45 ■愛の三要素 編
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【あらまし】(市役所を舞台にしたエピソード)
なくなった離婚届を見つけるために、住民課職員全員が土曜出勤となった。
しかしこの日は、運悪く館内消毒と重なっていた。職員たちは、この消毒に耐えることが出来るのだろうか?
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【主な登場人物】
鬼塚厳司 (おにつか・ げんじ) 55歳男 美浦市役所住民課長
丹沢純也 (たんざわ・じゅんや) 30歳男 主人公、住民課職員
明石春菜 (あかし ・ はるな) 34歳女 届出の受付担当職員
戸部考一 (とべ ・ こういち) 40歳男 冷静なベテラン職員
君本早苗 (きみもと ・さなえ) 40歳女 冷静なベテラン職員
若石元気 (わかいし・ げんき) 26歳男 戸籍担当の若手職員
宮入芽衣 (みやいり・ めい) 23歳女 窓口担当、新米職員
新川直道 (しんかわ・なおみち) 23歳男 窓口担当、新米職員
消毒業者
ある夫
ある妻
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【前書き】
●この小説には多くの数字が出てきます。そこで読者の皆様が読み易いように横書きとなっております
●多人数での会話も多いことから、誰が話しているのか、すぐにわかるよう会話の頭に台本形式で、氏または名を付けて表現しました
●この物語はフィクションです。実在の個人・団体、実際のレースとは一切関係ありません。ボートレーサーと市役所職員をモデルに、フィクションとして制作されたものです
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【01】全員、土曜出勤
翌日、土曜日。朝8時半。
住民課では、課長をはじめとする職員全員が出勤していた。
課長「離婚届が見つかるまで、すべての場所、すべての書類を当たれ。絶対にどこかにあるはずだ。では、始めろ!」
捜索開始から30分が経過した頃、エレベーターから機材を抱えた業者が現れた。
業者「すみません」
丹沢「はい、なんでしょうか?」
業者「9時から消毒作業の予定になっていますので」
丹沢「えっ、今日ですか?」
業者「はい。年間予定表で決まっています。市役所側が作成された予定ですよ」
丹沢「そうですか……」
業者「薬剤を撒くので、退席された方がいいかと思いますが」
それを聞いた課長は、何も言わず黙って帰宅していった。
丹沢「探し物をしているのですが、どうしても帰らないとまずいですか?」
業者「ええ。ゴキブリ駆除用の煙を焚きますから、体に悪いですよ」
丹沢「わかりました。ギリギリまで粘って、無理だと思ったら帰ります」
業者「それは勝手ですが、倒れたり後遺症が出たりしても責任は持てませんよ」
丹沢「はい、自己責任で残ります。苦しくなる前に出ますから」
業者は淡々と作業を始めた。火災報知器にカバーをかけ、パソコン端末をビニールで覆い、窓を閉め切る。通路のあちこちに薬剤が設置されていく。
この時点で、25人いた職員のうち15人が帰宅した。
業者が薬剤をセットすると、さらに5人が避難した。残り5人。
丹沢「生き残りゲームだな」
新川「ええ……」
1分後、薬剤から勢いよく煙が噴出し始めた。業者たちは他のフロアへ移動していく。
ここでまた一人が脱落。残り4人。さらに1分後、もう一人が帰り、残り3人。
新川「ギブです」新川が耐えきれず避難した。
さらに1分後。
戸部「もうダメだ!」戸部も脱出した。
ついに残されたのは丹沢一人となった。
丹沢(このゲームに勝ったぞ……はははは)
丹沢「く、苦しい……」
丹沢「おえっ! げほっ、ごほっ!」
視界が真っ白に染まる。
丹沢(うわっ! 死ぬ!)
丹沢(ゴキブリはこうやって死んでいくのか)
丹沢(30年生きて来て、やっと死にゆくゴキブリの気持ちが分かったぞ)
丹沢は床に崩れ落ち、出口を目指して這い出そうとした。しかし体が動かない。遠くから見守っていた新川と戸部が慌てて駆け寄り、丹沢を引きずり出した。
丹沢「おえっ! げほっ! うぇっ……」
新川「おえっ! おえっ!」
戸部「おえっ! おえっ!」
丹沢「おえっ! おえっ!」
廊下には、激しくえずく3人の姿があった。
30分後。
丹沢「……喉が痛い」
新川「私もです」
戸部「あぁぁ……」
丹沢が咳払いをして喉の不快感を取ろうとしたが無駄だった。
新川「当たり前ですよ。ゴキブリが死ぬような煙なんですから」
戸部「命があるだけでも、儲けものだな」
新川「私たち3人は、ゴキブリより生命力が強いかもしれませんね」
戸部「だといいが。明日の朝、目が覚めなかったらどうしよう」
新川「やめてくださいよ!」
戸部「……丹沢は喉をやられて、もう喋れないみたいだな」
丹沢は無言で深く頷いた。
戸部「だから業者の言う通り帰ればよかったんだ」
丹沢は今度は首を横に振った。
戸部「……そんなに離婚届を見つけたかったのか?」
丹沢「……うん」
丹沢は掠れた声で答え、小さく頷いた。
戸部「しょうがねぇなあ。じゃあ、防犯カメラの映像から行方を追ってみるか」
新川「防犯カメラにそんな使い道が?」
戸部「ああ。我々に根気と時間さえあればな」
3人は別の部屋に防犯カメラの記録媒体を持ち込み、再生を始めた。
戸部「まず、カウンターで受付した瞬間を探すぞ」
早送りで時刻を追う。
戸部「おっ、あった! ここだ」
画面には、職員が離婚届を受け取る場面が映し出された。そこから3人は食い入るように画面を見つめた。
新川「事務室の机の上に置きましたね」
戸部「あ、また誰か来たぞ」
新川「同じ人ですかね? 別の書類を一枚、上に重ねました。目隠しのつもりでしょうか」
しばらくして、課長が通りかかる。
戸部「ん……?」
新川「課長がその紙をじっと見てますよ」
戸部「何の紙だ?」
新川「映像からは判別できませんね」
その直後、画面の中で予期せぬ事態が起きた。
新川「えっ!」
戸部「おい!」
声の出ない丹沢も目を丸くした。
課長が机の上の紙をわしづかみにしたのだ。
新川「下の離婚届も一緒に行きましたね」
戸部「デスクマットごと持っていきそうな勢いだな……」
次の瞬間、課長はわしづかみにした書類を、迷うことなくシュレッダー行きの回収箱へ放り込んだ。
新川「嘘でしょう……」
戸部「犯人は、課長だったのか」
3人は絶句した。
【02】お詫びのプロフェッショナル
翌朝。課長が受付した職員明石春菜に尋ねた。
課長「例の書類、どこに置いたんだ?」
春菜「事務室の机の上ですが……」
課長「ん?」
春菜は立ち上がり、実際に書類を置いた場所を示した。
春菜「ここです。外から見えないよう、記入例を一枚重ねておいたのですが」
課長「……。そうか」
課長は困惑した表情を浮かべ、逃げるように自席へ戻った。
(あそこに置いてあったのは、ただの記入例じゃなかったのか? その下に本物があったというのか……)
課長は必死に平然を装った。
(いや、あんな場所に置く方が悪いんだ。大事なものを放置する奴の責任だ。私のせいじゃない)
一方で、真実を知った3人。そしていつもの仲間たちが、
丹沢「結局、課長がシュレッダー行きの回収箱へ投げ込んだんですね」
戸部「ああ」
丹沢「『ああ』って……課長に責任を取ってもらうべきですよ!」
戸部「いや、これは組織全体の責任だ。この件はもう忘れた方がいい」
丹沢「そんな!」
戸部「仕方ないだろう。課長が素直に認めると思うか? 『そんな所に置くのが悪い』と逆ギレされるのがオチだ。それどころか、受付した職員や記入例を作った奴に責任をなすりつけ、いじめの標的になる可能性だってある」
早苗「そうね……、私も戸部さんの意見に賛成だわ」
丹沢「……」
早苗「もう一度、届出を書いてもらうしかないんじゃない?」
若石「でも、誰が謝りに行くんですか?」
早苗「こういう時こそ、プロの出番ね」
丹沢「プロ?」
早苗「そう。愛想はないけれど、謝らせたら天下一品」
早苗が戸部を指さした。
戸部「……いいよ、俺が行く。宮入さん、一緒についてきてくれ」
芽衣「えっ! なんで私が?」
戸部「そこに居てくれるだけでいい」
早苗「勉強よ。お詫びは仕事の基本だから」
戸部「お詫びは時間との勝負だ。早ければ早いほどいい。さあ、行くぞ!」
芽衣は渋々、公用車のハンドルを握った。道中、戸部が口を開く。
戸部「すまんが、あそこのコンビニに寄ってくれ」
コンビニ『セマーソン』の駐車場に車を停めると、戸部は一人で店内に入り、プリペイドカードを手に戻ってきた。
戸部「……出してくれ」
道中、戸部はしきりに胃のあたりを押さえていた。
(何百回と謝り慣れているはずなのに、いつまで経っても胃が痛む。正直な体だ)
相手の自宅に到着すると、夫婦と幼い子供がいた。
玄関が開くやいなや、戸部は即座に土下座した。
戸部「私どもの不注意で、お預かりした書類を誤ってシュレッダーにかけてしまいました。誠に申し訳ございません!」
深く、深く頭を下げ、微動だにしない。その迫力に押され、芽衣も慌てて頭を下げた。
妻「冗談じゃないわよ! 役所がそんなミスして、よく給料もらえるわね!」
奥さんの怒号が飛んだ。
夫「まあまあ、お前、そんなに怒らなくても……」
戸部「つきましては、再度届書をご用意いたしました。恐縮ながら署名と押印をいただけないでしょうか。また、これは私共からのささやかなお詫びの気持ちです。どうかお納めください」
戸部が再び土下座の姿勢をとる。
夫「……もう、頭を上げてください。あなたがミスをしたわけじゃないんでしょう?」
戸部「一人のミスは、組織全員の責任です。誰かが防げたはずなのです。本当に申し訳ありません」
夫「今時、あなたのような方がいるんですね……」
妻「あなたも、この方を見習って土下座したらどう?」
夫「……そうだな。私が悪かった」
夫は妻に向かって土下座をした。戸部はそれを黙って見守る。
妻「離婚の原因は、この人の浮気なんです。私が出産で実家に帰っている間に……」
戸部「左様でしたか。お子さまは今?」
妻「隣の部屋で寝たところです」
夫「すべて私が悪かったんです。妻が里帰りしていて欲求不満で、そのぉ、つまり、溜まっていたんです。そこに会社の飲み会で女性に誘われ……、寂しさに負けてしまって……」
戸部「心中お察しします。実は、離婚の危機が最も多いのは第一子の誕生直後なのです」
妻「そうなんですか?」
戸部「はい。奥様は初めての育児で心身ともに限界。なのに、共同作業であるはずの子作りをした夫が自分勝手に振る舞えば、絶望されるのは当然です」
妻「そうよ、その通り! 子供ができるまでは、あんなに優しかったのに……」
夫「すまん……本当にすまん」
戸部の隣に土下座している夫が妻に向かって、再度玄関の土間に頭をこすりつけた。
【03】 『愛の三要素』って何?
夫の土下座が一段落したところで、
戸部「奥様、『愛の三要素』という言葉をご存知ですか?」
妻「愛の……三要素? そんな言葉が、あるんですか?」
戸部「はい。『思いやり』と『寛容』、そして『許し』です」
妻「……」
戸部「もし、これを通勤時間帯の満員電車に例えて説明するならば、高齢者や妊婦さんに席を譲る。これが『思いやり』です」
妻「それなら、私だってやっています」
戸部「次に、揺れた拍子に誰かに足を踏まれても『わざとじゃない、仕方ないわ』と受け入れる。これが『寛容』」
妻「それも……わかります」
戸部「そして最後。もし痴漢にあい、その痴漢が逮捕され刑期を終えて出てきたとします。このような理不尽な害を与えられた相手が、その報いを受け、反省して戻ってきたとき、過去をすべて水に流すこと。これが『許し』です」
妻「それは……難しいわ」
戸部「では、その人を一生恨み続けますか? 恨み続ける側も、残りの人生をその暗い感情に費やすことになります。それは両者にとって、あまりに寂しい人生だと思いませんか?」
妻「……」
少し間を置いて、
戸部「奥様、離婚届の証人(2名)の欄はどうされますか? 私共でも、あるいは……」
妻「……少し、考えてみてもいいですか?」
戸部「もちろんです。お決まりになりましたら、いつでもご連絡ください」
帰りの車中。
芽衣「……勉強になりました。どんなマニュアルより心に響きました」
戸部「身銭を切るのも誠意のうちだからね」
芽衣「いつも、ああやって自腹でカードを?」
戸部「相手の落ち度とこちらの責任のバランスによるさ。500円の時もあれば、数万円になることもある」
芽衣「年間でいくらくらい使うんですか? 10万とか……?」
戸部「月一万程度は覚悟している。酒もタバコもやらないから、その分だと思えば安いもんだ」
芽衣「それ、予算で落ちないんですか?」
戸部「財政課が許すはずないだろう。『ミスするな』で終わりだよ」
芽衣「……それもそうですね」
それから3日後。夫から一本の電話が入った。
夫「『子供のためにも一年間様子を見てやり直そう』と妻が言ってくれました。書類がシュレッダーされたのは、『もう一度考え直せ』という啓示だったのかも知れません。ですので、離婚届はもう出さないつもりです」
戸部「そうですか。よかったです」
夫「いただいたカードは、郵送でお返しします」
戸部「いえ、それは私からの『再婚祝い』です。どうかお受け取りください」
妻が電話口に出た。
妻「ありがとうございます。この前のカードで美味しいものを買ったんです。今度は家族でスイーツでも買わせていただきますね」
戸部「ぜひ。最近のコンビニスイーツは専門店に負けませんから」
妻「本当にありがとうございました。また何かあったら、あなたを訪ねていきますね」
戸部「いつでもお待ちしております」
電話を切った戸部が、課内に響き渡る声で言った。
戸部「課長、うまくいきました! 離婚届は提出せず、やり直すそうです!」
課長「……そうか」
珍しく、課長の口元に笑みがこぼれた。
早苗が戸部に小さな拍手を送る。住民課に、久しぶりに爽やかで穏やかな空気が流れた。
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【後書き】
「たかが一枚の書類、されど一枚の人生」。 窓口に置かれた離婚届には、そこに至るまでの葛藤や涙が詰まっています。本作では、課長の不用意な行動から始まった騒動が、皮肉にも一組の夫婦の未来を繋ぎ止める結果となりました。
戸部さんが語った「愛の三要素」、『思いやり』『寛容』『許し』。これは夫婦の間だけでなく、ミスをなすりつけ合う組織や、日々理不尽な苦情にさらされる公務員の現場にこそ必要な光なのかもしれません。
煙に巻かれ、喉を痛めながらも「誰かの人生」に真摯に向き合った職員たちの姿に、少しでも温かい風を感じていただければ幸いです。
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【作者よりお願い】
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