その時、通りかかった同僚の明石春菜が、ツッコミを入れた。
春菜「聞こえたわよ! 全くっ、このスケベじじい!」
パシッと軽く頭を叩かれたが、河津は慣れたもので、へらりと笑顔を振りまいている。
美咲「ふふふ、もう」
河津「でも、やっぱり私のパソコンは壊れているんだろうね」
美咲「え、どうしてですか?」
河津「パスワードを打つたびに、全部『*(コメジルシ)』になってしまうんだ。これじゃ何を打ち込んだのか見えないだろう?」
美咲「……それはパソコンが気を利かせて『おんなぶろ(0726)』が、他の人に見られないように隠してくれているんですよ」
河津「なるほど。パソコンってのは、なかなか気が利くやつなんだなぁ」
春菜がとどめのパシッを入れた。
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【後書き】
「パソコンを立ち上げる」という言葉の解釈に、これほどまでの文化的なギャップが生まれるとは、作者である私自身も書きながら河津さんの感性に驚かされました。
「髪はカラスの濡れ羽色」なんて風流な言葉を知っているのに、パスワードの中身がアレだというギャップ……。これこそが河津八郎という男の底知れない魅力(?)なのかもしれません。
皆様の周りにも、もしかしたら「Ctrl+Alt+Del」をピアノのように奏でる「名人」を待っている河津さんが隠れているかもしれません。
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【作者よりお願い】
「パソコンを立ち上げる」の解釈が斜め上すぎる河津さんですが、皆さんの周りにもこんな愛すべき先輩はいませんか?
「パスワードの秘密に笑った!」という方は、ぜひポイント評価(★)やブックマークで応援をお願いします。
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