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女子ボートレーサーと市役所職員  作者: 池井 けい
第5章 戸籍のプロフェッショナル、戸部考一(とべ・こういち)
47/60

47 ♡夜、職場に二人だけ 編

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【あらまし】(恋愛エピソード)

 11月22日『いい夫婦の日』には、多くの婚姻届けが出される。その事務処理に追われ、戸部考一(とべ・こういち・40歳)は残業をしていた。

 そこに君本早苗(きみもと・さなえ・40歳)が食べ物の差し入れにやって来た。

 夜、二人しか居ない職場で、二人は急接近するのだった。

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【主な登場人物】

戸部考一 40歳男 美浦市役所住民課主任

君本早苗 40歳女 美浦市役所住民課主任

鬼塚厳司 55歳男 美浦市役所 住民課長

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【前書き】

●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております

●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました

●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです

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【01】 『いい夫婦の日』は最悪の日?


 戸部は、ここ数日ほぼ毎日残業していた。届けられた戸籍の審査が、一向に終わらないからだ。


 11月22日の朝。

早苗「11月22日って、本当に悲惨よね」

戸部「同情してくれるのは、君本さん(早苗)だけだよ」

早苗「『いい夫婦の日』だからって、婚姻届の提出が半端じゃないもの」

戸部「普段は平均2、3組なのに、今日ばかりは30組以上が押し寄せるからね」

早苗「ええ。おかげで待ち時間も2時間以上が当たり前。お客様もイライラして……」

戸部「中には待ちきれずに、喧嘩を始めるカップルもいるんだよ」

早苗「そうそう! 男性が『こんな日にこだわらなきゃよかったんだ!』って怒鳴れば、女性は『一生のことなのよ!』って言い返してね」

戸部「語呂合わせで縁起が良いと思われているけど、一方でこの日はケネディ大統領が暗殺された日でもあるんだよ」

早苗「ああ、オープンカーでジャクリーン夫人と一緒にいた時よね」

戸部「愛する夫が目の前で狙撃され、その映像が世界中に流れた。夫人にとっては最悪の別れの日だ。それが11月22日なんだよ」

早苗「そう聞くと、本当にいい日なのか怪しくなってくるわね」

戸部「さらにこだわりの強い連中は、11時22分ジャストに受理させようとする。それが3組も重なってみろ、『私たちが先だ』って大揉めさ」

早苗「で、結局どうなるの?」

戸部「役所は受付順に時間を記入するのがルールだからね。11時22分に窓口に来たとしても、先客がいれば受付は午後になることもある」

早苗「あはは、それは傑作ね」

戸部「おまけに、その『11時22分』という時間が曲者なんだ」

早苗「どういうこと?」

戸部「ちょうど昼時だろう? 空腹も手伝ってカップルは『いつまで待たせるんだ!』と怒り出し、職員も『こっちは昼抜きでやってるんだ!』と内心キレている。最後は『人数を増やせ!』『こんな日に来るな!』の罵り合いさ」

早苗「今の解説でよくわかったわ。窓口が修羅場な理由がね」

戸部「まれに待ち時間中に破談になるケースもあるし、個人的な印象だけど、この日に出したカップルは離婚率が高い気がするよ」

早苗「えっ、どうして?」

戸部「何事にもこだわりが強い人間同士は、結婚生活でもぶつかりやすいんじゃないかな」

早苗「……一理あるかもね」


早苗「ねえ、さっきの話だけど、同時に来た3組全員を『11時22分』受付にしてあげるわけにはいかないの?」

戸部「それができない理由があるんだ。たとえば、結婚する男性が60歳の資産家だとしよう」

早苗「うん」

戸部「11時22分に窓口に来たけど、順番待ちの最中、正午に心筋梗塞で亡くなったとする。もし受付時間を『11時22分』に遡って記入したら、妻には多額の相続権が発生する。でも実際にはまだ受理されていない。嘘はつけないんだよ」

早苗「なるほど……。1億円の遺産があったら大問題ね」

戸部「その時点では、まだ職員が書類の内容を確認していないからね。本当にこの二人が独身なのか? 重婚かもしれないし、本当に記載された国籍、住所が正しいのか? 書類に不備があるかもしれない。内容の正しさが確認された時点が、正式な『受理』なんだ」


 住民課、午後5時。

 課長が戸部の席にやってきた。

課長「戸部、婚姻届が多いからって残業するなよ」

戸部「……」

課長「残業が多いのは仕事ができない証拠だ。管理者の俺まで市長に疑われるからな」

 そう言い捨てて課長は去った。戸部は心の中で毒づく。

(そんなもん知るか! 好きで残っているわけじゃないんだ!)

早苗「課長、相変わらずね。残業を減らすことが自分の査定に響くから必死なのよ。手伝いもしないくせに」

戸部「いいさ。みんな自分の仕事で手一杯なのはわかってるから」


 午後5時15分、終業のチャイムが鳴った。

戸部「今日は特に遅くなりそうだ」

早苗「徹夜するの?」

戸部「もう、そこまでの体力はないな」

早苗「大変ね、誰も手伝ってくれないし」

戸部「残業代が出ないんじゃみんな帰るだろう」

早苗「そうよね。残業代を付けないなんておかしいわよ。私は、サービス残業はしないわ」

戸部「市長でも、うちの課長でも、財政課でも『なんで残業になるのかわからない。仕事が遅いからだ』って言うんだからしょうがないよな」

早苗「現場を知らないのよ。課長でも財政課でも市役所内部の仕事でしょ。私たちは窓口と市民からの電話がメインじゃない」

戸部「うん」

早苗「お客様のペースで仕事をするんだもの。終わり間際、夕方5時頃に見えたお客様に『もう時間ですのでお帰りください』なんて言ったらたちまち大喧嘩よ。言い合いになって1、2時間は帰れないわ」

戸部「そう、それなら多少時間がかかる届出書でも、受けた方が早く帰れるからね」

早苗「でも残業代はつかない。なんとかならないのかしら?」

戸部「まぁ私はいつものように残るから、君本さんは先に帰ってください」


 戸部が残業をしなければ、戸籍謄本の発行が遅れ、新婚カップルにさらなる迷惑がかかる。若手職員は「課長に恥をかかせればいい」と言うが、実際に窓口で怒鳴られるのは自分たちなのだ。

(まあ、私が残ることで苦情が一つでも減り、課の平和が保たれるなら……。サービス残業くらい、いくらでもやってやるさ)

 戸部はそう自分に言い聞かせた。


【02】 サービス残業への差し入れ


 夜6時50分。

 夜7時近くになった。戸部がタイムカードを押しに行った。「帰庁時刻」が遅いと課長がうるさいため、形だけ退勤したことにするのだ。

 執務室に戻ると、帰ったはずの早苗が座っていた。

早苗「おにぎり買ってきたわよ。休憩しましょう」

戸部「珍しいね。どうしたんだい?」

早苗「別に、深い意味はないから変に誤解しないでね。いつも仕事の愚痴を聞いてもらっているお礼よ」

早苗はコンビニ袋を広げた。

早苗「あなたが好きそうなのを6つ選んできたわ。好きなだけ取って」

戸部「中身は何だい?」

早苗「ええと……極厚紅鮭に、極上ツナマヨ、特選明太子、最高級紀州梅、超熟成いくら、そしてスペシャル日高昆布よ」

戸部「本当にそう書いてあるのか?」

早苗「書いてあるわよ。書いてなかったら私が書き足すから」

戸部「いい性格してるよ、まぁそう言うところがいいんだけど」

早苗「いいから食べて」


 戸部は苦笑しながら「いくら」を手に取った。

戸部「じゃあ、この『超熟成、大満足の、夜いくら』を。一番高そうだけどいいかな?」

早苗「どうぞ。でもパッケージにそんなこと書いてある?」

戸部「私の感謝を込めて詠んでみたんだ」

早苗「ふふっ、俳句じゃないんだから」

 戸部がおにぎりを頬張ると、驚くほど旨かった。

戸部「うまい……。この職場で食べるものがこんなに旨いと感じたのは初めてだ」

早苗「よかった」

戸部「やはりおにぎりは『超熟成、大満足の、夜いくら』に限るな」

早苗「あはは、もう、大げさね。まったくあなたったら」

早苗は楽しそうだった。


早苗「ねえ、何か手伝うことはない? ゲーム感覚でチェックくらいならできるわよ」

戸部「残業はしない主義じゃなかったのかい?」

早苗「これは残業じゃないわ。ただの暇つぶしよ」

戸部「……ありがとう。じゃあ、届出書の住所欄の最終チェックをお願いできるかな」


【03】 消しゴムが落ちた


 それから二人は、隣り合わせの席で黙々と作業を続けた。

 1時間が過ぎた頃、戸部の手元から消しゴムが滑り落ち、向かいの机との隙間へ転がっていった。

戸部「おっと……」

 戸部は消しゴムを拾うため、机の下へと潜り込んだ。奥の配線が絡まる埃だらけの床を、四つん這いで進む。

 なかなか戻ってこない戸部に、早苗が書類を見たまま声をかけた。

早苗「戸部さん、大丈夫? ……まさか、私のスカートの中を覗いてるんじゃないでしょうね?」

 冗談めかして言ったが、返事がない。

早苗「……戸部さん?」

戸部「ううっ……」


 早苗が慌てて、

早苗「どうしたのよ!」声をかけた。

戸部「うううっ」かすかにうめき声がした。

 早苗はさらに慌てて、机の下に収まっている移動ワゴン(三段引出し)を両手で引き出し、自分が潜れるスペースを確保した。

 早苗も四つん這いになって山中の机の下に顔を入れていった。

早苗「なんて、狭いの。なんでこんな所に、二人潜らないといけないのよ」

 早苗がぶつぶつ言いながら進んでいった。

早苗「汚いわねぇー。ほこりだらけ」

 そこには、額と頬にほこりが付き、眉間にしわを寄せ、痛みで歪んだ顔があった。

 机の下で二人の顔が接近した。

早苗「どうしたの」

戸部「首がつった」

 目を細め、小声で言った。

早苗「えっ!」

 早苗は、戸部の逆側に行こうと、まず戸部の上に重なり、そこから向こうへ進もうとした。

戸部「いや、無理だ。首を左に曲げてくれ」

 早苗は戸部の体に乗ったまま、言われたとおり戸部の首を両手で持ち左へ折り曲げた。

戸部「うううっ」

早苗「大丈夫?」

戸部「うん」

 早苗は、しばらくその位置で戸部の首をキープした。

 少し経って

戸部「ふーっ、治った」

早苗「良かったぁー、死んだかと思ったわよ」


 戸部は苦笑し、まだ上に乗っている早苗に囁いた。

戸部「……胸があたっているよ」

早苗「大きなお世話よ」

 そう言いながらも、早苗は体を横にずらしただけだった。埃まみれの二人の顔が、至近距離で見つめ合う。

戸部「……ありがとう。助かった」

早苗「私はあなたの命の恩人ね」

戸部「うん。せっかくの顔に、ほこりをつけさせちゃったな。ゴメン」

早苗「あなたこそ、ほこりまみれよ」

戸部「本当にゴ」

 埃のついた早苗の顔を見て、戸部が再度「ごめん」と謝ろうとした瞬間だった。

 早苗が顔を寄せ、戸部の唇を塞いだ。驚いた戸部の右手が、吸い寄せられるように彼女の背中へ回る。

 早苗はさらに強く、自分の唇を押し当てた。


 戸部は目を閉じ、思考を止めた。

(ここで何をしているんだ……。いや、いい。今はただ、無の境地だ)

 早苗もまた、彼に抱き寄せられたまま、不思議な安らぎを感じていた。


 やがて唇が離れる。

戸部「……サービス残業はしないんじゃなかったっけ?」

早苗「自分の仕事はね。これは、あなたのサービス残業への『サービス』よ」

戸部「……最高のサービスだね」

早苗「毎回あると思ったら大間違いよ」

戸部「ああ。たまにあるからこそ、価値があるんだ」


 早苗はもう一度、今度は軽くキスをしてから机の下を這い出した。

戸部「首がつるなんて、やっぱり歳かな」

早苗「ずっと同じ姿勢だったからよ。ほぐしてあげる」 

 遅れて出てきた戸部が席に座ると、早苗が背後に回り、彼の首を優しく揉み始めた。 


 二人の睦まじい様子を、巡回中の警備員が怪訝そうにチラリと見て、そのまま通り過ぎて行った。

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【後書き】

「いい夫婦の日」という華やかな記念日の裏側で、それを支える行政職員の過酷な現実と、皮肉にもその「最悪の日」に芽生えた二人の距離感を描きました。 効率やルールが重視される役所という場所で、消しゴムひとつをきっかけに「効率外」の感情が溢れ出すシーンは、作者としても思い入れのある場面です。

 サービス残業という苦い日常の中に、ほんの少しの「甘いサービス」が混ざる。そんな大人の不器用な関係を楽しんでいただけたなら幸いです。

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【作者よりお願い】

 最後まで読んでくださり感謝です! 役所の窓口のリアルな苦労(と、とんでもないハプニング)を描いてみました。机の下での急接近、戸部さんにとっては災難からの幸運……だったのでしょうか?

 もし「おにぎり食べたくなった」という方がいらっしゃいましたら、下にある**【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にして**応援ポチッとお願いします!

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